9.
鳴りっぱなしの電話に出ることなく、家の中に入った友香は、急足で自室の部屋へと入ると、閉めたドアの前で立ち尽くしていた。
(時田さんが、双子だった…?)
さっき聞いた彼の話が、彼女の頭の中で反芻していた。
(幸雄と、双子、なの?)
入り口の近くにある本棚に飾られている、友香と二人で写っている写真の方へと視線を走らせる。そして、手を伸ばしてその写真立てを手に出ると、友香は今まで抱いていた自分の気持ちを全て認めてしまった。
(あたしは、本当にサイテーだな…)
もし、時田と幸雄が血を分けた兄弟なら、時田が幸雄と似ているのは当然だ。しかし、そんな偶然があるのか。信じられない気持ちがぐるぐると巡る。会いたいという気持ちに嘘はなかった。しかし彼女の涙が、彼に対する気持ちに答えていた。もうすでに、答えているのだ。
(選択肢を、間違えた…)
両手で顔を覆い、そのままドアの前に座り込む。出てしまった結論に呆然としていると、友香のスマホがまた着信を知らせていた。
バッグをひっくり返してスマホを手にすると、ディスプレイには白い字で髙橋の名が浮かんでいる。
(…出たくない)
何か仕事でミスをしたのか。また何か文句を言うのか。自分は彼にとって透明人間になったはずだった。あんなキスをして、散々無視をして、今更何の用事があるのだろうか。
通話ボタンを押せないまま、彼からの着信が繰り返される。
「なんなのよ…」
友香はそう呟きながらその電話に出ていた。
「何か用?」
『用事があるから電話したんだけど?』
高橋の口調はいつも通りだ。何の動揺もなく、友香は仕事の話か、と思いながらため息をついた。
「仕事で何かミスでもあった? 悪いけど、明日にしてもらえる? あんたも早番でしょ? その時でいいじゃない」
友香は投げやりにそう告げ、電話を切ろうとした。
『今、お前の家の近くの公園にいるんだけど』
思いがけない返答に友香は眉をひそめた。
「はぁ? なんで?」
『店で話せることではないしな』
「もう家だし、無理よ」
部屋の時計を見ると、もう25時少し前だ。
『待ってる』
髙橋はそれだけ告げると、電話を切ったのだ。
(何でよ…、意味がわからない…)
しかし、今の友香に選択肢はなかった。耳に残る高橋の声が、うんざりするほど優しくて、縋りたくなるのだ。あんな扱いを受けたのに、今更何で優しくなんてするの? と友香は半ば怒りながら自分の部屋を飛び出して、彼の待っているという公園へと向かっていた。
街灯の下にある木製のベンチに長い足を組みながら座っている高橋が、薄暗い白い光に照らされながらそこにいた。眉を寄せながら、友香はその男に近づいた。真夜中の公園は、いつものような子どもの声や走り回る足音がない分、本当に静かだった。
ジャリと音をさせながら地面を踏みしめて近づいていくと、その足音で気づいた髙橋が、友香の姿をじっと見つめていた。彼女は髙橋と距離を取るようにして間を空けて隣に座った。
「店で話せないことって何? また時田さんのことで言いたいことでもあるの?」
彼と目も合わさず、強い口調で友香は言い放った。すると、彼は上着のポケットから紐の切れたカエルのストラップを友香に差し出したのだ。すると、友香は焦って自分のスマホを取り出して確認すると、いつも付いていたカエルがいないことに気付いたのだ。
「大事なものだって、言ってなかったっけ」
髙橋は友香の左手を取り、手のひらを上に向けて、そのカエルを乗せたのだ。
「…気付かなかった」
ポツリと友香が呟くようにそう口にすると、髙橋はうなずいていた。
「まぁ、あんなにバタバタして帰ってたしな」
知ってたのか…と、友香は目を伏せた。
「…でもこれ、明日でも良かったのに。忙しいのに、わざわざ…」
「…なんか嫌な予感がしたから」
「嫌な予感…?」
そこで友香は初めて髙橋の顔を見る。そこにあったのは、愛想笑いを浮かべる髙橋ではなかった。
「大事なものを無くした代償に、傷つくようなことが起きたら、寝覚め悪りぃなって思っただけだよ」
そう言いながら、髙橋は立ち上がった。
「…じゃぁな」
