第五話 エリクサーという名の毒
国営婚約発表パーティーの準備はいよいよ大詰めを迎え、王宮内は慌ただしさを増していた。
エルネはセシリアと共に、パーティー会場となるグランドホールの下見に訪れていた。
豪華絢爛なシャンデリアが眩しい光を投げかけ、赤絨毯が敷き詰められた大広間は、まさに国家の祝宴にふさわしい壮麗さであった。
「まあ、なかなか良い仕上がりですわね。当日はここに全貴族が集まりますのよ、エルネ」
「はい……緊張で足が震えちゃいそうです……」
エルネがドレスの裾をキュッと握りしめた、その時であった。
ホールの中央付近に、人集まりができているのが目に入った。
豪華な衣装を纏った貴族たちや、王宮の文官たちが、何やら感嘆の声を上げながら一箇所を囲んでいる。
「ご覧になりましたか? あれが薬学院の誇る『万能霊薬』だそうですよ」
「なんと美しい……! 一滴で病が治るというのは本当でしょうか」
「マルクス学院長が、パーティーでの献上に先立ってサンプルの披露を行っているようですわ」
ひそひそ話を聞きつけ、セシリアが不機嫌そうに眉をひそめた。
「チッ……あのしぶとい親子め、まだ諦めていませんでしたのね。見に行きますわよ、エルネ」
「え、あ……セシリア様!?」
セシリアに手首を引かれ、エルネは人集まりの後方へと歩み寄った。
人集まりの中心には、仕立て直した豪華な長袍を着たマルクスと、眩しいほどのドレスを着飾ったユリアが立っていた。
二人は貴族たちからの賛辞を浴び、鼻高々に胸を張っている。
ユリアの手元には、あの紫色の液体が入った水晶の小瓶が、光を浴びて神々しく掲げられていた。
「皆様、どうぞご覧くださいませ! これこそが我が王立薬学院が総力を結集して再現いたしました、伝説の『万能霊薬』にございますわ! 皆様にだけ先にお渡しします」
ユリアの声がホールに響き渡り、貴族たちから感嘆のため息が漏れる。
「これさえあれば、どれほどの激務も、どんな重病も一瞬で癒やされますの。パーティー当日は、日頃国のために尽力されているアルディス閣下、ならびに国王陛下へ、最優先で献上させていただく予定ですわ! 今日は試供品ですから、ぜひお試しください」
ユリアはそう言って、まるで自分が本当のアルディスの伴侶であるかのような気位で扇子をほほ笑ませた。
「厚かましい女ですわね……!」
セシリアがと苛立ちを露わにし、前へ出ようとしたその時。
エルネの足が、ピタリと止まった。
(……え……?)
遠目から、ユリアが掲げる水晶の小瓶を見つめた瞬間。
エルネの超絶鑑定眼が、意識する間もなく勝手に反応を起こした。
視界の中の色彩が反転し、小瓶の周りに渦巻く魔力の粒子が、異様な輝きとなってエルネの瞳に飛び込んできたのだ。
一見すると、透き通った美しく高貴な紫色。
だがエルネの目には、その美しい紫色の奥底で、ドロリとした不気味な黒い澱みが渦巻いているのがハッキリと見えた。
(何……あれ……? 紫色の魔力の中に、重くて粘りつくような澱みが沈殿してる……!?)
息が詰まるような感覚。
本物の薬草や上質な薬品が放つ魔力は、どこまでも澄み渡り、軽やかに空気と調和するものだ。
しかし、あの小瓶から放たれている魔力は、まるで見る者を底なし沼へ引きずり込むかのような、禍々しく重苦しい波長を放っていた。
(あんな沈殿……通常のポーションや霊薬では絶対にあり得ない。あれは……回復の光なんかじゃない。もっと恐ろしい、精神や魔力を狂わせる毒の波長だわ……!)
