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03

 数日後。王宮でルカ殿下の参加した任務の成功を祝う夜会が開催された。


 夜会会場のシャンデリアから降り注ぐ光は、金と銀に縁取られた大広間を昼のように照らしている。その光は、貴族たちのまとうドレスや宝石の美しさをさらに際立たせていた。

 色とりどりのドレスで着飾る貴族令嬢たちの中で、聖女は純白の聖衣をまとう。それは侯爵令嬢であるシャルロット様でも、平民のわたしでも同じ。


 わたしは、その喧騒から滑り落ちるようにして、人気のないバルコニーへと逃げ出した。

 扉を開けた瞬間、ひやりとした夜風が頬をなで、少しだけ呼吸を楽にしてくれる。

 手すりに指をかけ、そっと身を乗り出す。

 見下ろせば、高い城壁の向こうに王都の灯りが広がっている。無数の灯火は、地上に散らばる星のようで、その一つ一つの中に、誰かの暮らしがあるのだと思うと、不思議な気持ちになった。あの中のどこかに、わたしが一人の人間として生きられる場所はあるのだろうか。


(……このまま、逃げること、できるかな)


 バルコニーの縁に手をかけ、暗闇へと目を凝らす。もし、あの城壁を越えられたなら。

 そう考えた時だった。


「随分と熱心に、外を眺めているんだな」


 背後から響いた、低く、落ち着いた声。心臓が大きく跳ねた。

 振り返るよりも早く、その存在がすぐ隣に立ったことを、肌で感じる。


「――小公爵様」


 公爵家の令息、オリヴィエ様だった。月光を溶かしたような銀髪。感情を映さないアメジストの瞳。整いすぎた顔立ちは、まるで精巧に作られた彫像のようだ。

 わたしは慌てて姿勢を正し、小さく頭を下げた。オリヴィエ様はわたしに視線を落とす。


「こんなところで何を?」

「……少し、風に当たっていました」


 わたしはそう答えながらも、胸の奥の動揺は隠しきれなかった。どうして、オリヴィエ様はわたしに話しかけてくるのだろうか。まともに話すのはこれがはじめてだ。


「逃げたいのか?」


 オリヴィエ様のその一言にビクっとして、わたしは慌てて首を横に振った。


「い、いいえ……!」


 反射的に首を振る。


「……今夜、殿下はカタコンベでのきみの功績を称え、筆頭聖女候補として発表するつもりだ」

「えっ……」


 思わず声をあげた。どうしてそんなことに。その心情が出てしまって、顔を歪めてしまう。


 次の瞬間だった。

 オリヴィエ様の手が、持っていたグラスを傾けたのは。


「――っ!?」


 深紅の液体が、わたしの胸元から腰へと流れ落ちていく。一点の曇りもない白い聖衣が、見るも無惨に染まっていく。


「――手が、滑った。すまない」


 口ではそう言うが、オリヴィエ様の声には微塵の焦りもない。むしろ、計算通りの結末を眺めるような、冷静な響き。

 あまりのことに、わたしはぽかんとしたまま動けなかった。


「そんな汚れた服で王族の隣に立つのは、控えた方がいいだろう」


 そう言って、オリヴィエ様は懐から取り出した真っ白なハンカチで、わたしの頬に飛んだ一滴を拭い去った。その動作は驚くほど丁寧で、優しかった。

 わたしは頭を精一杯回転させ、ようやく言葉を口にした。


「……わたしを、助けてくださったということですか?」

「さあ」


 オリヴィエ様は背後の給仕を顎で呼び、空のグラスを預けると、流れるような動作でわたしの腰を抱き寄せた。


「――っ!?」


 抗議の声を上げる間もなく、身体がふわりと宙に浮く。


「聖衣を汚した責任を取ろう。着替えを用意させる」


 オリヴィエ様は、わたしを抱え上げたまま夜会の中心を突き進んでいく。周囲の視線が一斉に集まるのを感じる。ざわめき、驚き、好奇――それらすべてを、彼はまるで存在しないかのように無視していた。

 視界の端で、何があったのかとルカ殿下が眉をひそめている姿が見えた。

 けれど、オリヴィエ様は振り返ることすらしない。


 重厚な扉が閉ざされ、喧騒は遠ざかった。



 ♰ ♰ ♰



 静寂に包まれた別棟の控室。

 閉まる扉の音が、やけに大きく響いた気がした。二人きりになった瞬間、彼はようやくわたしを床に降ろした。


「小公爵様、これは、あの……いったい……」


 さすがに、困惑の目を向ける。若干の非難が含まれるのも仕方がないだろう。だが、オリヴィエ様は謝罪するどころか、さらに一歩、逃げ場を奪うように距離を詰めてきた。


「親子だからといって、愛があるとは限らないと、きみは言った」


 ワインの染みが残るわたしの聖衣を見つめながら、彼はぽつりとつぶやいた。

 その声は、先ほどまでの冷静な公爵令息のものではなく、どこか遠い過去の傷跡をなぞるような、ひどく脆い響きを帯びていた。


 わたしは、大聖堂でシャルロット様につい口を出してしまった出来事を思い出す。


「それが何か――」

「きみのその言葉が、すべてを無価値なものに変えた」


 彼は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。わたしは思わず、後ずさる。背中が冷たい扉に当たり、逃げ場がなくなる。


「逃げないでくれ。きみを傷つけたりしない」


 彼の手が、わたしの頬にそっと触れる。至近距離で見つめ合うアメジストの瞳には、深い孤独の色がにじんでいた。


(……どうして、そんな、捨てられた子どものような目でわたしを見るの?)


「きみの言葉で、ようやく気がついた。俺が囚われていたものの正体に。ずっと、檻の中で生きているように感じていた。公爵家の道具として」


 檻。その言葉が、わたしの心に深く突き刺さる。


 オリヴィエ様の瞳の奥にあるものを、わたしはよく知っていた。

 それは、親に愛されることを諦め、けれど期待を捨てきれずにいた、前世のわたしの目だ。

 完璧な公爵家の令息。公爵家の至宝。そんな呼び名の下に隠されていたのは、かつてのわたしと同じ、誰にも触れさせられないほどに傷ついた、幼い子どもの魂だった。

 彼もまた、愛という名の幻想に失望し、それでもなおそこで、誰かに見つけられるのを待っていたのだと、直感的に悟ってしまった。


 わたしを苦しめていた透明な鎖を思い出す。違う形をしていても、その本質は同じなのかもしれない。


(あなたも――)


 頬に触れる彼の指先から伝わる、微かな、けれど確かな震え。それが、わたしの心を、静かに揺さぶり始めていた。

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