第3話 屋根の上の小さな竜 ③
問題は、屋根からどう連れてくるかだった。
「捕まえなくていいのか?」
ルカは縄を持っている。使うつもりというより、念のためという顔だった。
「……追えば、怖がる」
「出口だけ空けて、自分で選ばせる」
フィオが続けた。
「来なかったら?」
「その時考える」
「一番嫌いな答え」
「現場ってそういうもんでしょ」
「それ受付の人も言いそう」
旧巣から持ってきた石片と草を、少しずつ道沿いに置いていく。人を離して、逃げ道を一つだけ空ける。
ボルは前へ出た。盾は低く。構えない。ただ持つ。
しばらくして、屋根裏から小さな竜が姿を見せた。犬よりは大きい。灰色の鱗が岩に馴染んでいる。翼はあるが、大きく飛ぶためのものではなさそうだった。
竜はこちらを見た。ルカ。フィオ。ボル。住民。全部。怖いのだと思う。向こうから見ても同じなのだろう。
ボルは動かない。
一歩、竜が下りる。また一歩。草。石。匂い。少しずつ、道沿いに進んでくる。押されずに。追われずに。
旧採石区画の手前で、止まった。
そこから動かなくなった。前には新しい巣がある。置いた草の匂いもあるはずだ。それでも、首を低くしたまま一歩も出ない。
待った。日が傾き始めても、待った。
「……来ない」
ルカが小声で言った。
「怖いんでしょ。知らない穴だし」
「前の巣の草、入れたのに」
「匂いだけじゃ、足りないのかも」
ボルは答えなかった。見れば分かると思っていた。怖がっているなら、怖くないようにすればいい。追わなければ来る。そう思っていた。
来なかった。
「すみません、道具そこに置きっぱなしで――」
若い作業員が走ってきた。親方の指示が出る前から、旧区画の入口近くの石の上に置かれていた金属の道具。区画へ入るつもりはないらしく、入口から手だけ伸ばす。それで届く、はずだった。
入口の岩が死角になっていた。作業員の側からは岩陰が見えない。竜の側からも、作業員は見えていなかった。
至近距離で、二人が同時に止まる。
「え」
作業員の手が滑った。
ガン!
金属が石へ当たって、甲高い音が響いた。
竜の身体が跳ねる。目が開く。爪が上がる。
「ボル、どうする!?」
フィオの声が飛んだ。
前なら、状況を見て、ルカが決めるのを待った。今、フィオは自分に聞いた。
答える前に、身体が動いていた。
作業員と竜の間へ走る。大盾を構える。
ここで盾の縁を振れば、竜の爪を弾ける。そのまま体勢を崩せば、ルカが縄を掛けることもできる。三人なら、たぶんできる。
でも、屋根で見た爪痕を思い出した。人の方を向いていなかった傷。音が鳴るたび、奥へ潜ろうとしていた身体。
この竜はずっと怖がっていた。元の巣を壊されて、知らない町へ逃げて、屋根では人に囲まれて、ようやく新しい場所へ来たところでまた大きな音がした。そこで正面から殴り返せば、もっと怖がる。もっと爪を出す。
違う。
ボルは盾を振らなかった。地面へ落とすように立てる。
ドン、と爪が盾へ当たった。重い。押し返さない。殴らない。今の盾は武器ではなく、壁だ。
爪がもう一度来る。受ける。足を踏ん張る。
「後ろ」
「は、はい!」
作業員が下がる。距離が開いて、金属音も消える。
ボルはまだ押さない。ただ立っている。竜の前には進めない場所がある。でも横は空いている。その先に、新しい巣がある。
盾をほんの少し下げた。竜の目が見える。怒っているように見えて、違う。怖いから爪が出た。
「……大丈夫」
誰に言ったのか、自分でも分からない。作業員か、竜か。たぶん両方だった。
竜が横を見た。新しい巣。一瞬止まって、それから走った。岩陰へ飛び込んで、奥で身体を丸める。
誰も怪我をしなかった。
ボルは盾を下ろしたまま、巣の入口を見ていた。
入った。でも、あれは選んだのではない。音に追われて、一番近い穴へ逃げ込んだだけだ。さっきまで一刻近く待っても動かなかったものが、怖くなった途端に一瞬で入った。
「……ボル?」
フィオが横に来た。
「……入った」
「うん」
「……怖かったから」
フィオは少しだけボルを見て、それから巣を見た。何も言わなかった。
しばらくして、親方が新しい巣を少し離れた場所から見ていた。
竜はまだ警戒していて、奥から出てこない。その向こうでは別の採掘面の音が続いている。工事は止まらないし、港も広がる。それは変わらない。
「壊すつもりじゃなかった」
親方が言った。
ボルは親方を見た。責める言葉は出てこなかった。たぶん、必要もない。
「……知らなかった」
「ああ」
親方は作業小屋から測量図を持ってきて、鉛筆を取った。旧区画。巣の位置に印をつける。周囲を線で囲む。それから外へ出て、区画の端へ一本だけ杭を打った。採掘から外す場所の目印だ。
大げさな約束はしない。二度と同じことはしない、とも言わない。でも次から、そこは図にある。見える。
ボルは、その線を少しだけ長く見た。
夕方の冒険者ギルドで、受付係が報告を確認した。
「人的被害なし。小型竜は旧採石区画へ移動」
「はい」
「特徴からすると、岩陰竜ですね。採石場みたいな乾いた岩場に住む種です」
「岩陰竜」
「名前、知らなかった」
「依頼票は小型竜って書いてありましたからね」
帳簿へ記入が入る。今回は未達成ではない。
「討伐なしで済んだんだね」
「ボルが、怖がってるって気づいたから」
ルカがすぐ続けた。
「巣もボルが作った」
「俺も縄張ったけど」
「今そこ?」
「一応」
受付係が小さく笑って、それからボルを見た。
「ありがとう、ボル」
名前を呼ばれること自体は珍しくない。ルカもフィオも普通に呼ぶ。でも、仕事と判断と結果に対して、正面からありがとうと言われるのは少し違った。
ボルはほんの少し視線を下げた。
「……うん」
小さい返事だった。それで十分だった。
「報酬、銅貨十枚です」
「十枚」
「そこは反応するんだ」
「するでしょ」
「安定してるな」
ギルドを出ると、港町は夕方になっていた。三人の左胸には、朝と同じ見習い章がある。
「今日くらい、一段上がってもよくない?」
ルカが章を指で弾いた。
「昨日旗上げて、今日竜まで移したぞ」
「見習い依頼を二件達成しただけ」
「言い方」
「事実」
「ボルは上げていいだろ」
ボルは歩きながら、一度だけ自分の章を見た。昨日から同じ。傷も、色も、ランクも変わっていない。
「……三人の依頼」
ルカが少し黙った。フィオがほんの少し笑う。
「そうね」
それで終わる。誰か一人の手柄にしなくていい。今日は本当に三人でやった。
市場へ戻る途中、採石場から来た荷車が今日も港へ石を運んでいた。車輪が軋んで、石の粉が落ちる。人が働いて、港が広がって、町は止まらない。
荷車の横を、買い物袋を提げた人や、魚箱を抱えた人がすれ違っていく。荷車を避けて道の端へ寄る人がいて、三人も反対側へ寄った。それだけで、互いに顔も見なかった。
同じ頃、旧採石区画の岩陰で、岩陰竜は新しい巣の奥に身体を丸めていた。
遠くからまだ採石の音がする。カン、カン。そのたびに、耳のような突起が少し動く。
入口には古い草がある。元いた場所の匂いがする。その外には、誰もいない。