左手を挙げて、彼が公園に立ち去ろうと歩き出した時、友香は彼の背中に独り言を言うように口を開いた。
「悪いことをしたから、大事なものがなくなったのよ。だから、あんたが心配してくれなくても…」
静かな公園で話すには、十分な声の大きさだった。その言葉で彼の足が止まり、街灯の光に照らされた彼の影が長く伸びる。それを見つめながら、友香は肩を振るわせていた。
なぜ、こんなタイミングで優しさをチラつかせるのか。しかし彼女は、その優しさに縋ろうとしている自分も最低だとわかっていた。
「もう嫌だ。もう疲れた。もう、生きてるのがしんどい…。もう消えたい…」
それでも、もう自分の気持ちを縛り付けるのは、限界だった。溢れてくる涙をこぼしながら、やっと正直な気持ちを吐露できた瞬間だった。
その時、靴底が砂を噛む音が耳を掠めた。遠ざかっていたと思っていたのに、近づいてきた足音は彼女の前で止まり、地面に膝をつけると、伸びてきた腕は震える肩を包み込むように抱きしめていた。
手を伸ばしたって、本当に欲しいものがもう二度と手に入らないことは、解っていた。解っていたのに、しつこく願っていた2年間だった。いつか奇跡が起こるかもしれない。そんなことが起こるわけないのに、現実を受け入れられずに夢を見ていた。ただそれだけだった。それは、ただの甘えだった。子どもだった。
それを友香は泣きながら、嫌というほど自覚していた。もう夢ばかり見ていられるほど、子どもではない。もう、終わらせなければ…
どれくらいこのまま泣いていただろうか。抱きしめられているその体温が友香の抗う心を無効化していた。ずっと吐き出したかった心が、涙と一緒に流れ落ちていく。その涙が、友香の心を正直にした。今だけは、この暖かさに頼ってもいいだろうか。再び残りの道を歩いていくために、今だけこの胸に縋っていいだろうか。髙橋は、何も言わない。ただ黙って彼女を抱きしめているだけだった。まるで世界で二人しかいないかのような漆黒の空の下で響くのは、友香のすすり泣く声だけだった。
次の休み、友香は時田との次の約束として、彼と会う約束を取り付けた。例によって、時田の仕事の関係で、夜の待ち合わせになった。先に来ていた友香はカウンターの席に座り、時田が来るのを待っていた。
「すみません、遅くなってしまって」
約束の時間よりも少しだけ遅れて店に到着した時田は、少しだけ息を弾ませながら彼女の隣の椅子に腰を降ろした。
「連絡くれて嬉しかったです」
首を傾け、友香の顔を覗き込むようにして時田は笑った。しかし、友香は少しだけ緊張した表情で目を伏せていた。
「今日は、大事なお話があって…」
彼女のその硬い表情を見て、時田の顔から嬉しそうな笑顔が消えた。
「大事な、話ですか」
バーテンダーが彼の前に立つと、時田はドライベルモットを注文し、視線を友香へ戻す。彼女は意を決したように口を開いた。
「…この間車でお話ししてくださった話、まだ続きがありますよね」
探るような目で友香は時田の目を見つめた。しかしポーカーフェイスの彼は、自分の前に差し出されたベルモットの入ったグラスを手に取り、軽く揺らしていた。
「…あなたのことを少し調べさせてもらいました」
グラスに口をつけた後、時田はそう切り出した。
「これだけは言わせてください。あなたとの将来を真剣に考えているからこそ、必要だったんです」
「…はい」
調べられていたことはいささか驚きはしたが、友香はそれを受け入れていた。住む世界が違うのだからそれは仕方がない。もし結婚したら、ちゃんと務めを果たせるのか、それを見極めるためには必要だったのだろう。理解を示した友香の反応に少しだけ安心したのか、グラスをあおる時田は、息を整えるように小さく息を吐いた。
「僕が初めてあなたの勤めるお店を訪れたとき、あなたは誰かと僕を間違えましたよね」
髙橋が吉田の予約席に案内した時、友香は仕事中にもかかわらず、いるはずのない幸雄がそこにいるのかと思ってしまうほど似ていた時田の腕を掴んでしまったあの件のことだ。
