第七話 月夜の静寂と、深緑の秘境『星紡ぎの月見草』
国営婚約発表パーティーを前日に控え、王宮内は狂騒とも言える熱気に包まれていた。
豪奢なドレスの幾度にも及ぶ寸法合わせ。
エレノア王妃による寸分の狂いも許されない立ち振る舞いの指導。
そしてパーティー会場であるグランドホールの確認。
平民の薬草収集家として森と土の匂いの中で生きてきたエルネにとって、それは夢のような華やかさであると同時に、肺の奥が重く圧迫されるような息苦しさの連続でもあった。
「……ふう」
本日のすべての予定を終え、王宮の離れにある客室へ戻ってきたエルネは、窓辺の椅子に深く腰掛け、そっと溜息をついた。
その小さな息遣いを、この男が見逃すはずがない。
「……疲れたろう、エルネ」
アルディスが、吸い寄せられるようにエルネの背後から寄り添った。
長い腕がしなやかにエルネの腰を抱き寄せ、頬に愛おしげに冷ややかな唇を寄せる。
「アルディス様……っ! 急に抱きつかないでください、侍女さんに見られたら……っ」
「誰にも見させないさ。……それより、顔色が少し優れない。王宮の連中が君を酷使しているのなら、今すぐパーティーなど取りやめて二人でどこか遠くへ行ってもいいのだが。責任感の強い君なら逃げたくないかもしれないと悩みどころだよ」
「もう、極端なんですから……!」
本気とも冗談ともつかない甘い低音に、エルネは顔を赤らめながらぽんぽんとアルディスの腕を叩いた。
その金色の瞳に揺れる真剣な愛しさに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「大丈夫です。……でも、もしアルディス様がお時間をいただけるなら、少しだけ……お出かけしたい場所があるんです」
「君の頼みなら、世界の果てまででも付き合うよ。どこへ行きたいんだい?」
アルディスが優しく頬を撫でると、エルネは少し恥ずかしそうに、けれど瞳をキラキラと輝かせて告げた。
「最近森に行けてなくて……。よかったら私と一緒に……素材採集に行きませんか? ふたりだけで」
◇◇◇
王都の喧騒を遠く離れた、国営森林公園。王家の許可なしには入れないその最奥、『幻月の森』。
ここは王族と、限られた魔導師しか立ち入りを許されない聖域。
王宮最奥の転移魔法陣からしか立ち入れない神聖な場所だった。
樹齢千年を超える巨大な古木たちが幾重にも枝を広げ、天然の天蓋を作っていた。
足元を踏みしめれば、ふかふかの苔と腐葉土の甘い香りが立ち上る。
苔の隙間からは、わずかな振動に反応してほのかに青く発光する『ルミネルチュウ』という虫が微光を放ち、周囲の空気を幻想的な青銀色に染め上げていた。
「……まさか、王宮を抜け出して素材採集に来ることになるとは思わなかったよ」
アルディスは可笑しそうに目を細めながら、エルネの足元を照らすように掌に小さな透き通った氷の光を浮かべていた。
重厚な軍服を脱ぎ捨て、黒を基調とした動きやすい野外着を纏った彼の姿は、まるで森に宿る麗しい精霊のようだ。
「ふふ、すみません。でも、見てくださいアルディス様! ここの湿土、最高です! 腐葉土に水魔力がたっぷり溶け込んでいて、薬草たちが生き生きとしています!」
ドレスから慣れ親しんだエプロンと作業着に着替えたエルネは、文字通り水を得た魚のように目を輝かせていた。
先ほどまでの疲労などどこへやら、しゃがみ込んでは苔を優しく撫で、葉の裏を観察してはうっとりと息を吐いている。
「……本当に、君は草木といる時が一番良い顔をするね」
アルディスは愛おしそうにエルネの頭を撫でた。
「でも、エルネ。今夜の目的は、この森の奥にしか咲かないという素材だったね?」
「はい! そうです……! 見てください、この奇跡のような群生を……!」
エルネが小さな採集ナイフを手に駆け寄ったのは、樹齢数千年を誇る大樹『月影の神木』の根元だった。
そこには、透き通るようなサファイアブルーの蕾をいくつもつけた、幻想的な植物がひっそりと佇んでいた。
『星紡ぎの月見草』。
その生態は極めて特殊だ。
満月の夜、湿度が一定に保たれた数時間の間だけ、月光の純粋な魔力を吸い上げて開花する。
わずかな風でも散ってしまうため、よほど深い森が大きな木で守られていないと消えてしまう貴重な花。
ふわりと蕾がほどけると、5枚の透明な花びらが開いた。
