第3話 屋根の上の小さな竜 ①
朝の港町では、前だけ見て歩くと危ない。
荷揚げ用の縄が頭上を横切るし、鳥人が屋根から飛び降りてくることもある。二階の窓から洗濯物が落ちてくることもあれば、運が悪いと掃除の水まで飛んでくる。
そして今日。
「危な――」
ルカの腕が横へ伸びた。フィオとボルの胸元をまとめて押して、三人が半歩ほど後ろへ下がる。
その直後、ガシャッ、と赤茶けた瓦の欠片が目の前の石畳へ落ちて砕けた。
三人は同時に足元を見て、それから上を見た。
通り沿いの古い集合住宅。何度も修理された屋根の奥から、低い唸り声が聞こえる。
ぐるる。
「今の、なんだ?」
フィオが目を細めて屋根を見上げた。
「依頼欄に出てたやつかも」
「何」
「小型竜」
その単語を聞いた瞬間、ルカの目がほんの少しだけ明るくなった。
「竜?」
「なんで嬉しそうなの」
「嬉しくない」
「冒険者っぽいなとは思った」
「それを嬉しいって言うの」
二人が言い合っている横で、ボルは屋根を見続けていた。もう唸り声はしない。瓦が一枚、端からずれているだけだ。
落ちた瓦のそばに、白っぽい粉が混じっている。砂とも漆喰とも違う。しゃがんで指先で触れると、細かく乾いていた。
石の粉のようだった。何の石なのかまでは分からない。その場では、それ以上考えなかった。
冒険者ギルドへ戻ると、依頼票はまだ残っていた。
港町東区・屋根に住みついた小型竜の追い払い
被害欄には、割れた瓦、小煙突、洗濯物、屋根材。人的被害はなし。見習い向け。報酬は銅貨十枚。
「十枚」
フィオが真っ先にそこを読んだ。
「そこ?」
「報酬欄は依頼票に書いてあるんだから見るでしょ」
「正論」
前ならルカは、竜という単語だけで依頼票を持って受付まで走っていたかもしれない。今日は、少なくとも最後まで読む。一日目から見れば、かなりの進歩だった。
受付係が依頼票を受け取り、三人を見る。
「人を襲った報告はありません。ただ、このままだと瓦や煙突が落ちて事故になります」
「追い払えばいいんですよね」
「そうです。無理に追い詰めないでください」
「小型なんですよね?」
「小型でも竜は竜です」
「……ですよね」
ルカの視線が一度、背中の短槍へ落ちる。
「なら、槍で脅して――」
そこまで言って止まった。ボルを見る。
「……いや。ボル、先に見た方がいいよな?」
ボルは少しだけ目を上げた。
これまでなら、ルカが先に決めて、フィオが止めて、そのあとでボルが必要な場所へ入る。だいたいそういう順番だった。
「……見る」
「じゃ、それで」
ルカは簡単に言った。頼られた、と考えるほど大げさではない。ただ、自分が見るまで待つと言われた。それだけなのに、何となく胸の奥に残る。
受付の後ろの棚には、三人が持ち込んだ布包みが置かれている。小さな札が一枚。
調査中
三日月形の刻印が入った捕獲罠だった。
「昨日預かった罠、まだ調べていますからね」
「はい」
それで終わる。今は、今日の依頼がある。
東区へ向かう途中、ボルは石材を積んだ荷車と何度もすれ違った。
灰白色の切り石。東の採石場から港へ下りる搬入路だ。沖では新しい防波堤が半分ほど海へ伸びていて、荷下ろし場には荷車が列を作っている。町の端には、少しずつ新しいものが増えていた。
荷車の車輪が石畳を削って、細かな灰色の粉を落としていく。
朝、瓦の下にあった粉と似ている。ただ、色が同じなだけなら何でも似る。決めるには早い。
「小型って書いてあるけど、竜は竜だからね」
前を歩きながらフィオが言った。
「分かってる。今日は待つって言っただろ」
「誰に?」
「ボルに」
「自分に言い聞かせた方がいいと思う」
「聞こえてる」
「聞こえるように言ってる」
ボルは返事をしない。少しだけ口元が緩んだ。
東区の集合住宅へ着くと、被害は思っていたよりはっきりしていた。割れた瓦が軒下に積まれ、小煙突は根元から傾き、洗濯物を干す木枠にも細かな傷がある。
「夜になると、屋根の上を走り回るんだ」
住民の男が困ったように言う。
「昨日なんか煙突がずれたよ」
「子どもが怖がって眠れなくて」
「誰か襲われた?」
「それはない」
「家畜は?」
「聞いてないね」
「食べ物盗られたり?」
「それも……たぶん、ない」
住民たちは怖がっている。当然だと思う。姿がほとんど見えないし、何をしているのかも分からない。夜の屋根。唸り声。落ちる瓦。しかも相手は竜だ。
見えないものは、実際より大きくなる。
「追い払ったって、また来るだろ」
奥から、子どもの手を引いた男が言った。
「竜なんだろ。冒険者なら、いっそ――」
最後までは言わなかった。言わなくても分かった。
ルカの手が短槍の柄に触れた。依頼票には追い払いと書いてある。でも、この人の子どもが夜に眠れないのも本当だった。
ルカはボルを見た。ボルはまだ屋根を見ていた。
「一回、離れてください」
ルカが住民たちを下がらせる。
「屋根、見る」
フィオが助走をつけて低い庇へ飛び上がった。一度に上までは行かない。前と同じように、届く場所を繋いでいく。
ボルはそれを一瞬だけ見てから、軒柱の爪痕へしゃがんだ。
細くて浅い傷が、何度も同じ方向へ滑っている。人のいる側へ踏み込んだ傷ではなかった。屋根の奥へ逃げようとして、爪を立てた跡だ。
その時、ガラッ、と上で音がした。
「!」
大きな瓦が数枚落ちて、その隙間から灰色の尾が一瞬だけ見えた。
「やっぱり暴れてる!」
ルカの手が短槍へ伸びる。ただ、抜かない。ボルを見る。
「このままじゃ屋根がもたない!」
屋根の上でフィオが距離を取った。
ぐるる。
また低い唸りがする。ボルは耳を澄ました。
さっきより低い。喉の奥で震えている。前へ出るための音ではなかった。身体を小さくして、もっと奥へ潜ろうとする時の音だ。
屋根の奥で、また爪が滑る。やはり前ではなく、後ろへ。
ボルにはその動きが妙に分かった。怖い時。逃げたいのに、どこへ逃げればいいのか分からない時。身体は前より先に、後ろを探す。
遠くから音がした。
カァン。
東の方角。石を叩く音だ。
その瞬間、屋根裏で何かが動いて、影がさらに奥へ潜った。
もう一度、カァン。同じ反応だった。縮こまって、隠れて、逃げる。
ボルは顔を上げた。
「威嚇じゃない」
「え?」
ボルは爪痕を指した。
「爪が、人の方を向いてない。奥へ逃げようとして、滑ってる」
フィオも下を見る。そこへまた遠くの金属音がして、屋根裏の影が震えた。
「怖がってる」
少し静かになった。住民たちも、ルカも、フィオも、さっきまでと同じ屋根を少し違うものとして見ている。
フィオが一段ずつ降りてくる。
「ボルの言う通りだと思う。家畜も襲ってない。食料も荒らしてない。屋根を壊したいんじゃなくて、隠れる場所を探してる」
ルカは短槍から手を離した。
「……じゃあ、なんでここに来た?」
その答えは、もうボルの指についていた。




