第2話 風見塔の旗を上げろ ②
一度地上へ戻ったフィオは、予備滑車を両手で持って眉を寄せた。見た目より重い。金属の塊だから当然だ。
「無理?」
「その聞き方嫌い」
「じゃあ」
「持つ」
「言うと思った」
「腹立つ」
予備滑車。新しい縄。補助紐。いつもより確実に重い。そのぶん飛距離は短くなるし、風に押される量も増える。
ただ、一度通った足場だ。距離も高さも、だいたい分かっている。
一つ上がって、休む。次。また飛ぶ。
やっぱり遅い。それでも、急いで落ちたら全部終わる。自分も、滑車も、依頼も。
風が強く吹いた。フィオは足場の上でしゃがみ、翼を畳む。
「……待つ」
今ではない。
吹く。強い。また。その次。
緩む。
風見車が少しだけ遅くなった。フィオは足場を蹴る。
身体が沈む。重い。いつもより伸びない。
それでも、次の石へ指が届いた。
「っ」
足を掛ける。ぎりぎり。
「フィオ!」
「大丈夫!」
そう返してから、笑う。
一気に行けなくていい。届いた。なら次だ。
海の向こうで、一隻の小型船が港へ向きを変えた。
最初に気づいたのは塔守だった。
「船が入る!」
これまでほとんど声を荒げなかった老人の声が、初めて大きくなる。
フィオも海を見た。小さい。でも、こちらへ向かっている。進路の先には、昨夜の嵐で危険になった浅瀬。
「あとどれくらい!」
「長くない!」
フィオの手元。予備滑車。まだ固定途中。
一番速い方法は、すぐ横にある。古い縄。巣。帆耳リス。
切れば間に合う。
唇を噛んだ。
まだ別の方法がある。なら、そっちを最後までやる。
「ボル!」
下へ叫ぶ。
「こっち、まだ!」
風。声が飛ぶ。ボルが顔を上げた。
「鉄環!」
「何!」
「内側!」
「聞こえない!」
一瞬、ボルが口を閉じる。
次の瞬間、普段の何倍もの声が返ってきた。
「内側の梁!」
フィオが止まる。見る。外壁ではない。少し内側。梁の根元に、鉄環。
「あった!」
予備滑車を固定する。角度。留め棒。抜け止め。確認。
「ルカ!」
「行ける!」
「投げて!」
下でルカが新しい縄の結び目を確認する。一度、もう一度。それから投げた。
斜め上へ。風に持っていかれる。
右。
考える前に、羽が開いていた。
危ない時だけ、順番が逆になる。身体が先で、頭が後だ。
フィオは足場を蹴った。短い飛行。手を伸ばす。縄。掴む。
「取った!」
その瞬間、横風が身体を押した。元いた足場から離れる。
戻ろうとして、やめる。今は強い。風は次に緩む。
風見車を見る。旗の端を見る。一度。二度。三度。
今。
翼を開く。右側の別の足場へ。着地。
「……っ!」
膝が石へつく。でも、縄は離していない。
「フィオ!」
「取った!」
「大丈夫!?」
「あとで聞いて!」
新しい縄を予備滑車へ通す。内部の梁、鉄環、小さな開口。そこから赤旗へ繋ぐ。
「いける!」
ルカが縄を握った。ボルは根元で、縄が噛んでいないかを確認する。
「引くぞ!」
「待って!」
擦れている。少しずらして、角度を直して、固定。
「今!」
ルカが引いた。予備滑車が回る。赤旗が上がり始める。
四分の一。半分。そこで布が風に煽られて一度絡んだ。
「もっと!」
ルカが引く。ボルが横から縄を支える。
四分の三。最後。
赤い布が塔の上へ届いた。風を受けて、大きく開く。
「上がった!」
フィオは返事をせず、すぐ海を見た。
船。まだ進んでいる。一瞬、何も変わらない。
見て。
単帆の小舟だった。乗っているのは三人。舳先に一人、帆柱のそばに一人、船尾で舵を握る一人。
舳先の一人が塔を見上げた。腕が上がる。帆柱の一人が縄を緩めて、帆が少しだけ萎む。船尾の一人が舵を切った。船首がゆっくり向きを変えて、浅瀬から離れていく。
そこで初めて、フィオは息を吐いた。
下では、塔守も船を見ている。
「見えたな」
それだけ言って、次にはもう風見車を見ていた。
船が一隻避けた。だから終わりではない。次の船。次の風。明日。その次。
足場の一番上で、フィオは一度だけ海と反対を向いた。
陸が見える。畑。林。その向こうは白く霞んで、どこで終わっているのか分からない。
一度に飛んでここまでは上がれない。足場を一つずつ使って、上がってきた。
上がったから、見えている。
もっと高いところなら、もっと遠くまで見えるのだろうか。
誰にも言わずに、少しの間だけ、そう思っていた。
夕暮れ、フィオは外壁の足場を一つずつ降りた。最後の短い飛行で地面へ着地する。
「お疲れ」
「ほんとに」
「すごかったな」
「別に」
「褒めてんだけど」
「分かってる」
「じゃあ受け取れよ」
「どう受け取ればいいの」
ルカに素直に礼を言うと、少し負けた気がする。
「フィオ」
ボルが言う。
「何」