花びらの表面には、まるで夜空の星屑を散りばめたかのような金色の細かな花粉が散らばり、微風に揺れるたびにサラサラと星の光のような粒子を大気中に撒き散らす。
「きれいだな……」
アルディスが思わず漏らした声に、エルネは解説を始めた。
その瞳は輝きを増し、『超絶鑑定眼』が完璧にその素材の価値を読み解いていた。
「『星紡ぎの月見草』……古くは古代エルディニア時代から、最高峰の香水の主原料として重宝されていました。でも、それだけじゃないんです。この植物は、隣り合う二つの株が互いに根を絡ませ合い、魔力を分け合いながらしか咲くことができません。だからこそ……」
エルネは少し顔を赤らめながら、優しくその花びらの根元を指先で包み込んだ。
「『意中の相手と共に摘み取り、互いに持ちあえば、二人の魂の波長は永遠に一つとなり、どんな引き裂く力も跳ね返す』——建国神話の王様の言い伝えが伝承されて、今では恋人たちのお守りとして、語り継がれてきたんです」
「……二人で持ちあえば、魂が永遠に一つに?」
「はい。市井にあるのはレプリカの造花ですけど、王妃様が実は本物があると教えてくださいました。あなたなら、その手にとれるかもしれないと」
アルディスの瞳の色が変わった。
青色の瞳の奥に、深く濃密な情熱の炎がメラリと立ち上る。
「はい。だから私……パーティーの前に、どうしてもアルディス様と二人でこれを摘みたかったんです。私、王宮での作法とか、難しい政治のことは何も分からなくて……本当は、アルディス様の隣に立つのが怖くなる時もありました」
「エルネ……」
「でも! 王妃様も、セシリア様も、私の知識や誠実さを信じてくれた。そして何より……アルディス様が、ただの薬草採集家だった私を、見つけて、愛してくれたから……!」
月光と星紡ぎの光粒が散らつくなか、エルネは二つの株の根を優しく傷つけないようにナイフを入れ、一輪をアルディスの手に、もう一輪を自分の胸に抱いた。
「この月見草に誓います。私、逃げません。どんな困難があっても、アルディス様の伴侶として、ずっとずっと貴方の隣で生きていきます。私を……見つけてくれて、ありがとうございます!」
澄み切った瞳で紡がれた、純度百パーセントの愛の誓い。
その瞬間——。
ドサッ!!
「あ、アルディス様!?」
あの氷の如き冷徹さで世界を震撼させる最強の騎士団長が、その場に両膝から崩れ落ちたのだった。
「あ……ああ……ッ……」
アルディスは両手で顔を覆い、激しく肩を震わせている。
その隙間から覗く耳の先、そして首筋までもが、熟した熟柿のように真っ赤に染まり、極寒の魔力が歓喜のあまり暴走して周囲の空気を一瞬で真っ白な霜に変えていた。
「ア、アルディス様!? 氷が暴走しています! まずいです! どこかお体でも!?」
「エルネ……君は……君という人は……ッ!!」
ガバッと顔を上げたアルディスの瞳は、歓喜と感傷と溢れんばかりの情熱で完全に潤んでいた。
「可愛い……! 愛おしすぎる……! なんだその完璧な誓いは!? 今の誓いをもう一度言ってくれないか!? いや、記憶の結晶に録音して永遠に保存する! 国王陛下に頼んで永久保存の魔法を作り刻んでもらおう! ああ、愛している、エルネ! 今すぐ君を抱きしめてこの森ごと氷漬けにして世界から隠してしまいたい……ッ!!」
「キャーッ!? 落ち着いてくださいアルディス様! 氷漬けにするのはダメです! おかしくなってます、絶対におかしくなってますから!!」
狂喜乱舞してすり寄ってくるアルディスを、エルネは顔を真っ赤にしながら必死で押し留めた。
普段の威厳など微塵もない、完全に愛に狂った婚約者の姿に、エルネは呆れつつも、胸がはち切れそうなほどの愛おしさに満たされるのだった。
「『星紡ぎの月見草。明後日の式典で飾って、そのあとは指輪にしよう」
アルディスは冷静さを取り戻した風だが、その口元は緩んだままだ。
エルネは保護魔法の装置をつけると、そっと花を保存ガラスに入れる。
「そうですね。この美しい花をみなさんにも見ていただきましょう」
二人はその夜、久しぶりの採集デートを楽しんだのだった。
◇◇◇
翌日。
ふたりで採集した『星紡ぎの月見草』は、エルネの手によって特注の魔導水晶ケースへと大切に収められた。
二人の愛の誓いの証であり、そしてパーティー当日に「お守り」として会場に飾るための特別な展示品として、グランドホールのメイン展示台へと設置されたのだ。
「ふふ、これで準備は完璧ですわね!」
