第四話 最高機密のティータイム
王立薬学・鉱物院での衝撃的な評価試験から、数日が過ぎた。
王宮の一角にある静かな庭園の東屋。
柔らかな陽光が木漏れ日となってテーブルを彩っていた。
小鳥のさえずりが心地よく響く中、優雅な磁器の音が重なる。
カチャ。
「——エルネ。音を鳴らしてはいけません。背筋が少し丸くなっていますわ。顎を軽く引き、肩の力を抜いて。磁器のカップを持つ時は、小指を立てずに指の腹で優しく支えるのです」
「は、はい……ッ! こう、でしょうか……王妃様……!?」
指導を行っていたのは、この国の母であり、セシリア王女の母でもあるエレノア王妃であった。
絹のドレスを優雅になびかせ、立ち振る舞いのひとつひとつが完璧な絵画のように美しいエレノア。
厳しくも温かい眼差しでエルネを見つめている。
その隣では、セシリアが自らのカップを傾けながら、楽しげに笑みを浮かべていた。
「ふふ、お母様ったら厳しいですわね。でもエルネ、あの日薬学院で見せた凛とした立ち姿を思い出せば、これくらい簡単にこなせますわ!」
余裕な表情でエルネを横目に見るセシリア。
しかしエレノアの目にはその様子さえも指導対象だった。
「セシリア、あなたもお茶を飲む際に肘が少し開き気味ですよ」
「まあっ!? わ、わたくしは完璧ですわ!」
王妃の一言にセシリアが頬を膨らませ、東屋には和やかな空気が流れた。
エレノア王妃はエルネの淹れたハーブティーを一口含み、うっとりと目を細めた。
「……素晴らしい香りですこと。エルネ、あなたの選ぶ薬草と淹れ方には、素材に対する深い愛と誠実さが満ちています。マナーや作法は単なる『型』に過ぎません。大切なのは、相手を思いやるその心。あなたにはすでに、王室の伴侶としてふさわしい美しい心が備わっていますよ」
「王妃様……っ」
王妃からの温かい言葉に、エルネの胸の奥がじんわりと熱くなった。
あの日、王立薬学院でみごと再評価試験を突破して以来、王宮内でのエルネに対する扱いは一変していた。
平民の少女が隠された素材の劣化を一瞬で見抜いたという噂は瞬く間に広がり、彼女の『超絶鑑定眼』をインチキだと侮る者は誰もいなくなっていたのだ。
「セシリアから聞きましたよ。付添人として同行した際、あなたがどれほど立派に自らの知識と誇りを証明してみせたかを。あんな嫌がらせに屈せず立ち向かったあなたを、私は誇りに思います」
「ありがとうございます……! セシリア様が一緒に来てくださらなかったら、私、威圧感に押しつぶされていたかもしれません」
「当然のことをしたまでですわ。わたくしはあなたの『最高の相棒』ですもの!」
セシリアはフンと誇らしげに胸を張り、それからニッと悪戯っぽく微笑んだ。
「それにしても……試験が終わった直後のアルディス様の取り乱し方は、それはもう酷いものでしたわね。お母様にも見せてさしあげたかったですわ!」
「う……っ、それを言わないでください……」
エルネは思い出しただけで顔が火照り、両手で真っ赤になった頬を押さえた。
試験を終えて薬学院の門を出た瞬間、待ちきれずに飛び出してきたアルディスに、エルネは衆目もはばからず強く抱きしめられたのだ。
『無事だったかい!? どこも怪我はないかい!? あの老いぼれどもに何をされた!? 今すぐ薬学院を更地にしようか!?』
激しいパニック状態で全身を改められ、周囲の衛兵から生温かい視線を浴びる羽目になったのだった。
「『一秒でも遅れていたら、本当に薬学院を氷漬けにするところだった』なんて……アルディス様、過保護すぎます」
「あら、アルディスがそれほど感情を露わにするなんて、昔では考えられないことです。それだけあなたを愛しているのですね」
エレノア王妃の優しい微笑みに、エルネは恥ずかしそうに視線を落とした。
