第2節 クィーラと月
優雅な音楽が扉の内側から漏れ出ていた。すっかり日の落ちた夕暮れは、西の空を僅かに赤らめる。
すすり泣きをこぼし、手すりの脇にうずくまっているのは今年で五歳になるクィーラ。泣き腫らした幼い頬が、夕焼け空と同じように仄赤く染まる。
扉が開くと、気遣わしげに一人の青年が彼女を見つける。
「こんなところにいたのか。父上が心配していたぞ」
「私、ずっとここにいます……」
絞り出した声は、漏れ出た舞踏会の演奏にも負けそうなほど、か細いものだった。
クィーラの兄であるガノアは、しゃがみこんで彼女の肩を掴む。
「何か言われたのか? 気にするんじゃない。所詮父上の僻みをお前にぶつけているだけだ」
こわごわとした声で私が「でも……」と言うと、扉の窓ガラスに、影が差し込んだ。
再び戸が開くと、「あらぁ」と派手なドレスに身を包む少女たちが姿を現した。
「ここにいたのぉ泣き虫クィーラ。御兄弟に慰めてもらっていたのかしらぁ?」
夜風に変わりつつある冷たい空気と、陰険な女たちの笑顔に、クィーラの背筋が震える。
庇うように前に出たガノアは、「おい、何なんだお前ら」と凄んだ。
すると少女たちは口元を歪める。
「まぁ、口の利き方がなっていませんわねぇ。これだから平民上がりの下賤な方々は……」
「なんだと!」
——やめて。
「子爵の分際で出しゃばるからよ。父親があんなだから、子どもたちもいい気になってるんだわ」
「クィーラには関係ないだろ!」
——やめて、やめて。
「あらそう? 商売でちょっと成功したからって平民上りは平民上り。貴族としての品位が下がるってみんな言ってるわ。やだやだ。もう十分いい思いをしたんだから、そろそろ爵位を返上すればいいのに……」
——もういい、やめて!
着飾ったドレスを握りしめ、クィーラは跳ねるうさぎのように走り出した。
——よく似合っているじゃないか。ほら、髪飾りも。
私を褒めてくれたお父様とお兄様の声が滲んでいく。
高笑いのような嘲笑が薄く背中を裂いた。ちりちりと頭の奥が痛みだし、恥ずかしさと申し訳なさと怒りにお腹の底が重くなる。
私は役立たずだ。家名に泥を塗ることしかできない、汚点。
貴族の子女は幼い頃から厳しい教養を身につけさせられる。その過程で判明した才覚を見出され、時にそれは容姿であり、時にそれは魔術であり、子どもの将来を決定づけた。
特に爵位の低い息女ともなると、こうした競争は激しかった。家を継がない分、実力主義的な要素が濃くなるからだ。
抜きんでた者は勝者であり、配下にもなれない者は皆敗者。
クィーラはいまだ、その才覚の兆しに出会えないままだった。
パンプスが擦れて足を痛め、悔しくなって投げ捨てる。身の丈に合わないこんな靴、やはり履いてくるべきではなかった。
生垣の中で立ち止まり、髪を振り乱す。バレッタを外し、両手で胸に抱いた。
上下する肩の周りを木々が揺れ動いた。そよぐ木の葉の音が、彼女たちの笑い声に聞こえ、ぎゅっと両目を閉じる。
華やかな舞踏会とは正反対な、暗くて孤独な庭園。暗闇に浮かび上がった大きな月が、悠々と夜を望む。
いつか報われると信じていた心が、歪んだ猜疑心に穢されていく。
このまま、見捨てられてしまうのだろうか。
心が離れていく兄や父のことを思うと、涙がこぼれた。一度そう思ったら、溢れて止まらなかった。
私には何もない。誰にも相手にされない。どこにも居場所はない。もう、どこにも、ないんだ。
頭の奥に痛みが走って――風の音がぴたりと止んだ。俯く姿勢で見ていた石畳が、影に色を変える。
不思議に思い、クィーラは顔を上げた。
そこに広がる青い空が、そっと手を差し伸べていた。絶え間なく浴びせられる月の光が、お腹の重さを和らげる。
——星は願いを叶える。
どこかで聞いたおとぎの話。
眩しくて閉じた瞼の裏側まで、光が貫いていく。
「な、なに――!」
記憶をいくら辿っても、それ以上のことは思い出せなかった。