下見に訪れたセシリアも、水晶の中で優しく輝く月見草を見て、満足そうに頷いた。
「これほどの美しさと奇跡の魔力……王立薬学院のニセモノ霊薬など、足元にも及びませんわ!」
「ありがとうございます、セシリア様。アルディス様と一緒に採集した、大切な宝物なんです」
エルネが愛おしそうにケースを見つめる。
しかし誰かの悪意は、二人が最も油断した隙を突いて忍び寄っていた。
その日の夕刻。
パーティー会場の最終確認を終えたエルネが、ふと胸の騒ぎを覚えた時のことである。
「……え……?」
ホールの中央。
先ほどまで確かにそこに置かれていたはずの水晶ケースが、台座ごと消え去っていた。
「な……ない……? 『星紡ぎの月見草』が……ない!?」
血の気が引いた。
エルネは慌てて展示台へと駆け寄った。
鍵が破られた形跡はない。だが、台座の表面には、微かに「何か」が触れた痕跡が残されていた。
「どうしたんだい、エルネ!?」
最終チェックに参加していたアルディスもエルネの異変を察知し、即座に駆けつけてきた。
「ア、アルディス様……! 『星紡ぎの月見草』が……消えてしまいました! 誰かが……持って行ってしまったみたいで……!」
「何だと……!?」
アルディスの瞳に、一瞬で爆発的な殺気が宿った。
「我が城内で……エルネとの大切な誓いの品を盗み出しただと……!? 許さん……! 全衛兵を動員し、城門を封鎖しろ! 犯人を見つけ出し、その肉体を一片残らず氷の微粒子に変えてやる……っ!」
「あ、アルディス様、待ってください!」
激昂して城を更地にしかねないアルディスを、エルネは必死で引き留めた。
「落ち着いてください! 私の鑑定眼なら……きっと追跡できます!」
「え……?」
エルネは展示台の上にそっと手をかざした。
瞳の奥に、藍色の静かな光が宿る。
その瞳の世界から色彩が失われ、空間に残された魔力の痕跡が鮮やかな糸となって浮かび上がってきた。
(……あった! これは……月見草の、星屑のようなかすかな魔力の残り香!)
そして、その繊細な魔力の光を包み込むように塗たぐられた、もう一つの魔力。
(この、重くて、湿り気のある……嫌な魔力の匂い……! これは、あの『万能霊薬』の周りに漂っていたのと同じ……!)
「分かりました……! 犯人は…あの方かもしれません」
侍女たちを下がらせ、騎士団、衛兵、そしてアルディスとエルネ、セシリアだけが残った。
「薬学院の連中だと……!?」
アルディスの声が低く沈んだ。
「間違ありません。この魔力の残渣……ユリア様たちが作っていたあの薬品と同じものが混ざっています。月見草の強い魔力を利用して、何か良くないことに使おうとしているのかもしれない……!」
二人の愛の誓いを踏みにじられた怒りと、大切な素材が危険な目にあっているという憤りが、エルネの胸の中で燃え上がった。
「全く懲りずにやらかしてくれましたわね。先日からっていた怪しいポーションも回収していますから、証拠はたっぷりありますわ」
「それについて私のところにもきたよ。全く想定のようえを行ってくるとは……」
「追いかけましょう、アルディス様! 魔力の糸は……あっちへ続いています!」
「ああ。我が愛しき伴侶の宝物を盗んだ罪、命で支払ってもらう」
セシリアを残し、騎士団と共に捜索に向かう。
エルネとアルディスは、引き締まった表情で魔力の糸を辿り始めた。
王宮の地下へと続く長くて暗い石造りの階段を下りていく。
魔力の糸は、普段は人が立ち入ることのない、王立薬学鉱物院の最深部の地下の方へ伸びていた。
湿った冷気が肌を刺す。
カビと怪しげな薬品の匂いが立ち込める暗闇の中、エルネの目には鮮やかに輝く光の糸が見え続けていた。
「ここです……! この扉の奥に、『星紡ぎの月見草』があります!」
エルネが足を止めたのは、重厚な鉄の扉の前だった。
扉には重重たる太い鎖が巻き付けられ、赤黒い文字で不気味な警告のルーンが刻まれている。
『危険素材保管庫。許可なき者の立ち入りを禁ず』
「王立薬学院の『地下危険素材倉庫』……!?」
エルネは息をのんだ。
禁忌とされる危険な植物や、毒性があまりにも強すぎて封印された魔導鉱石が眠る、もっとも凶悪な場所。
「なぜ、ユリア様は星紡ぎの月見草を、このような恐ろしい場所へと持ち込んだんでしょう」
暗い扉の向こうから、ドロリとした不穏な魔力の気配が、エルネたちの肌を撫でるように漏れ出していた。




