第1話 はじめての依頼は、迷子探し ②
荷車屋の主人は、大商人には見えなかった。服も、手も、腰に下げた道具も、全部現場仕事のものだ。港町で資材や荷を運んでいるらしい。
「六本脚。灰茶色。まだ幼い」
主人は予備の首輪を三人へ見せた。革製に金具、そこへ三日月形の小さな刻印が入っている。
「まだ買って半月だ」
「どこから逃げたんですか」
フィオが聞く。
「裏の柵だ。朝見たら壊れてた。森側へ出たと思う」
「分かりました」
ルカはもう動きかけていた。
「じゃ、行ってきます」
「いや、まだ話が――」
「歩きながら聞く!」
「いや聞けないだろ!」
フィオに腕を掴まれた。
「痛い」
「最後まで聞いて」
「……はい」
主人が呆れた顔をする。
「とにかく、見つけたら連れ戻してくれ。無理に追い回すなよ。まだ人に慣れてない」
「はい」
「あと――」
ルカは今度こそ待った。
「……何ですか」
主人は一瞬だけ言葉を迷ったように見えた。だが、結局は首を振る。
「いや。頼む」
港町の外へ出ると、潮風街道が森の方まで続いていた。魚箱を積んだ荷車。木材。港へ向かう商人と、町へ戻る職人。
前方から、大きな荷車獣が来た。太い胴体に六本の脚、その後ろには荷車。かなりでかい。
「これの子どもか」
ルカはすれ違いざま、思わず見上げた。
「もっと小さいはず」
「じゃあ上から見た方が早いな」
「飛んで見てくる」
「飛べんの?」
フィオが止まった。
「鳥人なんだけど」
「それは見れば分かる」
助走して、翼を広げる。ふわっ、と浮いた。
「おお」
次の瞬間、街道を横切った風に流された。
「うわっ」
数歩分だけ横へ押され、すぐ着地する。
「……飛んだ?」
「飛んだ」
「三歩くらい」
「風が悪い」
そんな二人をよそに、ボルはすでに街道脇でしゃがんでいた。柔らかい土に小さな跡が続いている。一つ、二つ、三つ。六本脚。
「……こっち」
小声だった。ルカには届いていない。
「森だろ!」
ルカが前へ走り出す。
「待ちなさい!」
「早い方が――」
「……逆」
「え?」
ルカが止まって振り返る。ボルが路肩を指していた。
戻る。
「……あ」
フィオがしゃがみ込んだ。
「開始数分で先頭交代ね」
「まだ五分経ってない」
「そこ数えるのか」
「でもこれ、確かに森側だな」
足跡は、ルカが向かおうとしていた道とは少し違う方向へ伸びている。
「ボル、よく見つけたな」
「柔らかかったから」
ボルは地面を見たまま答えた。
同じ場所に立っていたのに、自分は森しか見ていなかった。ボルは土を見ていた。
「じゃ、今度こそ」
「今度は足跡見ながらね」
「分かってる」
「多分って顔してる」
帆葉の森は、港町からそれほど離れていない。大きな葉の間から光が落ちている。湿った土。露出した根。遠くにはまだ街道の音が聞こえていた。
それでも一歩入ると、潮の匂いが薄れて、土と葉の匂いに変わる。
「足跡、続いてる」
フィオが言う。
ボルはずっと地面を見ながら進んでいた。途中で半分土へ埋まった鉄のようなものを見つけ、自然に避ける。
「何それ」
「……罠」
「新しい?」
「たぶん」
鈍い鉄色。固定杭。閉じれば脚を挟む顎。側面には、小さな三日月形の刻印。
「踏まなくてよかった」
「今の顔、ちょっと踏みそうだった」
「踏まない」
「言い切るには、今日の実績が危ないけど」
「まだ半日も経ってないだろ」
足跡を追って森の奥へ進む。
そして。
「……あれ?」
小さく開けた場所に、一頭の幼獣がいた。六本脚、灰茶色、まだ角も小さい。首には革の首輪。
「いた!」
ルカは反射的に縄へ手を伸ばした。
「待って」
「何」
「あの子」
幼獣は逃げなかった。というより、こちらをほとんど見ていない。ずっと同じ方向を見ている。
その先。草。木。さらに奥から、低く荒い呼吸音。
三人が少し位置を変える。そこで初めて見えた。
「……でか」
大きな荷車獣が倒れていた。成獣。六本脚。額、耳、毛色。幼獣とよく似ている。
右後脚には、鉄の罠が深く食い込んでいた。
「母親……?」
幼獣は母獣の前から動かない。
「迷子じゃない」
フィオが小さく言った。
ルカにも分かった。
「戻ってきたんだ」
依頼は、幼獣を連れ戻すこと。その対象は目の前にいる。
縄をかける。引く。町へ戻る。それで達成。やることだけなら、ものすごく簡単だった。
ルカは手にした縄を見る。これを首輪へ掛ければ初仕事は成功で、報酬も出る。帳簿には達成と書かれる。朝、掲示板の前で笑われたことも、どうでもよくなる。
「ルカ」
「何」
「連れて帰るだけなら、今できるよ」
「……うん」
言われなくても分かっていた。フィオは急かさない。ただ、事実として置いただけだ。
幼獣は一度もこちらを見ない。母獣の顔へ鼻先を寄せて、少し離れて、また寄る。耳はずっと下がったままだった。
ルカは縄を握ったまま、今度は母獣を見た。罠が脚へ深く食い込み、土には血が混じっている。このままなら、たぶん長くはもたない。
依頼達成は、すぐそこにある。その横で、別のものが死にかけていた。
「どうする?」
ルカは少しだけ考えた。長くはなかった。
「……先に、こっち」