「……助かった」
「……うん」
こっちは、なぜか普通に受け取れる。
「俺の時だけ厳しくない?」
「気のせい」
「絶対違う」
「違わない」
「認めた!」
フィオは何も言わず荷物を拾う。
「じゃあ次から俺も」
ルカが少し声を低くした。
「……助かった」
どうやらボルの真似らしい。
「やめて」
「なんで!?」
「なんか腹立つ」
「結局俺じゃん!」
「ボルも何か言えよ」
少し考えて。
「……似てない」
「そこ!?」
フィオは吹き出しかけて、慌てて咳をした。
「今笑っただろ」
「風」
「便利すぎるだろ、その風!」
離れた場所で、塔守がこちらを見ていた。ほんの一瞬だけ、口元が緩んだように見える。
それから仮設した縄へ視線を戻した。
「上がったな」
「はい」
「依頼達成?」
「今日の分はな」
「今日の?」
「明日、下ろせん」
「え」
「縄を梁の内側から回してる。引けば上がるが、緩めても途中で噛む。下ろすにはもう一度登るしかない」
三人とも黙った。塔守は普通の顔をしている。
「仮設だからな。上げることしか考えてない」
「そこまで依頼じゃないですよね」
フィオが即座に確認した。
「依頼には入ってない」
「よし」
「でも直す必要はある」
「それはそう」
「成功したのに宿題増えた感じ」
「仕事ってそういうもんだ」
塔守はまた風見車を見た。
「明日は蝶番だな」
ギルドへ戻る頃には、空はかなり赤くなっていた。
「依頼達成、確認しました」
受付係が帳簿へ印を押す。昨日とは違う文字だった。
達成
ルカがそれをじっと見る。
「……達成」
「達成です」
「報酬は」
「銅貨六枚」
「六枚」
思わず、フィオの声が少し明るくなった。
「そこ一番反応する?」
「大事」
「否定はしない」
受付台の上に銅貨が六枚並ぶ。たった六枚。でも、昨日はゼロだった。
「それと」
ルカが布包みを置いた。
「昨日、森で拾った罠」
「ああ」
受付係が確認する。三日月形の刻印。
「荷車屋の主人からも聞いています。こちらで調べておきますね」
「お願いします」
「何か気になることでも」
「印がついてたから」
「分かりました。記録に回します」
それだけだった。三日月の意味を、まだ誰も知らない。
港町の食堂屋台では、大鍋から湯気が立っていた。塩、野菜、肉、香草。その匂いだけで、今朝の干しパン三等分より勝っている。
三人は横並びに座った。
「うまい!」
「声でか」
フィオもスープを飲む。温かい。ちゃんと塩気がある。柔らかく煮た野菜と、少しだけ肉。
そのまま言うのは何となく癪だった。
「銅貨六枚の味」
「味に値段つけるなよ」
「報酬で食べてるから事実」
ボルが残った銅貨を見る。
「二枚、残る」
ルカの目が光った。
「次の装備を――」
「まず食費」
「え」
「大事だ」
「ボルまで?」
「冒険者ってもっとこう、武器とか買うだろ」
「食べないで戦えるならどうぞ」
「無理」
「昨日、干しパン三等分した人が言う?」
「……食費で」
「よろしい」
フィオは椀を両手で持ち直して、もう一口飲んだ。
熱いのは分かっているのに、口をつける間隔が短い。
昨日は未達成。今日は達成。毎回こうなら楽なのだが、たぶんならない。
左胸を見る。見習い章。ランクも、翼も、飛べる距離も、何一つ増えていない。
それでも、今日、あの塔の上まで行った。
「何見てる」
「別に」
「章?」
「違う」
「今見てた」
「見てない」
「見てた」
「うるさい」
ボルが静かにスープを飲む。少しして。
「……旗」
「何?」
「見える」
指された方を見た。港の屋根越し、ずっと遠い岬。風見塔の上で、赤い旗がまだ風を受けている。
「あれ、まだ下ろしてないんだ」
「入港禁止だからでしょ」
「知ってる」
「ほんと?」
「今日覚えた」
「それならよし」
「上から?」
「誰目線?」
笑う。
沖の船から見れば、誰が旗を上げたかは分からない。それでも、見えれば避けられる。
「……次」
「ん?」
「次の依頼」
フィオはため息をつく。
「せめて食べ終わってからにしない?」
「終わった」
「早」
「じゃあ明日?」
ルカが笑う。フィオは残っていたスープを飲み切った。温かい。ちゃんと腹へ落ちる。
「……依頼票見てから」
「受ける気あるじゃん」
「条件次第」
「最後まで?」
昨日、自分が散々言ったことだった。
フィオは少しだけ黙る。
「……最後まで」
「よし」
「何であんたが合格出すの」
「必要だから」
「それ私の台詞なんだけど」
ボルが、ほんの少し笑った。
「今笑った?」
「……別に」
「絶対笑った!」
「気のせい」
「お前まで!?」
今度はフィオも笑った。少しだけ、誤魔化さずに。
遠い岬では、赤い旗がまだ風を受けている。




