第2話 お前が死ねばよかったのに
ドアをノックする。背筋を伸ばして、返事を待つ。
「入れ」
「失礼します」
ローズウッドのデスクに、窓の光が赤く滲んでいる。
「ハル、今日が出立だったか」
「はい、父上。本日アッシュクラウン平原へ向かいます」
父が眼鏡を外す。光を宿した強いまなざしを向ける。
「アッシュクラウン平原を制すれば、我が国の勝利は間違いないものになるだろう。すべてはお前の指揮にかかっている。任せたぞ、ハル」
「父上に良きご報告ができるよう、全力を尽くします」
目尻にしわが寄り、鋭い眼光が柔らかくなる。
「頼もしくなったな、ハル。お前は小さい頃から体が細く、騎士にはなれないと思っていた。一人図書館で本を読んでばかりで、将来はどうなるかと心配していたが、レグルスの右腕となれるまでになったな。お前もそう思わぬか。」
父は隣に立つ男へ目を向ける。白髪交じりの髪と丸い眼鏡。穏やかに笑っているが、その目だけは一歩引いた場所にあった。
「ええ、殿下がヴォルガ殿の顔を怖がって、泣きながら剣術の稽古をしておられたのを、昨日のことのように覚えております。殿下のご立派な姿を、王妃殿下がご覧になられたら、どんなに喜ばれたことでしょう」
ハルは下を向く。耳が赤い。
「やめてください、ベルム殿。子供の頃の話を出すのはずるいですよ」
ベルムの手で隠した口元から、笑いが漏れる。
「これは失礼いたしました。ハル王子殿下、ご武運をお祈りしております」
右手を左胸に当て、一礼する。
青いマントを翻し、部屋を出た。
風に煽られ、入り口の布が、緩くなびいている。兵士たちの小さな笑い声に混ざって、鎧のぶつかる乾いた音が、風に乗ってテントの中に入ってくる。
「今夜は冷えますな」
体をかがめながら、熊のような男がテントに入ってくる。
「兵の様子はどうだ」
「相変わらず賑やかですよ。ちょっと浮かれすぎにも見えますがね」
隣の椅子に腰を下ろす。ミシミシと軋む。ハルは思わず椅子の足に視線をやる。
「殿下は明日も前線へ出られるのですか」
「当然だ。指揮官が前に出ずしてどうする」
「……そうですか。」
男の視線は下を向いたままだ。
「ヴォルガ、お前は私が前線に出ることは反対なのか」
「いえ。殿下が出られるなら、私は盾となるだけです。」
外の焚火の爆ぜる音が聞こえる。
「ハル王子殿下、王城より至急の伝令が来ております」
「すぐに通せ」
伝令は肩で息をしている。こわばった顔で、言葉が出ない。
「申せ」
伝令が喉に閊えた何かを飲み込むように、喉仏を上下させる。
「申し上げます。レグルス王子殿下がご逝去なされました。つきましては、ハル王子殿下は至急王城へお戻りください。騎士団長ヴォルガ殿は、兵を取りまとめ帰還するようにとのことです」
ハルは動かない。音が遠くに沈んでいく。言葉の意味だけが、遅れて残る。
「殿下……殿下……」
隣から掛けられた声で我に返る。
「殿下、すぐに王城へ」
ハルの視線が落ちる。椅子の手すりを握る手が震えている。
「ハル王子殿下、馬の用意ができました」
ヴォルガの節くれだった手に、ハルの二の腕が強引に引き上げられる。
「しっかりしろ、ハル王子」
ハルは自分の足で立つ。ヴォルガの大きな手が背中を押した。
礼拝堂の扉にかけた手が止まる。下を向いた目は閉じられ、何も映そうとしない。解け落ちた一房の髪が、頬に触れる。大きく息を吸い、手に力を入れる。
扉を開けた先に、騎士団員が静かに立っている。正面のステンドグラスから落ちる光の中心に、黒曜の棺が横たわっている。
兄は眠っているようだった。白い頬に一本の赤い線が走っている。震える指先で、そっと傷を撫でる。肌の冷たさが指先に触れた瞬間、ハルの口から嗚咽があふれ出す。崩れた体が、棺の淵にしがみつく。すすり泣く音が広がっていく。
「兄上に何があった」
下を向いたまま話す。
「申し訳ありません……申し訳ありません……」
従者が一人、叫ぶような声を上げ、泣き崩れる。
「落馬されたのです。私がお止めしていれば、こんなことには……」
「落馬……兄上が……?」
従者の背に手を当てていた男が口を開く。
「狩猟に出て……。その……陛下と口論に……。」
「口論?」
「自分も国のために戦いたい、と……何度も……そのまま馬を駆って……」
ハルは、泣き崩れている従者の前に膝をつく。肩に手を置く。
「兄上の死は、お前のせいではない。」
従者の悲痛な叫び声を背に、礼拝堂を出た。
父の執務室に近づくと、獣の咆哮のような声が聞こえる。何かが割れたような音が続く。階段を上がる足が速くなる。ノックもせず扉を開ける。
「父上」
部屋は荒れていた。足元に紙が散らばっている。踏みつけかけて足が止まる。顔を上げると、椅子は離れた場所に転がっている。部屋の中央には髪を振り乱し、叫び声をあげている父の姿があった。机の上を薙ぎ払い、固く握られた拳を、机に打ち付けている。右手には一筋の赤い線が見える。
「父上、お怪我を……」
駆け寄り、横から抱きすくめるように腕を抑える。体の大きい父の力は、衰えておらず、押さえた手は簡単に弾かれる。視界の片隅に、ゆっくり立ち上がる宰相の姿が映る。腰をさすっている。
「大丈夫ですか」
「ええ、それより陛下を……」
二人がかりで暴れる腕を押さえ、机から引き離す。押さえていた腕の力が抜ける。ハルが顔を上げると、父がこちらをじっと見ていた。その目からは、何も伝わってこない。ハルの呼びかけが届く前に、父の口から言葉がこぼれる。
「何でお前がここにいる」
ハルは、言われたことの意味が分からず、小さく首を傾げる。
「何でお前がここにいる。何でレグルスじゃない」
父の顔から眼を背けることができず、見続けるしかなかった。絞り出すような低い声が、耳の奥に貼りつく。
「どうしてレグルスなんだ……何で……お前が死ねばよかったのに……」
耳を通る言葉が、ばらばらにほどけていく。
「陛下」
ベルムの鋭い声に、父の体が小さく跳ねた。さまよう父の目がハルの顔を捉える。その目は大きく見開かれ、みるみる涙が溢れる。悲痛な叫びと共に泣き崩れる。
ハルは、ただ立ち尽くしていた。父の叫びは、もう届いていなかった。




