第2話 風見塔の旗を上げろ ①
見習い登録の翌朝、三人は港町冒険者ギルドの外階段に並んで座っていた。
朝食は干しパン一個。それを三等分したものが、それぞれの手の中にある。
「……小さい」
ルカが真剣な顔で言った。
「三等分したからね」
フィオは自分の分を一口かじる。硬い。水分も少ない。噛めば噛むほど、口の中から潤いだけが奪われていく。
「いや、元から小さいだろ」
「じゃあ昨日、依頼達成してればよかったじゃない」
「それ言う?」
「事実」
「でも、あれ連れて帰るのは違っただろ」
「それも事実」
「じゃあ言うなよ」
「お腹空いてるから、ちょっと性格悪くなってる」
「自覚あるんだ」
隣ではボルが自分の分を黙って持っていた。ただでさえ三分の一しかない干しパンが、大きな手の中にあるせいでさらに小さく見える。たぶん一口で終わる。
昨日の依頼を思い返す。幼獣を発見し、傷ついた母獣も発見し、罠を外して手当てをした。親子とも無事で、自分たちも怪我なし。
そして、依頼結果は未達成。報酬はなし。
文字にすると、ずいぶん効率が悪い。それでも、あの幼獣に縄をかけて母獣から引き離す場面を思い浮かべると、今でも胸の奥に同じ違和感が残る。一晩経っても、そこだけは変わっていなかった。
「次は絶対達成する」
ルカが干しパンを噛みながら宣言した。
「食べながら言わないで」
「じゃあ食べ終わってから言う」
「そういう問題じゃない」
「……次」
ボルが短く言う。
「ん?」
「掲示板」
「よし」
ルカはすぐ立ち上がった。早い。失敗を引きずる時間だけは、本当に短い。落ち込まないというより、次が見えた瞬間にそちらへ全部持っていかれるのだと思う。
羨ましいような、心配なような。考えてみて、やっぱり半分以上は心配だった。
掲示板の脇、見習い依頼欄には、今日も昨日とあまり変わらない依頼が並んでいた。
配達。倉庫整理。井戸周りの清掃。港の係留縄確認。簡単な見回り。荷物運び。
冒険者という言葉からルカが想像していたものとは、たぶん少し違う。ただ、昨日報酬ゼロを経験したぶん、今日は見る場所も変わっていた。
「倉庫整理」
「報酬」
「低い」
「井戸周りの清掃」
「報酬」
「低い」
「係留縄確認」
「報酬」
「低い」
「全部見習い依頼なんだから、そこを基準にしたら何も受けられないよ」
「でも飯は食いたい」
「それは同意」
昨日は、初依頼なんだからもう少し冒険っぽいのがいい、と言っていた。報酬なしの翌朝、夢と現実の距離は干しパン三等分ほど縮まったらしい。
「……これ」
ボルが、一枚だけ少し上を指した。ルカが依頼票を取る。
潮見の風見塔・信号旗設備の応急修理
「修理?」
「戦わないな」
「見習いなんだから」
「分かってる」
内容は単純だった。昨夜の嵐で、岬にある風見塔の信号旗を上げる縄が動かなくなった。塔守は片脚を痛めていて高所作業ができないため、その応急修理を今日中に行う。
そして。
「銅貨六枚」
フィオの目が止まった。
「高い?」
「昨日よりは」
「昨日ゼロだぞ」
「だから高い」
「基準が悲しいな」
それでも、銅貨六枚あれば温かい食事ができる。今日の夕食まで干しパン三等分になる可能性が、大幅に下がる。
「これにしよ」
「異議なし」
「……うん」
三人で受付へ向かう。
「潮見の風見塔ですね」
受付係が依頼票を確認した。
「何上げるんです?」
「信号旗です。沖にいる船へ、港の状態を知らせるためのものですね」
「旗だけで?」
「かなり重要ですよ」
受付係が壁際に掛けられた見本を示す。白。青。赤。
「白は入港可能。青は強風。赤は入港禁止です」
「今日は」
「赤です」
フィオが顔を上げた。
「なんで」
「昨夜の嵐で、浅瀬の砂が動いたんです。普段の航路をそのまま入ると、座礁する可能性があります」
旗が上がらなければ、沖の船には分からない。危険な浅瀬へ、そのまま入ってくる。
「ただの修理じゃないんだな」
「だから依頼票、最初から最後まで読んで」
「読んだ」
「今理解した顔だった」
「細部」
「そこ本体」
