第8話 言葉のない時間
壁に手をつきながら、階段を上がる。上がり切った先の扉からは、微かに光が漏れている。扉を開けた正面のソファーには、イリシアの後ろ姿が見えた。立ち上がって、こちらを向く。
「お帰りなさいませ。陛下。ご無事で何よりでした」
背筋がまっすぐに伸びている。
「ああ」
短く答えて、イリシアの視線を素通りする。自室の扉に手をかける。
「陛下、こちらにお越しいただけますか」
ハルの手は止まる。
「今日は疲れている」
返事はない。振り向くと、イリシアはもうバルコニーの方へ向かっていた。
ため息をつき、ゆっくりと向きを変えて、バルコニーへ向かった。
バルコニーに出ると、左側の温室の中では、すでにイリシアがランタンに火を灯していた。
開けたままになっている温室の扉をくぐる。
「こちらへお掛けになって」
椅子を示されて、手前の椅子に座る。
イリシアはそのまま温室を出ていった。
机に肘をつく。組んだ手の上に額を載せる。長い息を吐く。
後ろから、食器の触れ合う音がした。テーブルの上に、ティーカップが置かれる。ハルは、イリシアから視線を外し、ティーカップへ落とす。湯気と共にスッと抜ける香りが鼻を抜けていく。
「温かいうちに、お飲みになってくださいませ」
ハルは、小さく首を傾げる。ティーカップに指をかける。一瞬、イリシアに視線を向けてから一口飲む。
イリシアを盗み見るが、静かにお茶を飲んでいるだけだった。
もう一口飲んで、カップを置く。飲み込んだお茶の通ったところが温かい。呼吸の速さが、ゆっくり落ちていく。
イリシアがカップを置く音がする。
最後の一口を飲み、カップを置く。
「今日は、お疲れになったでしょう」
「……ああ」
顔を伏せたまま答える。
「ゆっくりお休みになって」
顔を上げる。イリシアと目が合う。微笑んでいた。ゆっくりと立ち上がり、扉に向かって一歩足を出す。
「おやすみなさいませ」
肩越しにイリシアへ視線を向ける。小さくうなづいて、温室を出る。
ベッドへ横になったハルは、天蓋の木目を見ていた。何の意味もなさない模様を、目で追ううちにハルの瞼は落ちていった。
ふと、目を開ける。外から鳥の声がする。カーテンの隙間から日が差している。枕元の懐中時計を開く。「今日は早くに目が覚めたな……」
ベッドから出て、カーテンを開けて外を見る。小さく波立つ海が見えた。朝日に照らされた海は、青緑と深い青で揺らいでいた。




