6.
握りしめていたスマホをテーブルに置き、畳んでいた足を投げ出して座り直した。脱力した瞬間に、友香の口からは大きなため息がこぼれていた。まだ少しだけ指が震えている。胸の鼓動も収まる気配がない。
早番で仕事を終え、帰宅する頃にはもう20時を回っていた。家についてすぐにお風呂に入り、念入りにボディケアをしてしまった。そのあとに軽く夕飯を取ってから、自分の部屋に閉じこもった。時間的には9時半頃だ。遅くもなく早くもなく、のこの時間。友香はバッグから時田の名刺を取り出し、震える指で番号を押し、時田にSMSでメッセージを送った。
優美林の楢橋です。お久しぶりです。お借りした本が読み終わりましたので、いつでもお返しできます。とても楽しかったです。ありがとうございました。
ジャスト70文字。制限文字数をいっぱいまで使い、送信ボタンを押す。
なんてことない内容なのに、送信ボタンを押す指は最後まで震えていた。ここまで緊張するとは思わなかった友香は、喉が異様に渇いていた。何か飲み物を取ってこようと立ち上がろうとした時、スマホの着信音が鳴り出した。びっくりしながらテーブルに置いたスマホを取り上げると、登録していない番号からの着信だったが、まさに名刺に書かれている番号だった。彼女は慌ててその電話に出た。
「はい、もしもし…」
つい、焦りと恥ずかしさで消え入るようなか弱い声が出てしまった。
『こんばんは、楢橋さん、ですか?』
耳に響くその声は、間違いなく時田のものだった。しかし、機械を通して聞く声は、幸雄の声を物凄く似ていて、目を丸くして驚いていた。
『あれ? もしもし?』
返事をしない相手を不審に思い、電話の向こうの彼も少し焦っていた。友香はハッと我に返り「すみません、楢橋です」と名乗ったのだった。
『あぁ、よかった』
安堵した声でそう呟く時田に、友香は謝った。
『メッセージくださって、ありがとうございました。うん、嬉しくすぐ電話してしまって…すみません』
そんな彼の言葉に、友香の心臓はいちいち反応して跳ねていた。
「いえ、そんなこと。今日もお忙しかったんじゃないですか?」
『今日は少しだけ時間ができて。ちょうど家に帰ってきたところだったんです』
「そうでしたか」
『今日を狙って連絡してくれるって、なんか運命を感じてしまいますね』
「え…?」
”運命”という言葉が使われるとも思わず、友香の体温がぐっと上がっていくのを感じていた。風呂に入ったというのに、汗をかいてしまいそうなほどに暑い。
『すみません、勝手にひとりで盛り上がってしまって…』
「いえ、そんな…」
二人とも黙ってしまった。
(沈黙は、辛い…)
友香はなんとか言葉を繋げようと考えると、焦りと恥ずかしさが邪魔をして頭の中が真っ白だった。
「あ、あの」
『あの』
と今度は二人同時に話し始め、一瞬止まる。そして、ふたりしてお互いに譲り合うという茶番が始まると、最終的に友香が時田に譲った。
『すみません、あの、楢橋さん。実は、来週のどこかで1日、休みを取ろうと思ってて、ご都合のいい日はありませんか。その日、本の感想とか聞かせていただきたいので、お会いしたいなって』
じわじわと脳を麻痺させるその誘い文句に、胸の高鳴りが抑えられないでいると、彼は不意に不安になるのか、彼女の名前を呼んだ。
『楢橋さん…?』
耳に残るのは、懐かしさだった。元気だったころの彼を思い出し、泣きそうになるのを抑えて彼女は小さな声で返事をした。
『…泣いてるんですか?』
「ごめんなさい、泣いてないです」
こぼれる涙を指で拭いながら、精一杯笑顔を浮かべて友香は答えた。
「えっと、日程ですよね。今、シフトを確認しますね」
そう言って、いったん耳からスマホを放してからスピーカーに切り替えると、ホームボタンを押してスケジュールアプリを立ち上げた。
「6月8日だったら、木曜日なのでお休みです」
友香がそう答えると、時田は「木曜日か…」と呟きながら予定を確認している。
『大丈夫そうです。ありがとうございます』
「いえ…」
『夕方の6時ごろからお食事でもいかがですか?』
「…それは構わないんですが」
本当に自分なんかでいいのだろうか。どれほどの規模かの想像はつかないが、会社の社長が高級レストランとはいえ、ただのアルバイトの自分と食事したとして、釣り合うのだろうか。恥をかかせてしまうのではないか、と友香は急に不安になっていた。
