7.
土日を経て、今日は月曜日。仕事が休みの友香は、ゆっくりと起床した。両親はもう仕事に出掛けており、家には一人だった。時計を見ると、すでに10時を回っている。
(寝過ぎちゃった…)
大きなあくびをかきながら伸びをして、ベッドから床に足をついた。カーテンを開けて窓の外に目を向けると、どんよりとした灰色の空からはしとしとと雨が降っていた。妙に気持ちも落ち着いており、現実を素直に受け入れている。ゆっくりとした時間が流れているような、そんな朝だった。
その時だ。枕元に置いたスマホが鳴っている。
(誰?)
着信のようだ。手を伸ばして転がっているスマホを手に取って、誰からの電話か確認すると、友香は目を疑った。
(え、雄一?)
突然の佐井からの電話に、思わず身構える。
(誰か穴開けたかな…)
そんなことを思いながら、友香はその着信を出ることにした。
「もしもし?」
受話器から聞こえてくる佐井からの話は非常に簡単だった。
「え、なんであたし?」
『俺、仕事中で行けないし』
さらりと当然のように用件を言いつける佐井に、友香は苦笑いを浮かべていた。
『それとも、今日は忙しかったか?』
「ちょっと。いちいち引っかかるい言い方しないでよ」
眉をひそめながら文句を言うが、『住所は後でLINEするから』と告げた彼との通話は、一方的に切れてしまった。
「あ、ちょっと…!」
相手が応答していない電話に何を言っても通じない。
(なんであたしが…)
大きなため息を吐くと、友香は出かける準備を始めた。
佐井の寄越してきたLINEのメッセージに書かれた住所を地図アプリにコピーして検索をかける。そして、その通りに歩いてきた友香は、今まさにその住所のマンションの前にいた。
都心の中にそびえ立つそのマンションは、いわゆるタワマンと呼ばれるセレブが住むようなマンションだったのだ。駅前に位置し、非常に便利な立地だ。
(タワマンなんかに住んでるの、アイツ)
決して好奇心が勝ってここに来た訳ではない、と自分に言い聞かせながらエントランスをくぐる。すると管理室前に設置されたインターホンに部屋番号を入れて、呼び鈴を押した。しかし、応答はない。
「…ちょっと、いい加減にしなさいよね」
ついそんな言葉をこぼしながら、一気に頭に血が上る。そんな友香は何度もインターホンを鳴らしまくっていた。
5分ほど押しまくっていたら、ようやく寝ぼけた声がスピーカーから聞こえてくる。その声はいつも聞く声よりもか細く、情けなかった。
「…今、開けた…」
「今、開けた、じゃないわよ! いつまで寝てる気よ、和志!!」
「…そんなとこで騒がないで、上がってきてくれ」
インターホンを一方的に切られ、友香は怒りで肩を震わせた。
(もうっ!)
プリプリしながらエントランスの自動ドアをくぐると、ちょうど降りてきたエレベータに乗り込み、7階のボタンを押した。
ドアの前までたどり着いた友香は、インターホンの下に下げられている小さなドアプレートを見ると、確かに『Takahashi』と書かれていた。
(…初めて来たけど、ホント良いとこのボンボンって感じ)
佐井とは他のバイト仲間を交えて遊びに行ったり飲みに行ったりはするのに、付き合いが長い割には髙橋と飲んだりプライベートで会ったりしたことがない。誰に誘われても、彼が首を縦に振ったところを誰も見たことがなかった。気さくに接してくるのに、髙橋のプライベートは明かされないことが多く、いつもそつなくこなす彼だが、色々と謎に包まれている。
ドアの前でしばらく立ち尽くしていると、急に玄関のドアが開いた。
「びっくりした…」
つい肩をすくめた友香がつぶやいた。小さく開いたドアの隙間から見えたのは、起きたばかりと思しき眠たそうな目をした髙橋だった。どう見ても寝起きで、いつもは後ろに流してセットしている前髪は、だらりと伸び額を隠している。見たことのない彼の姿に、ドキドキしている自分がいることに気づくと、友香は自分を落ち着かせるためにそんな彼から目を逸らした。
「まぁ、とりあえず入ったら」
あくび混じりにそう口にして、彼は大きくドアを開けた。そして、友香の頭からつま先まで遠目で眺めると、ふっと笑ったのだ。
「え、なに」
そこ、笑うところ? と思いっきり不機嫌になりながら、彼女は眉間に皺を寄せる。しかしそんなことを気にすることもなく、髙橋は来客用のスリッパを玄関のクローゼットから取り出して、彼女の足元に置いた。
「普段、そんな感じなんだ、って思って」
柔らかい笑みを浮かべながらそう告げると、くるりと踵を返してゆったりと廊下を歩き出した。
(え、変ってこと?)