縄ではなく、母獣の脚を指す。
「罠、外す」
フィオが少しだけ眉を上げた。
「依頼は」
「あと」
「あと?」
「まずあれ」
ルカは母獣を見る。
「死にそうじゃん」
フィオは数秒だけルカを見て、それから小さく息を吐いた。
「了解」
反対もしない。褒めもしない。それでよかった。
ボルはすでに大盾へ手をかけていた。
「……近づくと、来る」
「だよな」
母獣はこちらを見ている。痛くて、怖くて、子どもがいる。だから逃げない。というより、逃げられない。
「ボル」
「……うん」
「盾、頼める?」
「やる」
「フィオ、上から見て」
「何を見るの」
「俺が踏まれない位置」
「雑」
「今決めたから」
「それ、自慢じゃないよ」
フィオは低い枝へ向かって助走し、今度は翼をしっかり広げて飛び上がった。枝へ着地する。
「右側、根が少ない!」
「了解!」
ルカは縄を出し、二本の木の間へ張った。母獣を捕らえるためではなく、前へ出すぎないためだ。
ボルが大盾を構える。
「……行く」
一歩。母獣の耳が立ち、低い唸りが出た。
前へ出てくる。ボルの大盾へ体当たり。ガン、と鈍い音がした。
「ボル!」
「……大丈夫」
押し返さない。ただ耐える。壁になって、進ませない。
「今!」
ルカは横から罠へ滑り込んだ。留め具を探す。あった。ただ、固い。
ボルが右腰のポーチから細い鉄の工具を投げた。ルカが受け取る。
「これどう外す!」
「そこ!」
「どこ!」
「……横!」
「横だけじゃ分からん!」
フィオが上から叫んだ。
「下! 金具の内側!」
「あった!」
押す。動かない。
「くっそ……!」
母獣がさらに暴れ、ボルの盾がずれる。
「ルカ!」
「分かってる!」
力を入れても、この角度では外れない。
留め具が噛んでいる。なら、少しだけ逆へ。罠を閉じる方向へ戻して圧を抜き、その状態で金具を押す。
「――っ」
外れた。罠の顎が開き、母獣の脚が自由になる。
「離れろ!」
三人とも一気に下がった。母獣もすぐには来なかった。傷ついた脚を引きずり、その前へ幼獣が寄っていく。
傷は深い。それでも、出血は止められる。
ボルはゆっくり大盾を地面へ置いた。左腰の布を外し、それから手袋も外す。
「……?」
ボルは何も言わず、空になった両手を母獣へ見せた。武器はない。盾もない。近づくつもりだと分かっているのに、攻撃するものを持っていないと見せている。
幼獣が一歩だけ下がった。ボルはそこで止まる。
「怖いよな」
誰に言ったのかは分からなかった。母獣か。幼獣か。それとも自分にか。
大柄な身体をゆっくり低くし、膝をつく。待つ。
母獣の耳が動いた。幼獣はボルを見て、母獣を見て、またボルを見る。それから、一歩だけ近づいた。
「……行く」
ボルがさらに近づく。母獣は唸ったが、動かなかった。
傷口へ布を巻き、強く締めすぎないよう加減する。大きな手なのに、妙に慎重だった。
「……これで」
ゆっくり離れる。幼獣が母獣の脚へ鼻先を寄せた。
ルカは息を吐いた。
「よかった」
「何」
「いや」
「……?」
「なんでもない」
今言うのは、何となく違う気がした。
母獣は立ち上がった。右後脚をまだ庇っているが、それでも歩ける。幼獣はぴったり横についていた。
その姿を見て、ルカはようやく、最初から手にしていた縄を思い出した。
「どうする?」
今度はルカが聞いた。フィオはすぐには答えない。ボルも黙っている。
幼獣は母獣へ身体を寄せている。離そうとしたら、たぶん抵抗する。
「連れて帰れば」
「依頼達成」
「うん」
「置いていけば」
「未達成」
「うん」
「報酬もなし」
「多分」
「主人、呼んでくるか」
「往復で半日」
「その間に母獣が動いたら」
「分からなくなる」
「母獣ごと連れてくのは」
「あの脚じゃ無理」
「……初仕事」
「知ってる」
ルカは縄を持って、幼獣へ近づいた。
首輪へ輪を掛けるところまでは、できた。
引いた。
幼獣が脚を踏ん張る。離れない。
その後ろで、母獣が立ち上がろうとした。
右後脚へ体重が乗って、途中で崩れた。
土に、また血が混じる。
ルカは引く手を止めた。
輪を外した。
外してから、首輪をもう一度見た。
荷車屋からすれば、買った荷車獣だ。仕事に必要で、いなくなったら困る。だから金を払って冒険者へ頼んだ。それも正しい。
でも、こいつからしたら、迷子でも何でもない。
引けば、母獣が追ってくる。追ってくる脚を、今見た。
「……置いてく」
「決めた?」
「うん」
「後悔しない?」
「報酬ないのはする」
「そこはするんだ」
「金は欲しい」
「正直」
ボルが小さく言った。
「帰ろう」
「ああ」
三人は少しずつ距離を取る。母獣も幼獣と一緒に森の奥へ向かった。
幼獣が一度だけ振り返り、そのまま母獣のあとを追って消えていく。
ルカは、その場に残った罠を見た。
「これ」
拾う。
「持って帰るの?」
「誰かまた踏むだろ」
布で包む。
「重」
ボルが手を出した。
「……持つ」
「助かる」
渡そうとした時、罠の側面にある刻印がもう一度目に入った。三日月。
森へ入ってすぐ見つけた罠にもあった。ただ、それ以上は考えなかった。