『何か問題でも?』
「いえ、あの…」
少し迷った彼女は、躊躇いがちに口にした。
「私は、時田様と棲む世界が違う人間ですよ? 私が隣にいて、大丈夫かな、って…」
あの店でこの仕事をしているから出会えるだけであって、一歩外に出たら自分はただの飲食店でアルバイトをしているただの庶民だ。社会的地位があるわけでもない自分が、同じ土俵で話していい相手ではないはずだ。
『何言ってるんですか。同じ世界にいるから、あなたに出会えたんですよ』
そう言って、時田という人間は彼女の考えを笑いながらやんわりと否定した。言葉は臭いが、耳から入ってくる情報が、彼女の昔の記憶の箱をこじ開けている。しっかりと鍵をかけていたのに、その箱の蓋は、どんどんと迫り上がっていく。
(ヤバい…)
恋焦がれる、という言葉が妥当なのか、それともただ感傷に浸りたいのか、友香自身、わからなかった。ただただ切なくて、苦しいほどに胸が締め付けられている。言葉にできず、涙だけが溢れていた。
(…止まらない)
『じゃぁ、来週の木曜日、楽しみにしてますね』
「はい。おやすみなさい」
『おやすみなさい』
お互いに最後にそう挨拶して電話を切ったのだった。
(…なんでこんなに泣いてるの)
震える手でスマホをテーブルに置いた。自分の心とは裏腹に体が勝手に反応をしているようだった。嬉しいと思う反面、苦しいとさえ思うこの感情が、何を示しているのか。今の友香は深くは考えないようにしていた。
約束した日の夜がどうなるのか。それは友香でさえも予想できることではなかった。しかし次の約束が、確かに彼女の心を動かしていた。誠なのか錯覚なのかわからない。それでも今はどうしてもその約束が必要だった。
そして、今は夜。さほど立て込まなかった日は仕事もそこそこにして、照明の落ちた落ち着いた空間でひとりで過ごす夜を好む男がいた。
傾けるグラスからは、フルーティで芳醇な香りが漂っていた。茶色い液体が揺れ氷がカランと音を立てると、少しだけ火照っている耳に掠めていた。ひと口、口に含みその薫りを楽しみながら、髙橋はカウンター席の端っこに座っていた。ここは、彼の行きつけのバーだ。仕事を終え、もう時計の針はとうに0時を過ぎていた。明日のシフトは遅番で15時からだ。今夜は少しだけ遅くなっても充分身体を休めることはできるだろう。問題ない。そう思いながら彼はもう同じものを3杯飲んでいた。
少しだけ頭がぼうっとする。いつもならこんなに早く酔いが回ることはないのだが、ここのところの激務で身体が疲れているのか、酒のまわりが早い気がする。グラスをカウンターに置いて、小さくため息を吐いた。その時だ。
「あれ、髙橋さんでは?」
どこかで聞いたことのある声が、彼の耳に掠めたのだ。もちろん振り向かなくても、声の主は解っている。ここは店じゃない。自分自身も今は客という立場だ。
「お隣、よろしいですか」
その声の主は、何も答えぬうちに彼の隣の椅子に腰を降ろすと、マスターに彼と同じバーボンを水割りで注文した。
「マスター、会計を」
彼がそう告げると、隣の男は目を丸くして驚いたのち、すぐに苦笑いを浮かべていた。
「そんな、逃げるように帰らなくても」
「…ひとりで飲みたい気分だったので」
遅くなっても問題ない夜なのに、いらぬ乱入者のせいで気分が害されてしまった。帰る理由はそれで充分だろう。
「さっきまで彼女と一緒だったんですよ」
聞いてもいないのに、隣に座ったその男が勝手に話し出す。その男の話す『彼女』が誰のことかもすぐに分かった。
「…そうですか。あんな跳ねっかえりのどこがお好みなんですか」
「彼女のいいところですか? そんなの、いちいち挙げたらキリがありませんよ。あなただって一緒に仕事をしてるんですから、ご存じでしょう?」
嬉しそうに笑いながら、カウンターに置かれたバーボンの水割りを口に含み、男はひと息ついていた。そして、男は彼にも同じものを、と1杯注文する。
「1杯で構いませんから、付き合ってくださいよ」
冷ややかな目線を投げかけている彼に、物怖じすることなくその男はにこっと笑いながらそう口にした。彼の目の前にバーボンの水割りの入ったグラスが置かれ、男は彼にその酒を勧めた。すると、彼はわざとらしく大きなため息を吐いたのだ。
「…前にも申し上げましたが、うちの従業員を口説くのはおやめください」