じっと見つめる時田の目は憂に満ちていて、友香の心臓がドクンと跳ねた。時田の揺らすグラスからふんわりとハーブのスパイシーな香りがほんのりと漂っている。ゆったりとしたその仕草に、どうしても幸雄の影が重なってしまう。
「あなたのことを調べるように言ったのは、今の僕の両親です。その過程であなたに恋人がいた事実を知りました。あの時、あなたが咄嗟に呼んだ名前と弟が同じ名前だった」
静かに語る時田の言葉が、友香の脳にじわじわと浸透していく。
「友香さんは、僕の弟と付き合っていたんですよね」
彼の声が静かに彼女の胸に響いていた。友香の心の中で全てがつながった時、彼女は何度も何度もうなずいていた。
「あなたが僕のアプローチに困惑しながらも、こうして会ってくれているその理由がわかった気がしました」
そこまで言うと、渇いた喉を潤すようにベルモットのグラスに口をつけた。
「…ごめんなさい」
「その『ごめんなさい』は、どういう意味ですか」
その口調は、責めるわけでもなくきつく問いただすわけでもなく、本来なら怒ってもいいことのはずなのに、時田の口調は柔らかかった。
「私は、あなたに幸雄の面影を探していました。もう一度会えるかもしれないって、勝手に期待したり失望したりして、本当のあなたを見てなかった…」
今、きっと自分は目の前の彼を傷つけてしまった。いずれ傷つけてしまうことをわかっていたのに、会いたいと願ってしまった。自分の身勝手で…
いくら言い訳をしても、許されることだと思っていない。確かにこの世界に幸雄はいない。だからもう会うことができない。それは道理で、どんなに小さい子どもでもわかることだ。そして、時田と出会えたのは、彼の言う通り同じ世界線上で生きているからだ。替わりなんかじゃない。
「僕は、弟が引き寄せた出会いなのかな、って思いました」
時田はまたあの柔らかな笑みを浮かべ、希望を探る様に、涙を流して泣いている友香を見つめている。
「あなたを初めて見たとき、仕事中とはいえ立ち姿が美しくて、見惚れてしまいました。…本当に一目惚れでした。だから、あなたのすべてを知りたいと思ってしまいました」
友香を見つめる彼の目に、力がこもる。
「だから僕は」
「ごめんなさい、私は…」
ここは、遮るしかなかった。これ以上、時田に哀しい言葉を紡がせてはいけない。未だに幸雄の死を乗り越えられない彼女を見兼ねた幸雄本人が引き寄せたのだとしたら、今の友香にはこの出会いは間違っていると言い切れる自信があった。前に進もうと一歩踏み出せなかった自分がいけなかった。全てを過去にできなかった自分が不甲斐ないだけで、それを時田に甘えてもいい理由にはならない。『替わりでもいいから一緒にいたい』なんて言わせるのは、絶対に違う。そんな失礼な話はない。
「私は、あなたの優しさに付け込んで、自分を甘やかしていただけでした」
もう間違えないと、心に決めた。
「あなたに会うのは今日で最後にします。あなたは、私以外の人と幸せになってください…」
友香がそう告げると、諦めたように笑う彼のその目が蒼く染まった。
「…あなたなら、そう言うと思ってました。あなたが僕を見ていないことは、わかっていましたから」
もしかしたら、”替わり”だったものがいつの間に”かかけがえのないもの”に変わる未来があるかもしれない。時田はそれに賭けたいと思っていた。その道はきっと穏やかな道ばかりではないかもしれない。しかし、いつか思い描いていた未来が来ることを期待して友香との時間を過したい、それが彼の本音だった。
出会ってはいけないふたりが『一緒にいない選択』をしたとき、不意に『俺と付き合ったこと、後悔してない?』という声が聞こえてきそうだった。しかし友香は間違いなく、「後悔などしていない」と答えるに決まっている。だからこそ、これからは過去に囚われることなく生きて行かないといけない。もう間違ってもこのふたりが出会うことがないように、思い出だけ心にしまって、次の場所へと進まないといけないのだ。友香は時田を残して、店を後にした。時田は、小さくなっていく友香の後ろ姿を見つめながら、ほんの少しだけ残ったベルモットのグラスをあおっていた。




