第六話 動き出す黒い策略
——パリィンッ!!!
瞬間、耳を刺すような高酷な破壊音が執務室に轟いた。
「ひっ……!?」
ユリアの指先が触れるより早く、デスクの端に置かれていた重厚なクリスタルのペーパーウェイトが、前触れもなく粉々に砕け散っていた。
ゾクッ……!
部屋の中の「空気」そのものが、物理的な質量を持って凍りついた。
燭台の炎が瞬時に青白く変色し、バチバチと音を立てて凍結していく。
壁、天井、大理石の床。
あらゆる表面に、猛烈な勢いで青白い霜が走った。
「あ……が……っ!?」
ユリアの喉から、蛙がつぶれたような悲鳴が漏れた。
圧倒的な、死の圧迫感。
目の前に座る男から放たれたのは、人間の放つ魔力では形容できない。暴風雪そのもの、あるいは命ある者すべてを等しく絶滅させる極寒の概念そのものだった。
呼吸ができない。
肺の中に冷気が直接流れ込み、肺胞が凍りついていくような痛みが激痛となって胸を襲う。
全身の皮膚に目に見えない無数の氷の針が突き刺さるような激痛。
ユリアは膝をガクガクと震わせ、その場に崩れ落ちた。
「ひ、ひぃ……っ……あ、アルディス……様……っ!?」
床に手をつき、荒い息を吐くユリア。
それを見下ろす位置に、アルディスがゆっくりと立ち上がっていた。
金色の瞳から甘さや温度は完全に消え失せ、底なしの闇のような殺意だけが揺らめいている。
それは、先日の薬学院の書状を見た時など比較にならない、文字通りの鬼神のような目だった。
「……不快だ」
地獄の底から引きずり出されたかのような、極冷の低音。
「身の程を知れ」
「あ……が……っ……!」
アルディスが一歩踏み出すたび、床の霜がパチパチと音を立てて弾けた。
彼は崩れ落ちているユリアに一切の視線を合わせることはない。
ただゴミを見るような冷酷さでデスクの上の紫色の小瓶を見下ろした。
「エルネ以外の女が差し出す薬など……どぶ沼に湧いた毒虫の体液と変わらないな」
冷徹な声が、ユリアの頭上から降り注ぐ。
「……貴様のような者が、よくもその薄汚い口でエルネの名を呼び、彼女を貶めるような真似ができたものだ。今この場で貴様の首を胴体から切り離し、学院の門に晒してやろうか」
「ひ、ひぃぃぃっ……!! た、助けて……っ!」
ユリアは歯をカチカチと鳴らし、なりふり構わず後ずさった。
冗談ではない。本気だ。
目の前の男は、自分が貴族の令嬢であることなど何一つ考慮せず、今この瞬間に自分を殺そうとしている。
そのあまりにも圧倒的な殺意の前に、ユリアが抱いていた甘い幻想は一瞬で吹き飛んだ。
「言葉が出ないなら、その口はいらないな? 二度と口を利けないように舌を引き抜いてやってもいい」
アルディスの右手に、青白い氷の剣が静かに生成されていく。
その刃が放つ冷気だけで、ユリアの額から流れていた冷や汗が凍りついて白く固まった。
「……ひっ! ご、ごめんなさい! ごめんなさいぃぃっ!」
「消えろ」
短く吐き出された一言。
「二度と俺の視界に入るな。次にその不潔な面を俺の前に晒せば……貴様の家門ごと、この国から消滅させる」
アルディスは手をサッと払い、凍りついた部屋の冷気を解凍した。
ユリアの床の張り付いていた手足も、同時に動かせるようになった。
「い、いやぁぁぁぁぁっ!!」
ユリアは半狂乱の悲鳴を上げながら、這うようにして執務室の扉へと向かった。
脱ぎ捨てられた靴も、置き去りの万能霊薬の小瓶も顧みず、ただ死の恐怖から逃れるために、なりふり構わず暗い回廊へと逃げ出していったのだった。
ユリアが逃げ去ったあとの執務室。
嵐が去ったかのように静まり返った室内で、アルディスは深く息を吐いた。
彼は右手の氷剣を霧散させると、胸元のポケットから一枚の刺繍入りハンカチを取り出した。
エルネが彼のために心を込めて縫ってくれた、拙いけれど愛らしい野草の刺繍が入ったハンカチだ。
それを愛おしそうに唇へと寄せ、そっと目を閉じる。
「……汚らわしい」
不快感を拭い去るように、エルネの残した微かな薬草の香りを胸いっぱいに吸い込む。
彼にとって、世界に存在する価値のある女性はエルネただ一人だった。
他の女がどれほど着飾り、どんな権威や薬を持ってすり寄ってこようと、それは彼にとって羽虫の羽音と同義だったのだ。
アルディスは床に転がっていた紫色の小瓶を、凍りついた爪先で踏みつぶそうとした。
しかし、先ほどエルネが不安そうに語っていた言葉が脳裏をよぎった。
『あの色と、底に沈んでいる沈殿……見た目は綺麗だけど……あれは、人を助けるような薬品じゃありません……!』
「……フン」
アルディスは靴底を止めると、無雑作に小瓶を氷の魔力で包み込み、証拠品としてデスクの引き出しへと放り込んだ。
「エルネの言っていた通りだ……俺の仕事は終わりだな」
金色の瞳に、冷ややかな謀略の光が宿る。
「エルネを傷つけようとする者がどうなるか……最高の絶望を教えてやる」
◇◇◇
騎士団の詰め所の奥側、王宮の暗い裏庭まで逃げ延びたユリアは、冷たい草むらに膝をつき、激しい吐き気に襲われていた。
「うっ……おえっ……ゲホッ、ゲホッ……!」
恐怖による寒気と震えが止まらない。ドレスは泥で汚れ、自慢の金髪は乱れ飛んでいた。
「なんで……なんでよ……ッ!!」
草むらを両手でむしり取りながら、ユリアは掠れた声で叫んだ。
自分がどれほど魅力的で、どれほど高貴か。
それをあの男は一切見ようともせず、ただ虫ケラのように切り捨てた。すべてはあの平民の女のせいだ。
あの女がアルディスに怪しい術をかけ、籠絡しているからに違いない!
そしてあの試験の後おかしくなった学院の面々。皆が自分を遠ざけ陰口で叩く。
「許さない……許さない許さない許さないッ!!」
ユリアが血走った目で立ち上がった時、彼女の足元に、逃げる途中でポケットからこぼれ落ちていたもう一つの試薬瓶が転がっていた。
それは、万能霊薬の副産物。
主原料である毒と魔物の抽出液が、濃密な漆黒の輝きを放っている。
「……ふふ……あははははっ!」
ユリアの口から、もはや人間のものではない、崩壊した高笑いが漏れた。
「ええ……そうよ。分かったわ……アルディス様。あなたがそこまであの女に狂っているのなら……わたくしが破滅させてあげますわ……!」
崩れ去ったプライド。
打ち砕かれた執着。
それらは純粋な狂気へと変貌し、ユリアの瞳を暗く濁らせていた。
「婚約発表パーティー……あの晴れやかな舞台で、あの女を真の罪人として告発してやる……! あなたも、国王も、全員わたくしの前に跪くことになるのよ……あははははははっ!!」
闇の中に響き渡る高笑いは、迫り来るパーティー当日の波乱を、重々しく告げていたのだった。