「ふふふ。それは、できない相談ですね。それは、どのお立場からのご意見ですか?」
愉快そうに笑うその男に質問で返され、彼の眉間にしわが寄る。
「アレは、あなたと住んでる世界が違い過ぎる。あなたにはもっと相応しいお相手がいらっしゃいますよ、時田さん」
髙橋は、目の前に置かれたグラスに手を付け、ぐいっと一気に飲み干した。水割りと言えど、熱いアルコールが喉を通り抜けていく。
「僕のこと、ご存じなんですね」
「それはもちろん。あなたは会社社長をされる前から、有名人ですしね。かのTokita Corporationの代表取締役はあなたのお父様だ」
頭が酒でぼうっとしていても、隣に座る男の素性くらいは知っている。
「なるほどね。といっても、僕もあなたのことは存じ上げておりますよ。髙橋商事のご子息ですよね」
時田の問いに、髙橋は肯定も否定もしない。空いたグラスをカウンターの上に敷いてあるコースターの上に戻すと、彼は今度こそ「会計を頼む」と口にした。
「ご長男は会社経営に興味がないようだ。そして次男のあなたも外の会社に就職して、働いていらっしゃる。一番下の弟さんがお父様の会社を継がれるんですか? それともいずれあなたが今の会社を辞めて戻られるおつもりで?」
時田がそう口にすると、彼はふっと笑った。
「うちの家族事情までご存じとは。しかし、あなたにお話しできることはありませんよ。弟はまだ大学生ですし、親父もまだ元気ですから。まだ何も決まっていません」
「まぁ、どこも変わりませんね」
時田も柔らかい笑顔を浮かべ、そう答えた。そして、味わうようにバーボンを楽しんでいる様子だった。
高橋の知っている時田の人物像とは、表向きは酒癖も悪くなく、女性絡みのスキャンダラスな事情も聞かない、絵に描いたような好青年だということだった。しかし、そんな出来た人間なんてそうそういない。もちろん、自分もだらしない人間ではないと自負しているが、人からどう思われているかなどわかったもんではない。結局は、実際に会って話をしないことには本質を見ることはできないものだ。
この男は、確かに下品な人間ではないらしい。評判はあながち嘘ではないということだろう。高橋は頭の中で時田をそう評価した。しかし、友香に関することには、どうも自分を敵視しているような節がうかがえる。
(まさか、俺があいつのナイトとか本気で思ってるわけじゃないよな…)
勘違いも甚だしい。彼はそう思いながら上着のポケットから財布を取り出した。
「彼女、何故か僕と一緒に話をしていると、突然堰を切ったように泣き出すんですよ。泣きながら笑っている。哀しいからではなく、嬉しいからだと彼女は言う。…何故だと思いますか?」
時田の思慮深い目が、いつの間にかカウンターの一点を見つめていた。それは、マウントを取るような感じでもなく、敵意を剝き出しにしているわけでもない。単純に時田の口からこぼれ落ちた疑問だった。
「…どうして俺に聞くんですか」
自分の飲んだ分の支払いを終え、椅子から降りた髙橋は、時田の後ろを通り過ぎる時にそう口にした。
「あなたが多分…、いや、なんでも」
言いかけた言葉を飲み込み、時田は首を振った。
「…もう話すことがないなら、これで失礼します」
髙橋は時田にそう告げて、店を後にしたのだった。
(幸せすぎて、泣くって…なんだよ?)
時田の帰り際に放たれた言葉が、髙橋も引っかかっていた。しかし、彼に尋ねられたところで知る由もない。意味が分からない。
(何故、あの問いの答えを俺が知っていると思ったんだ?)
友香の、春になると気分が下がっているような顔が彼の頭に浮かんでいた。まるで何かに足を取られているような苦しさを滲ませ、しかしそれを本人は隠しているつもりなのだろうが、全く隠せてなどいないのだ。それが時田と出会ってから変わった。そして、嬉しいと言いながら泣いている。
(知るかってんだよ)
それなのに、髙橋の中で巡るこの感情がなんなのか、彼には理解ができない。
佐井も言っていた。髙橋が事務所に友香を呼びつけて説教をしたあとの話だ。
『…ホントにそれだけの理由か?』
アルバイトを管理するのは、彼の仕事だ。しかし、いちアルバイトの私生活をとやかく言うのは違うと彼自身も解っている。
(普通の家庭で育ったアイツが、財閥の息子となんかうまく行くかよ…)
すっかり酔いが覚めてしまった彼は、ついそんなことを考えながら都会の明るい夜道を歩いていた。