背筋に、サッと冷たい汗が吹き出した。
「エルネ……? どうしましたの、顔色が真っ青ですわよ?」
隣でセシリアが心配そうに覗き込んでくる。
エルネは震える唇を開き、ユリアの手元にある小瓶から目を離せないまま、かすれた声で呟いた。
「セ、セシリア様……あの霊薬……何か……何かとおかしくないですか……?」
「え……?」
「あの色と、底に沈んでいる沈殿……見た目は綺麗だけど……あれは、人を助けるような薬品じゃありません……!」
エルネの強い危機感を帯びた言葉に、セシリアの表情が一変した。
晴れやかな祝宴の裏で動き出した、王立薬学院の恐ろしい罠。
エルネの超絶鑑定眼が捉えた小さな違和感が、やがて王宮全体を揺るがす大事件へと発展していくことを、二人はまだ予感することしかできなかった——。
「もし本当に毒だとしたら……。エルネはここに居なさい、面倒が起きては困ります」
セシリアは背筋を正し、人混みに近づいていく。
「一体なんの騒ぎですの?」
「これは王女様。お祝いの品を王族の皆様に献上する前に皆さんに確認いただいていますの。パーティ当日にお渡ししますので楽しみになさってくださいね」
ユリアは微笑み、体調の悪そうなマルクスの背を叩いた。
「……本日はこれにて失礼致します」
マルクスは杖で地面を叩き、学院への転移魔法陣を起動させた。
まさしく蛇の睨み合い。
ユリアとセシリアは微笑んだまま、一切の言葉を発さない。
あっという間に光に包まれ、2人の姿は消えた。
「衛兵! 騎士団長アルディス様をお呼びなさい!
ここにいる者も誰一人動いてはいけません!」
セシリアは王女として、エルネの最高の相棒として覚悟を決めた顔つきをしていた。
◇◇◇
王宮の回廊に、静まり返った夜の冷気が立ち込めていた。
国営婚約発表パーティーの開幕を数日後に控え、警備の体制は日ごとに厳重さを増している。
しかし、その夜の騎士団長執務室の周辺だけは、不自然なほどの静寂に包まれていた。
カツン、カツン。
踵の高い靴底が大理石の床を叩く微かな音が響く。
豪華な装飾が施された薄紫のドレスの裾を揺らしながら、ユリア・マロンシュは騎士団長執務室へと続く暗い回廊を一人歩いていた。
その手には、月光を反射して妖しく揺らめく紫色の瓶。王立薬学院の秘蔵にして、彼女の執着の結晶である『万能霊薬』の試作品が握られている。
(ふふ……ふふふっ……)
ユリアの口元には、吐き気を催すほど甘く、歪んだ笑みが浮かんでいた。
父マルクスが手配した王宮文官への根回しと、第一調合法術師という自らの立場を悪用し、見張りである騎士たちの目を盗んでここまで潜り込むことなど、彼女にとっては容易いことだった。
彼女の脳裏を満たしているのは、ただ一つの光景。
平民の泥棒猫エルネを完膚なきまでに捨て去り、自分をその腕に抱き寄せるアルディスの姿だ。
(あんな泥臭い草むしり女のどこが良いというのです? 立ち振る舞いも、血統も、学識も……何一つとして至宝たるアルディス様にふさわしくない! あの男を真に支えられるのは、王立薬学院の最高峰たるわたくしだけ……!)
先日の講堂での屈辱が、燃え盛る業火となってユリアの胸を焦がしていた。
セシリア王女の前で晒した醜態。学者たちの冷ややかな視線。
それらすべてを上書きし、自らの価値を証明するためには、アルディスというこの国最高の存在を手に入れること以上に確実な方法はない。
(あの霊薬には、回復薬、中毒性の高い毒草。加えて人の心を惹きつけ、判断力を鈍らせる魔物の血液、魅力魔力も混ぜてありますの。……ひとくちでも口に含ませてしまえば、アルディス様の心も身体も、すべてわたくしの思い通り……!)