左手の薬指で静かに輝く、藍色の魔石の婚約指輪。その重みを感じるたび、胸の奥が甘く疼く。
作法指導を受け、パーティーの準備が進むにつれ、自分がアルディスの伴侶になるのだという実感が、ゆっくりと皮膚に染み込んでいくようだった。
(私は、ただの薬草収集家。でも……こうして私を支えてくれる人たちのためにも、胸を張ってアルディス様の隣に立ちたい)
こよ試練を乗り越えたことで、エルネの心には確かな自信が芽生え始めていた。
しかしたくさんの人が自分たちを祝福してくれる一方で、影の泥みの中で蠢く悪意は、決して消え去ってはいなかったのだ。
王妃による丁寧な作法指導のレッスンを終えたのち、エルネは王都のギルド連合に素材の依頼確認に向かっていた。
廊下を歩いていると、すれ違う人たちの間で、どこか興奮を帯びたひそひそ話が交わされているのに気づいた。
「ねえ、聞いた? 王立薬学院のユリア様が、とんでもないお薬を完成させたんですって」
「ええ、聞いたわ! なんでも伝説の『万能霊薬』の再現に成功したとか……!」
「本当かしら? どんな病も一瞬で治し、溜まった疲労や魔力の枯渇も完璧に回復させる伝説のお薬でしょう?」
「失伝した古代の調合法を、マルクス院長とユリア様が長年の研究の末に解明されたそうよ。今度のアルディス様の婚約発表パーティーで、お祝い品として王室へ献上されるらしいわ」
(万能霊薬……エリクサー……?)
耳に飛び込んできた単語に、エルネは思わず足を止めた。
エリクサー。
それは薬草収集家や調合師にとって、まさに神話や童話の中にしか存在しない伝説の最高峰薬品だ。
あらゆる傷や病を癒やし、極限の回復力をもたらすとされる幻の存在。
(古代の文献には確かに記述があったけれど……現代の調合法では、主原料となる幻の薬草が絶滅しているから作成不可能とされていたはず。それを、王立薬学院が再現したの……?)
エルネの胸に、言い知れぬ引っかかりが生まれた。
もし本当なら、それは歴史をひっくり返すほどの大偉業だ。
しかし、あの日見せたマルクスとユリアの粗雑な素材管理や、権威だけに固執する姿勢を思い出すと、どうしても違和感が拭えなかった。
「……あ、エルネ!」
ギルドの待合室で物思いに沈んでいたエルネの視界に、長い髪をなびかせたアルディスの姿が入ってきた。
「アルディス様!」
「探したよ、エルネ。こちら騎士団との打ち合わせだったのに、なかなか姿が見えないから心配した」
アルディスは一瞬で間合いを詰めると、エルネの手を優しく握りしめた。
その金色の瞳には、相変わらず過剰なまでの心配と愛おしさが満ちている。
「もう、作法指導のあとにほんの少しティータイムを楽しんでいただけですよ。……それより、アルディス様。ここや王宮内で流れている『噂』を聞かれましたか?」
「噂……? ああ、あの老いぼれ親子が騒ぎ立てている怪しげな薬品のことかい?」
アルディスは露骨に眉をひそめ、心底不快そうな表情を浮かべた。
「ええ。エリクサーを再現したとかで、お祝い品とか。アルディス様の疲労も吹き飛ばせるとか。ユリア様が触れ回っているみたいですけれど……」
「下らん」
アルディスは一蹴した。
「あの女が何を作ろうと俺には関係がない。俺の疲労を吹き飛ばせるのは、エルネ、君が淹れてくれたハーブティーと、君の温もりだけだ。他の者が差し出す薬など、一滴たりとも口にするつもりはない」
「ア、アルディス様……っ」
真顔でとんでもない溺愛発言を繰り出すアルディスに、エルネは顔を赤らめるしかなかった。
けれど、彼の揺るぎない態度に安堵しつつも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
(ユリア様は、あんな管理の薬草を持っていた人。その技術は噂で聞く一流には程遠いじゃない……。一体、何を企んでいるんだろう……?)