白いボートネックの長袖のシャツに、ベージュ系のチェックのキャミワンピースを着ていた彼女は、いささか疑問に思いながら、友香は靴を脱いで出されたスリッパに足を入れた。そして、彼の後について行くと、部屋と廊下との境界線にあるドアの向こうの部屋へと足を踏み入れた。
リビングに入ると、その部屋の日当たりは良好そうな大きな窓が目に入り、友香は思わず足を止めていた。今日の天気は残念ながら雨だが、天気のいい日には太陽の光が目一杯差し込み、白を基調とした部屋全体が光を纏うような明るく贅沢な空間になるのだろうと想像できる。そして、一人暮らしにしては広いリビングの真ん中にあるのは、大きい黒の革張りのコーナーソファセットだ。触り心地が滑らかな革は、少しだけ触れただけで高級なものだとわかった。ここは、調度品がそこいら中にあるようなギラギラした部屋ではなく、物の少ないシンプルなリビングには清潔感があった。そんな空間に、綿のTシャツにのびのびのスウェットパンツ姿の家主がアイランドキッチンでお湯を沸かしていた。
「そんな突っ立ってないで座ったら」
戸棚からカップやコーヒーのキャニスターなどをがちゃがちゃ取り出している彼が着席を促すと、友香はソファの端っこに腰を下ろした。
ソファと一緒に置いてあるのは、天板がガラス製のローテーブルだった。指紋ひとつなく、ピカピカに磨かれている。ダスターなどで磨き上げる彼の姿を簡単に想像でき、友香は小さく笑った。
「ここ、賃貸?」
コーヒーの準備をしている彼に尋ねると、髙橋は「な訳ねぇだろ」と苦笑いを浮かべた。
「親が前に買って眠らせてた部屋を使わせてもらってるだけ」
さらりと答える髙橋に、友香は思わず納得していた。
(時田さんといい、和志といい、やっぱりお金持ちのボンボンは…)
きっと自分とは所詮、住む世界が違う。先週の金曜日に時田と会った時にも感じたことだった。たまたまアルバイトとして勤めている職場のおかげで社会的地位の高い人と知り合いになれただけであって、自分には何もないただの庶民なんだと友香は自覚させられていた。それなのに時田は彼女を一人のレディとして扱い、彼女はそれを嬉しいと思う反面、シンデレラがかれられた魔法のように、煌めく時間は長続きしないような気がしてならないのだ。
(だけど…)
今だけ夢を見させてくれたらそれでいい、なんて思ってしまうのだ。泣きたくなるほどの『幸せだったあの時』を身体が覚えていて、胸がいっぱいになってしまう。期待だけが大きくなって、それに抗うことができない。その先のことを彼女は想像すらできなかった。
初めて外で会う約束をしたあの日、彼の行きつけのイタリアンで食事を共にした。その後、彼の自社ビルの屋上に招待され、都内の夜景を背に彼の話をいろいろと聞いた。名刺に書いてある通り、ITの会社を起こし、今はその会社の社長をしていること。吉田とはシステム開発と管理などでの取引先であること。いずれは親の会社を継ぎ、今の会社は他の人に譲ることが決まっていること。また、親に身を固めるよう言われ、毎週のように見合いの話を持ってこられて困っているのを吉田に相談したら、行きつけのレストランにいい人がいるよと、友香を紹介したいと言われたことなど、裏表なく話す時田だった。そんな限られた時間の中で、友香の中では時田は幸雄の面影と完全に重なっていた。
話し方、視線の配り方、笑い方、気遣い方が何度も何度も重なり、ここにいるのは時田ではなく、幸雄なのではないかと思ってしまうほど、春の陽だまりのような彼のその笑顔は彼女の心を暖めていた。比べてはいけないと思えば思うほど、孤独だった心が満たされていく。ずっと求めていたものが、引かれていた線の向こう側にあった。最初こそ躊躇していたのに、彼女の心は今、一線を越えてしまった背徳感と少しの罪悪感にまみれていた。自分のエゴを満たすためだけに越えてしまったその線の向こう側の感情は、もはや自分ではコントロールができなくて、彼女は気付いたら泣いていたのだ。
不意に、コーヒーの甘く苦い香りで現実に引き戻されると、部屋中に漂うその優雅な薫りは、友香の考え事を中断させていた。
「いい香り…」
素直にそう口にすると、少しだけ口角を上げて微笑む髙橋は、入れ立てのコーヒーの入ったカップをトレーに乗せて、ソファの方へと向かってきた。そして、慣れた手つきでそのコーヒーを友香の前へと出した。
「ど、どうもありがとう…」
礼を告げる彼女に、小さく返事をすると、二人はそのコーヒーカップに口をつけた。
(…!)