受付係が小さく笑った。
「塔守の指示に従ってください。無理な登攀はしないこと」
「はい」
「特に」
受付係の視線がフィオへ向く。
「今日は風、強いですよ」
「……分かってます」
返事が少し早くなった。自分でも分かった。別に、何でもない。そういうことにしておく。
岬へ続く道は、港町から離れるほど空が広くなった。低い草原と海。遠くに石造りの塔。
塔そのものは、驚くほど高いわけではない。ただ岬の端に建っているため、その向こうには空しかなく、実際よりずっと高く見えた。
道脇には古い案内板が立っている。
「白が入港可」
「青が強風」
「赤が禁止」
「覚えた?」
「覚えた」
「じゃあ問題。赤と青が両方必要な時は」
「二枚上げる」
「書いてない」
「え」
「知らない」
「問題出すなよ」
「覚えてるか確認しただけ」
その時、海側から強い風が吹きつけた。道沿いの草が一斉に傾き、フィオの髪と羽毛も大きく揺れる。
「強いな」
「ずっとじゃない」
「ん?」
フィオは草を見て、次に遠くの旗を見た。塔の上の風見車も。
強く吹く。少し弱まる。また強くなる。
三度ほど強く吹いて、そのあとに、ほんの短い間だけ緩む。長くはない。でも、ある。
「何見てるの」
「風」
「見える?」
「見えるものを見るの」
「風は見えないだろ」
「草とか旗とか」
「ああ」
「今理解した顔」
「それさっき俺が言われたやつ」
「学習してる」
使えるかどうかは、まだ分からない。
潮見の風見塔は、近づくほど古さが目立った。海風で削れた石。塩が白く浮いた壁。何度も修繕された跡。外壁には点検用の小さな足場が飛び飛びについているが、どれも人一人が立てるかどうかという幅しかない。
「来たか」
入口脇に、年老いた魚人が立っていた。短い杖をつき、片脚を庇っている。顔には深い皺があり、海風に長く晒されてきたことが見ただけで分かった。
「ギルドからです」
「三人か」
塔守は順番に見る。ルカ。ボル。そして、フィオ。
「鳥人が来たか」
フィオの肩が、ほんの少し固くなる。続く言葉も、何となく分かった。
「なら、上までひと飛びだな」
悪気はない。たぶん、本当に便利だと思っただけだ。だからこそ、少し面倒だった。
「短くなら飛べる。でも、上まで一度には無理」
口にしてから、またこれか、と思う。
昔から何度も使ってきた説明だった。翼がある。鳥人。なら飛べる。周囲が想像する飛べると、フィオの飛べるは違う。
「飛べないの?」
「飛べるよ。長く飛べないだけ」
いつからか、先に言うようになった。
一番嫌なのは飛べないと思われることではない。事情を知った相手が、少しだけ困った顔をすることだ。気を遣って、言葉を選んで、大丈夫だと言う。あの顔が苦手だった。
「そうか」
塔守が言った。それだけだった。
がっかりもしない。慰めもしない。謝りもしない。ただ外壁を杖で示す。
「なら、届く足場から上がれ」
一拍。
「塔は逃げん」
「……分かった」
単なる作業指示で、名言でも何でもない。それなのに、少し残った。
塔内部は、外から見るより狭かった。中央が吹き抜けになっていて、その周囲を古い木製階段が螺旋状に上へ伸びている。
ただし、途中が昨夜の嵐で崩れていた。
「これは無理だな」
ボルは階段ではなく、壁や梁、縦穴の脇に残った錆びた鉄環を見ていた。
「嵐で上の縄が外れたらしい」
塔守が説明する。
「滑車が壊れた?」
「そう思ってる。引いても赤旗が途中で止まる」
壁際から垂れている縄は古く、表面が毛羽立っていた。塩を吸って硬くなった部分もある。
ボルがその縄を手に取って、しばらく離さなかった。
毛羽立ちを指の腹で潰して、硬いところで止める。
「洗えば、まだ使えた」
誰に言ったのでもない言い方だった。
ルカが掴む。
「ちょっと引くぞ」
ぐ、と途中で止まった。
「固っ」
「強く引かないで」
「何で」
「原因分かってないから」
「分かんないのに」
「分かんないから」
「……」
ルカの手が止まった。
昨日なら、もう一度、今度はもっと強く引いた気がする。一ミリくらいは学んだらしい。
