5. 第3章 「可愛い」の迷宮-2
その日の夕方、ネイトとラッセルは、オックストンの下町にあるラッセルの家に向かった。
夕暮れの街はガス灯がぼんやりと点灯し始め、石畳に長い影を落としている。
道に並ぶ家やアパートからは夕食の香りが漂い、話し声が聞こえてくる。
路上で遊んでいた子供たちも引き上げ、車や馬車も少しスピードを上げて道を進んでいた。
ネイトは白シャツに黒パンツのいつもの格好だが、肩に試作品の入った麻袋をかけ、どこか気まずそうに歩く。
子供に教えを請うことに抵抗があるのかもしれない。
ラッセルは帰路で買った、普段よりも多い夕食を両手に手に持つ。
葉野菜がたっぷり入ったスープに、炙った様々な種類のソーセージ。
焼き直したパンからは香ばしい香りと、ほのかな暖かさが伝わってくる。
ラッセルが木製のドアを開けると、暖かな光が2人を迎えた。
「おかえりなさい、パパ!」
エリノアが笑顔でラッセルに駆け寄り、金色のロングヘアが揺れる。
左側の髪は今日もきっちりと編み込まれていた。
だがネイトを見上げると、彼女の動きが止まる。
「…誰?」
ネイトの長身と鋭い目つき、赤い髪のツーブロックは子供にとって威圧的だった。
身長差が30センチ以上あるため、双子からすれば文字通り見上げるような相手である。
リネットに至ってはネイトを見て怯えた表情を浮かべ、エリノアの後ろに隠れていた。
右側を編み込んだ金髪が揺れ、灰色の瞳が警戒心を帯びている。
まるで野良猫のような様子だ。
人をからかうのが好きな彼女だが、知らない大人には慎重だった。
ラッセルは苦笑し、リネットの頭を撫でた。
「怖がらなくていい。ネイトは見た目はアレだが悪い人間じゃない。工房の同僚だ」
ネイトは赤い髪をかき、困ったような表情を浮かべている。
「見た目がアレって何だよ」
ネイトがむっとしてつぶやくが、リネットはまだラッセルの後ろに隠れている。
エリノアはネイトを値踏みするように見つめる。
「パパの同僚? なんか、路地裏の悪党みたいね」
「おい、ガキ!」
ネイトが声を荒げるが、エリノアはケラケラと笑う。
リネットはなおもラッセルの後ろに隠れ、チラチラとネイトを窺う。
エリノアは腕を組み胸を張る。
「ふーん、職人ね。パパの作るドレスみたいに凄いのを作れるの?」
挑戦的に尋ねるエリノアに対し、ネイトは青筋を立てながら麻袋から試作品を取り出し、エリノアに投げて渡す。
「ドレスも作れるが、今はぬいぐるみ作りが仕事だ」
エリノアは羊のぬいぐるみを受け止め、まじまじと見つめた。
ネイトはそのまま木製のテーブルの上にぬいぐるみを並べていく。
その中の1つを見て、隠れていたリネットが飛びつくように前に出る。
「あ、この犬、ちょっと可愛い!」
「私はこっちの猫の方が好き!」
「え、鳥もいいじゃん!」
二人は次々にぬいぐるみを手に取り、意見を言い合う。
(とりあえず目的は達成できそうだな)
その光景を見たネイトはニヤリと笑う。
ラッセルも2人の反応を見て、試作品の反応がそこまで酷くないことに一安心した。
とりあえず、夕食を食べながらエリノアのリネットの感想を聞くことにし、ラッセルは買ってきた夕食をテーブルに並べ始めた。
しばらくの後。
どのぬいぐるみが可愛いかについて、姉妹で意見が分かれたことで、ネイトとラッセルは混乱していた。
2人はアレコレ言うが意見が一致しないことも多く、「可愛い」の基準を見出すに至らない。
やけになって適当にパーツを繋げた失敗作の猿のぬいぐるみを見て、2人が可愛いと言い出したりもする。
答えを得るどころか、余計分からなくなっていた。
ラッセルは膝を折って姉妹と目線を合わせ、穏やかに聞いた。
「可愛いって何だと思う?」
リネットは犬の試作品を抱きしめながら、元気よく答える。
「抱きしめたくなるやつ!」
勢いに金色の髪が揺れ、灰色の目がキラキラと輝く。
子供の純粋な目と、どう解釈していいのか分からない回答を前に、ラッセルの動きが止まった。
「抱きしめたくなる…?」
ネイトが頭を抱える。
「もっと具体的に言えよ!」
苛立ちをぶつけるように吠えたネイトの大声に驚き、リネットは慌ててエリノアの後ろに隠れた。
エリノアはリネットを庇いながら笑い、ネイトをたしなめる。
「そんな大声出さないでよ。リネットがびっくりするでしょ」
ネイトは申し訳無さそうに頭をかく。
エリノアはベアトリスを手に取り、ふわふわの毛並みを撫でた。
「可愛いって、こう…心が温かくなる感じ。持ってるだけで嬉しくなるの」
ネイトは壁際の棚に置かれた蛙の模型を指す。
「じゃあ、あれは可愛くないよな?」
緑色の陶器製の蛙はツヤツヤとしていて、リアルでやや不気味な表情を浮かべている。
エリノアは蛙を手に取り、じっと見つめた。
「うーん、気持ち悪いけど…ちょっと可愛いかも」
「はぁ!?」
ネイトは目を見開き、赤い髪を両手で掴んだ。
「気持ち悪いのに可愛い? 」
「そういうこともあるのよ。人間の心は複雑ね」
エリノアはむふーと得意げな表情をするが、ネイトは世界の不条理を一身に浴びたかのように目を見開いて叫び声を上げた。
「俺にはもう、可愛いってのが何なのか分からねえ!」
ラッセルは苦笑し、試作品を手に取る。
「じゃあ、どんなぬいぐるみが欲しいんだ?」
『ティムクラフトのベアトリス!』
エリノアとリネットが即答し、2人の灰色の目が輝いた。
ネイトとラッセルは顔を見合わせ、同時に頭を抱えた。
「それが作れりゃ苦労しねえんだよ…」
ネイトは呟き、テーブルに突っ伏した。
夕食を食べ終わった後も、夜が更けるまで議論は続いた。
2人はエリノアとリネットの意見を聞き、何度もスケッチを書き直したが、結論は出なかった。
ネイトは疲れ切った顔でラッセルの家を後にした。
外に出るとガス灯が揺れて下町の静かで薄暗い夜が広がり、路地裏を覗けば先が見えない暗闇が手招きしている。
「可愛い」の迷宮。
それが目の間に出現したかのようだった。




