第3話 屋根の上の小さな竜 ②
軒下の灰白色の粉。街道を下りてくる石材の荷車。車輪の下へ落ちる粉。
「……同じ岩」
フィオが横から覗く。
「採石場から来たってこと?」
「多分」
「じゃあ行ってみるか」
ルカはそこで、いつものように走り出さなかった。ボルを見る。フィオも見る。
「……行く」
三人で歩き出した。
採石場は町のさらに東にあった。
入口には柵と開閉式の横木。その内側に作業小屋と、切り出した石を積む置き場。奥へ向かって、岩壁が段になって削られている。足場が組まれ、測量杭が並び、何十人もの作業員が石を割っていた。
カン、カン、と一定ではない音が岩壁の間で跳ね返っている。
振り返ると、遠くに港の防波堤が見えた。港が広がる。船が増える。だから石が要る。
ボルは採掘面を見ながら歩いた。一ヶ所だけ、不自然に削り跡が途切れている。
「……ここ」
新しい切断面。その脇に小さな割れ目があって、乾いた草が詰まっていた。石色の小さな鱗。爪痕。屋根で見たものと同じ幅だった。
巣だったのだと思う。ここが元の場所だ。
ボルが岩へ手を当てた、その瞬間だった。
ゴ、と地面の奥から小さな揺れが伝わってきた。
「今の、採石?」
ルカが足元を見る。近くの作業員たちも手を止めた。
少し遅れて、四十代くらいの親方が来た。岩壁を見上げる。
「いや。今日はまだ火薬を使ってない」
揺れはすぐに止まった。
ただ、ボルの手の下で、岩の細い隙間からごく少しの水がにじんでいた。指先で触れると冷たい。潮のような匂いがかすかにした。
海はここから離れている。地下水かもしれない。海水かもしれない。分からない。
「昨日までは乾いてたんだがな」
「地下水?」
「さあな」
ボルは指についた水を一度だけ見て、手を払った。
「お前たち、危ないぞ。そこは今日切った場所だ」
親方が言った。
フィオが乾いた草と鱗、それから爪痕を示す。
「ここに小型竜の巣があったみたいです」
「……巣?」
親方の顔に浮かんだのは、本当の驚きだった。
「そんなものがあるなんて、誰も……」
言い訳には見えなかった。だからフィオも責めない。
「今、その竜が東区の屋根にいます」
「町へ?」
「多分、ここから逃げた」
「工事、止められないんですか?」
ルカが聞いた。
親方はすぐには答えず、作業小屋から採掘予定図を持ってきて広げた。採掘面。防波堤。予定量。搬出路。
「港を広げる石が要る。明日もここは切る」
「じゃあ、戻せないのか」
「戻したところで、また壊すことになる」
正しかった。嫌な意味ではなく、本当に。止めれば石が足りない。工事が遅れる。荷役が詰まる。仕事が止まる。竜のために全部やめろとは、簡単には言えない。
一件目の荷車屋と少し似ている。悪い人がいるわけではない。それでも困るものは出る。
親方が図の端を指した。
「旧切り場なら、もう使わない。防風壁として残す予定だ」
採掘区域から離れた区画だった。人の動線も少ない。
ルカが見て、フィオも見て、二人とも最後にボルを見た。
前ならルカが「じゃあそこにしよう」と言っていた。今日は待っている。
「……見る」
旧採石区画は、今の採掘面よりずっと静かだった。防風壁として残された岩肌が立ち、足元は乾いている。遠くから工事の音は聞こえるが、身体に伝わる振動はかなり弱い。
ボルはしゃがんで、手のひらを地面へ当てた。次に岩肌。乾いている。雨が入り込みにくい。人の通路からも外れている。入口は狭いが、小型竜なら問題なく入れる。
上を見る。風。雨の流れ。音の響き方。入口。退路。一つずつ確かめる。
「ボル、これ、どう思う?」
顔を上げると、フィオはもう岩陰を見ていなかった。ボルを見ていた。ルカも何も言わない。二人とも、次へ進む前に自分の答えを待っている。
妙だった。
今までは、見つけたものを伝えればよかった。その先をどうするかは、だいたいルカかフィオが決めた。
今は、二人が待っている。
ボルはもう一度岩陰を見た。見落としがないか。地面。振動。雨。人の動線。入口。逃げ道。元の巣材を置ける場所。
「……作れる」
「巣?」
頷く。
「ここなら?」
「……多分」
絶対とは言わない。でも、今ある候補の中では一番いい。
「じゃあ作ろう」
ルカがすぐ立ち上がった。
「珍しく相談してから早い」
「相談したからいいだろ」
「そこは成長」
「上からだな」
ボルは二人の会話より先に、もう石を選び始めていた。
巣を作ると決めても、ただ穴を空ければいいわけではなかった。
ボルは入口の幅を手で測った。自分の肩幅より少し狭いくらい。広すぎれば落ち着かず、狭すぎれば入れない。
「それ、そこ?」
ルカが重い石を抱えたまま聞く。
「……もう少し右」
基礎の石を据えて、側壁を組み、上に平たい天井石を渡す。ルカが縄と支え木で仮止めをした。
ボルはその結び目を見て、手を止めた。
「解いて」
「え」
「解いて」
「あ、ごめん」
ルカが縄を解いた。ボルは支え木の位置を半分ずらして、同じ縄をもう一度結んだ。
「どこが駄目だった?」
「引くと緩む」
「緩んでた?」
「引けば緩む」
ルカが結び目へ顔を近づけた。しばらく見て、それからもう一度見た。
「……全然分かんない」
「分からなくていい。覚えればいい」
これだけ喋るつもりはなかった。ただ、緩む結び目の上へ石を乗せるのは、無理だった。
「こっち、少し高くした方がいい」
上から斜面を見ていたフィオが言った。
「なんで?」
「雨が流れ込む」
「ああ。了解」
ボルは最後に、組んだ天井石を手の甲で軽く叩いた。
音が詰まっている。隙間がない時の音だ。
それで一度だけ頷いて、手の土を払った。
元の巣から回収した乾いた草も、全部ではなく少しだけ運んだ。知っているものがある方が、たぶん入りやすい。
親方は作業員たちへ声を掛けて、旧区画への立ち入りを止めた。
「こっちは近づくな。竜を移すまでは、道具も取りに入るな」
「はい!」
その間も採石は止まらない。少し離れた場所でカン、カンと音が続く。町の仕事は続いて、その横に小さな空白を作っている。
家、とはまだ呼ばない。そこに入るかどうかを決めるのは、向こうだ。