ユリアの胸は、勝利への確信と怪しい高揚感で大きく波打っていた。
執務室の重厚な木枠の扉の前に立つ。
隙間から、うっすらと燭台の明かりが漏れていた。アルディスは今夜も、パーティーに向けた警備計画と国務の書類整理のために、一人で執務室に残っているはずだった。
ユリアは自らの黄金色の髪をさっと整え、胸元を少しばかり開けるようにドレスを直すと、優雅な手つきで扉をそっと押し開けた。
ギィ……。
控えめな音を立てて扉が開く。
広い執務室の奥、整然と書類が積まれた重厚なデスクに向かって、一人の男性が筆を走らせていた。
夜の闇で輝く月光のような艶やかなプラチナブロンド。彫刻のように整った切れ長の顔立ち。そして、開いた胸元から覗く鍛え抜かれた体躯。
この国の魔導の至宝にして、最強と謳われる王立騎士団長アルディス・ヴァルボートである。
燭台の炎が揺れ、彼の側顔を美しく照らし出していた。
(ああ……素晴らしい……! なんという美しさ……!)
ユリアは息をのんだ。目の前にいる男の圧倒的な存在感に、全身の血が激しく沸き立つような錯覚を覚える。
こんな極上の男が、あの泥臭い平民女の膝の上に頭を乗せ、甘えた声を注いでいるなどという事実が、到底許せなかった。
「……何者だ」
筆を止める音すらなく、冷ややかな低音が執務室に響いた。
アルディスは顔すら上げず、書類に視線を落としたままだった。
だが、室内の空気が一瞬でピンと張り詰めるのを感じる。
ユリアは意識して、もっとも可憐で優雅に見える笑みを口元に作ると、滑らかな足取りで部屋の中へと足を踏み入れた。
「夜分遅くに失礼いたしますわ、アルディス様。……わたくしです、第一調合法術師のユリア・レグラリアにございます」
甘く粘りつくような声。
ユリアはあらかじめ手首に忍ばせていた、男を惑わす最高級の香水の香りを漂わせながら、アルディスのデスクへと近づいていく。
「見張りには下がってもらいましたの。連連日のパーティー準備でお疲れのアルディス様のために……わたくし、特別な差し入れをお持ちいたしましたのよ?」
カトン。
小さな音を立てて、ユリアはデスクの上に紫色の小瓶を置いた。
小瓶の中で妖しい液体がゆらゆらと揺れ、淡い光を散らす。
そこで初めて、アルディスは緩やかに顔を上げた。
金色の瞳。氷原の奥底から掬い上げたかのような、色彩の薄い、あまりにも美しく無機質な瞳がユリアを捉えた。
「……レグラリア子爵家の娘か。事前の許可なく騎士団長執務室へ侵入することは、軍律違反にあたると知っているか」
「まあ、軍律だなんてそんなお硬いことを……っ」
ユリアはくすくすと可愛らしく笑ってみせ、扇子で胸元を隠しながら、さらに一歩アルディスへと身を乗り出した。
「わたくしはただ、疲れ果てたアルディス様をお救いしたいだけですの。……ご覧になってくださいませ。これこそが我が王立薬学院が完成させた、伝説の『万能霊薬』ですわ」
ユリアは小瓶を指先で愛おしそうになぞり、甘い瞳でアルディスを見つめた。
「ほんの一滴で、溜まりに溜まった魔力の疲労も、身体の重みも嘘のように消やし去りますの。……アルディス様、連日あの平民の女の立ち振る舞いの指導や気苦労で、どれほどお心が擦り減っておられることか……わたくしには痛いほど分かっておりますわ」
「……何が言いたい」
アルディスの声からは、感情の一切が抜け落ちていた。だが、ユリアはその冷たさを疲労によるものだと完全に誤解していた。
(効いているわ……! わたくしの言葉に耳を傾けていらっしゃる!)
勝利を確信したユリアは、さらにすり寄るようにデスク越しに手を伸ばし、自らの豊満な胸を強調するように身を乗り出した。
「あのような野蛮で知識もない平民の女など、早く捨ててしまわれればよろしいのですわ! あんな女がいくら束になっても、アルディス様のお役に立てるはずがありません! ……わたくしと、この万能霊薬と共にありましょう? わたくしならば、貴族としての完璧な教養も、最高峰の調合術も、アルディス様へ捧げることができますわ……!」
言葉とともに、ユリアの指先がアルディスの漆黒の衣の袖へと触れようとした。
アルディスは変わらない表情でただユリアを見つめ、ユリアを拒絶する素振りはない。
ユリアは微笑み、アルディスへその体を近づけるのだった。