「上見てくる」
フィオは外へ出た。
「大丈夫?」
「短くなら飛べるって言ったでしょ」
「聞いた」
「じゃあ聞かないで」
「心配しただけ」
「……それも分かってる」
だから返しにくい。本当に面倒だ。
一つ目の足場までは問題なかった。短く助走して跳び、翼を開いて風を受け、石の縁へ着地する。
「……よし」
次は少し距離がある。フィオはすぐには飛ばなかった。
遠くの草。旗。風見車。さっき見た周期。
強い。まだ。もう一度。
少し緩む。
今。
足場を蹴った。翼が風を拾い、身体が斜め上へ運ばれる。次の足場へ、届く。
「おお!」
「騒がない!」
「褒めただけ!」
「集中切れる!」
「はい!」
次。また一つ。その次。
一気に上までは行けない。それは昔から嫌というほど知っている。他の鳥人なら、この塔くらい途中まで一息で行ける者もいるだろう。
だから、足場を見る。風を見る。距離と高さを見る。一つ届いたらそこで止まって、次を見て、また飛ぶ。
遅い。そう思いながらも、上がってはいる。少しずつ、確実に。
塔は逃げない。本当に逃げないな、と思って、少しだけ可笑しくなった。
最上部の少し手前、外壁の小さな開口から主滑車が見えた。
滑車より先に目へ入ったものに、フィオは眉を寄せる。
小さな身体。大きな耳。耳の間に張った薄い膜。帆耳リスだ。身体は小さいが、耳膜の張り方を見る限り、もう成獣らしい。その奥に、乾いた草や布、木の実を集めた巣がある。
そして、巣の中へ古い縄が何本も引き込まれていた。
「お前か」
帆耳リスがこちらを見る。警戒はしているが、逃げない。
フィオは主滑車へ繋がった縄を少しだけ引いた。動く。途中で止まる。
切れてはいない。滑車も壊れていない。縄が溝へ噛み込んでいる。絡まったのではなく、絡められた。巣材として引き込まれたのだ。
「ルカ!」
下を見る。
「何!」
「縄、切れてない!」
「じゃあ何!」
「リス!」
「何?」
「リスが住んでる!」
「聞こえにくい!」
「だから――!」
その瞬間、ごう、と風が声をさらっていった。
「……もう」
フィオは主滑車を見る。縄。巣。リス。
一番早い方法は簡単だった。縄を切って、巣を外して、滑車を空けて、新しい縄を通す。それで終わり。
ただ、巣は古い縄束そのものに組み込まれている。無理に外せば落ちる。リスごと。飛膜があるから逃げられるかもしれないが、安全とは言えない。
昨日と同じだ。依頼を達成するために、そこにいる別の何かを無視する。
ただし昨日と違って、旗が上がらなければ船が浅瀬へ入る。乗っているのが誰であれ、落ちれば死ぬ。
帆耳リス一匹と、船の人間。どちらを優先するかと問われたら、答えは出る。出るから嫌だった。
フィオは下を見た。
別の方法があるなら、そっちを使いたい。
大声と身振りで状況を何とか下へ伝える。途中からルカとの会話はほとんど成立しなかった。
「巣!」
「何?」
「リス!」
「何?」
「もういい!」
「何が!?」
その間に、ボルが塔内部へ戻っていく。壁際。縦穴。古い鉄環。梁。補助滑車をつけた跡。一つずつ触って、見て、考える。
「どう」
「……別の道」
「縄の?」
「うん」
塔守が古い部品箱を開いた。中には予備滑車、新しい縄、留め棒、小型金具。
ボルが順番に取り出して、壁と見比べる。
「ここ」
鉄環。
「上」
縦穴。
「抜ける」
「小さい開口?」
「うん」
ルカも理解したらしい。
「今の滑車、使わない?」
「……使わない」
「別の縄を通す?」
「うん」
主滑車には触らない。巣も触らない。塔内部の古い補助経路を使って、新しい滑車と縄で仮設する。
「できる?」
ボルは少し考えた。
「……できる」
「よし」
上から見ていたフィオには、細かな会話までは聞こえない。ただ、ルカが新しい縄を掲げるのを見て、意味は分かった。
「あ」
思わず息が抜ける。悪くない。というより、かなりいい。少なくとも今、船とリスを天秤に乗せなくて済む。
問題は、その予備滑車を誰が上へ運ぶかだ。考える必要はなかった。