ガチャリ。
待合室の扉が開く。
背の高いの丸メガネの女性が入ってきた。
銀髪の長い髪を丁寧に編み込んでいる、一見事務員にも見える女性だった。
「お待たせしました。ギルド連合代表のシリルです。騎士団とギルドの合同演習についての打ち合わせですね?」
アルディスは軽く手を挙げ、エルネは慌てて立ち上がり挨拶をする。
「ああ。シリル、こちらは噂の婚約者エルネだ。よろしく」
「はじめまして、シリル様。エルネと申します」
「エルネさん。噂はよく入ってきているわ。こちらこそよろしくお願いします」
シリルとアルディスは2人で頷き合い、冷徹な責任者の顔になった。
「我々はギルドと騎士団の代表としてよく連携を図っていてね。エルネも彼女のことをよく覚えておいてくれ」
「ええ、そうして頂戴。今回のこの騒動、私も上手く活用させてもらいたくてアルディスを呼んだのよ」
エルネには、2人の後ろに漂うただならぬ魔力が具現してドラゴンのような姿が見えていた。
◇◇◇
その頃、王立薬学・鉱物院の最深部にある秘密研究室。
薄暗い部屋には、数々のフラスコや怪しげな液体が満たされたガラス瓶が乱立し、不気味な紫色の光が室内を照らしていた。
「……ふふ、ふふふふ……っ!」
けたたましい高笑いが部屋に響き渡る。
鏡の前に立っていたユリア・レグラリアは、自らの金髪をかきむしりながら、叫んだり暴れたりを繰り返す。
そしてついには歪んだ笑みを浮かべていた。
あの講堂での屈辱。
平民の泥棒猫に敗北し、セシリア王女に嘲笑されたあの記憶が、彼女の脳裏で幾度となく再生され、胸を焦がしていた。
「絶対に許さない……! あの生意気な平民女も、わたくしを愚弄したセシリア殿下も……全員、わたくしの足元にひれ伏させてやるわ!」
「ユ、ユリア……本当に大丈夫なのかね……?」
部屋の隅から、怯えたような声が上がった。
院長のマルクスである。
あの日同僚や部下にも侮辱され、以来、すっかり意気消沈した老人は、娘の常軌を逸した雰囲気に恐れをなしていた。
「父様、何を日よっているのですか!」
ユリアはバッと振り返り、父を鋭い目つきで睨みつけた。
「この『万能霊薬』さえ完成すれば、我が薬学院の権威は以前の何倍にも高まりますわ! 国王陛下も我が家門に感謝し、アルディス様だって……あの平民女との安っぽい愛など捨てて、わたくしを選ぶはずです!」
「だ、だがなユリア……その霊薬の主原料に使っているのは、禁忌とされる……」
「お、と、う、さ、ま!!」
ユリアは父の言葉を強硬に遮った。
彼女が机の上から持ち上げたのは、手のひらサイズの水晶の小瓶であった。
その中には、深みのある妖しい紫色をした液体が満たされており、まるで生き物のように仄かな光を放っている。
「効能は完璧ですわ。一口飲めば全身に魔力が漲り、どんな疲労も一瞬で消やし去る……! 誰もがこれを求め、わたくしを称賛するわ!」
ユリアの瞳には、狂信的な執着が宿っていた。
彼女は知っていた。
この薬品が、一時的に劇的な効果をもたらす代わりに、どのような恐ろしい『代償』を秘めているかを。
研究室にはたくさんの小動物の死体が転がっている。
だが、プライドを傷つけられ、地位も名誉も崩れ落ち、アルディスへの執着に狂った今の彼女にとって、そんなことはどうでもよかったのだ。
「待っていらっしゃい、アルディス様……。あの平民女からあなたを救い出し、わたくしが本当の『至宝の伴侶』になって差し上げますわ……!」
小瓶を愛おしそうに頬へ寄せ、ユリアは暗い闇の中でニヤリと微笑んだ。