一口、口に含んだだけで、そのコーヒーが高級なものだと感じた友香は、目を見張った。
「美味しい…」
友香の呟きに、髙橋は得意げに笑う。
「そりゃそうだろな」
「すごいいい豆だったりする?」
「いや、俺が淹れたから」
彼のその返しに、一瞬だけ彼女の目が点になったが、ふっと笑った。
「いい豆なのね」
そう口にしながら、友香はコーヒーに添えられたクッキーに手を伸ばした。口に入れると、ほろほろと崩れ、すぐに溶けてなくなってしまった。コーヒーとの相性が絶妙で、その美味しさに思わずうっとりとしてしまう。すると視線を感じた。向かいに座る高橋がニコニコとしながら、友香を見ていたのだ。彼女は思わず姿勢を正した。
「で、友香さんはどういうつもりで俺の部屋にいるのかな」
その言葉に、再びカップに口をつけようとする友香の動作が止まる。
「どういうって…」
「普通、一人暮らしの男の家なんてノコノコ来ないでしょ」
長い足を組み、ソファの背もたれの縁に両腕を乗せた姿勢で、彼は冷ややかな目で彼女を見ていた。
「それは雄一が!」
「そんなの断ればいいだろ。それとも、俺のこと安全な男とでも思ってる?」
そう語る髙橋の顔はもはや取り繕う様子もなく、さっき玄関で彼女を笑った時と全く違う顔をしてこちらを見ていたのだ。
「安全な男って…。それ、あたしに言って意味があるの?」
髙橋に自分が女性として相手にされていないことは分かり切っている。きっと彼は弁えているのだ。今の環境で恋愛をするつもりがないことを。友香は、彼が職場の誰の誘いを受けないのは、そういう対象に見られないためだと考えていた。だから、きっと彼は思っているはずだ。自分のテリトリーに入ってしまった人間を、そうやって寄せ付けないようにするための術なのだろう、と。
(今のあたしのように…)
そう考えた彼女は、目を伏せた。
「…そうね。休みなのに寝てるところ叩き起こしちゃって悪かったわ。でもちゃんと今日の夕方までにお店に書類持って行ってあげてね」
本当は佐井からは、髙橋が持ち帰った仕事の一部の書類が必要になり、メールで送れるようなものではないからと回収を頼まれていたのだが、それは無理だと判断した。友香は握っていたカップを音を立てないようにそっとソーサーに乗せると、「コーヒーごちそう様」と口にしながらすっくと立ち上がった。そして、傍に置いていたバッグを手に取ると、玄関に向かって歩き出そうとした。
しかし、彼女の足はすぐに止まった。
「ちょっ…!?」
彼女の腕を掴んで引き寄せると、髙橋は友香を無理やりソファに座らせ、逃げられないように自分の両腕で彼女を閉じ込めたのだ。
(…?!)
間近に迫る髙橋の顔と、彼から香るコロンのような甘い匂いに友香は目を逸らし、体を硬直させた。
「…ちょっと、何して…」
さすがに驚き、小さな声でそうこぼすと、髙橋は彼女のおでこに自分のおでこをくっつけて無理やり友香の目を覗き込んできたのだ。
「なんの警戒もしてないそのお花畑の頭に教えてるだけだよ」
鼻で笑いながらそう答える彼の顔が目と鼻の先といった距離に迫り、否応なしに強い視線を合わせてくる彼は、今までになく強引だった。
そんな苛立った彼の目を見つめることとなり、友香は戸惑いを隠せなかった。彼の瞳に映り込む自分。しかしその瞳に映っている自分は、どうせ女として求められているわけではない。
「和志は別にあたしのことを好きなわけじゃないでしょ」
友香が冷静に疑問を口にするが、彼の苛ついた表情は変わらなかった。
「それとも、好きでもない女にでもこんなふうに迫ったりするの?」
「じゃぁお前は、完全に俺のことを安全な男だと思ってるわけだな」
その言葉を言い終わった次の瞬間、髙橋は友香に噛みつくようにキスをしていた。それは到底優しいキスとはほど遠く、無理やり唇を割って入ってきた彼の舌は獣のように熱を帯びていて、悪戯に友香の中を弄り合っていた。
唇が離れるまで数分間、呆気に取られていた友香は目を開けたままだった。そんな彼女に、髙橋は再び鼻で笑う。
「好きじゃなくても、キスくらいできるよ」
その目はいつものように、瞳の奥は笑ってはいなかった。
「なにそれ…」
次第に友香の目に涙が溜まっていく。
「木曜日、時田さんに会いに行ったんだって?」
(え…?)
急にそんな話題を振られ、友香の眉間に皺が寄る。
「さぞ会社社長の接待は、甘く優しい時間だったんだろうね」
皮肉を込めた様ににっこりと笑いながら、髙橋は自分の腕に閉じ込めていた友香を解放した。
「なんで…」
なぜ知っているのかを尋ねてみるも、髙橋が素直に答えるはずがない。
「しかしアレだな」
彼は冷めたコーヒーが入ったカップに手を伸ばし、口を潤す。
「お前もあの男も、見る目ないよな」
意地悪く声に出して笑う髙橋は、カップを持ったまま友香に背を向けて、部屋の隅にあるドアの向こうへと消えた。しかし、数分で再び姿を現した彼の手には、書類が握られていた。
「はい、ご苦労さんでした」
彼が友香の膝に書類を落とすと、彼女はそれを手でかき集めてカバンに入れた。そして逃げるように髙橋の部屋を足早に去ったのだった。




