5.
ビルのカフェで時田と会ってから、彼が店にランチを食べに来ることがぱたりとなくなった。彼の言う通り、新しいプロジェクトで忙しいというのは本当なのかもしれない、といつもの忙しいランチタイムを終えてレジ点検をしながらそう考えていた。
忙しいと解っていて、連絡できるような図太さを持ち合わせていない彼女は、もちろんもらった名刺に書かれている手書きの番号に、連絡などしていなかった。本も借りっぱなしで返せないまま、気付けば2週間が経っていた。
「友香、聞いてるのか」
急に呼ばれ、彼女は背筋をビクンとすくませた。そして、呼ばれた方を見ると、髙橋がカウンター越しに立っている。
「ごめん、何?」
友香がそう答えると、髙橋はあからさまに顔をしかめてわざとらしくため息を吐いた。
「ぼーっとし過ぎじゃねぇの」
手にまだ紙幣を持ったままであることに気付くと、彼女は急いで数えてレジのドロアにしまい、勢いよく閉めてからレジのカギをかけたのだ。
「レジ点終わったら、お昼休憩に入ってくれ。今日は新メニューの試食を兼ねてまかないが食えるけどっていう連絡」
「…わかった」
友香はうなずき、レジ点の結果を用紙に記入すると、ロッカーへと直行した。
「友香ちゃん、まかない食べないの?」
他のパート従業員が、カバンを持って外に出ようとする彼女に声をかけるが、彼女はニコッと笑いながらうなずくだけで、そのまま店から出て行ったのだった。
(誰かとご飯を食べれいられるような気分じゃない…)
早くひとりになりたくて、店を出てきてしまった。もう14時だというのに、お腹も空いていない。カフェでお茶でも飲もうと隣のビルのカフェレストランの中を覗くと、まだ店内はランチの殺伐とした空気が残っていた。しかし、少し待てば席に着けそうだったため、彼女はそのまま順番待ちをする為に店先に並ぶことにした。
その時、彼女の携帯が鳴り出した。カバンに手を突っ込み、ディスプレイに表示されている通知を見ると、髙橋からLINEが入ってきた様だった。
『外にいるんだったら、隣のカフェでコーヒー買ってきて』
それを見た友香は、眉を寄せた。
(コーヒーなんて、店にいくらでもあるじゃない)
そう思いながらも、いちいち指摘するのが面倒で、「ホット? アイス?」と聞き返す。
するとすぐにポンっと「ホット」と表示される。「サイズは?」と聞くと、「ラージ」と即レスだった。友香は最後に「了解」と打ち、スマホをバッグにしまう。ちょうどその時、彼女の名前が呼ばれ、窓際の席に通された。
席に着き、カフェラテを注文すると、彼女はやっと落ち着いた。この2週間、時田の来店を待っていた自分がいることにとっくに気付いていた。2週間前まで毎日会いに来てくれていたのがぱたりとなくなり、その替わりに彼から借りた本が常に友香のそばにいる。いつでも返せるようにと、カバンに入れているのだが、せっかく買った新刊の本の表紙がへたってしまうことを恐れて、お礼を兼ねて時田に合うブックカバーを付けて持ち歩いていた。
しかし、借りてからなにもないまま2週間も経ってしまい、今に至る。すぐに返事が来なくても、読み終わっていることくらいは知らせたい。
(そうしたら、また会える…のかな)
時田の恥ずかしそうにはにかむ笑顔が見たい、と友香は思っていた。もう一度幸雄と会っているかのような変な感覚が、彼女の心を麻痺させていた。それはまるで魔法というより麻薬に近い。本当は触れるのが怖いくせに、もっと知りたい自分がいる。あらゆる変化が怖くて今まで吹っ切れられなかったのに、どうしても幸せだったあの頃のような時間が過せるのではないか、時田と過ごしたら夢が見れるのではないかと、ついそんなふうに考えてしまうのだ。それが危険な考えだと解っていても、友香は考えないわけにはいかなかった。いつだって、幸雄に会いたい。最後につないだ手の温もりも感触も忘れられないし、忘れたくない。
(まだ、夢を見ていたい…)
友香は、手の中に収まっている自分のスマホのディスプレイを見つめている。向こうはまだ自分の連絡先を知らない。自分が彼に連絡をしない限りは、一方通行のままだ。
「ほら、買ってきたわよ」
事務所のいる髙橋に、頼まれていたアイスコーヒーのラージサイズを差し出すと、彼はそれを受け取った。
「はい、お金」
金額を言う前に、彼は友香の手のひらにコーヒーの代金の小銭を落とし「サンキュ」っとお礼を言いながらストローに口を付けていた。
「友香、今日の夜の予約は何件?」
「え」
いつもなら、昼の休憩前に確認するところだが、今日はまだ予約簿の確認をしていない。これから確認して、夜の予約席の準備に取り掛かれば問題ないのだが、髙橋はわざとらしく彼女にそう尋ねていた。
「…まだ確認してないけど」
正直にそう話す彼女に、彼は一瞥してから目を逸らした。
「ここのところ、仕事に身が入ってないように見えるけど?」
パソコンの画面へと視線を移しながら彼は静かにそう口にした。自分の席で事務作業をしていた佐井もその様子を静かに窺っていた。
「…お金の計算でも合いませんでしたか。そもそも間違えたつもりもないけど」
友香は髙橋の態度に少し苛立ちながら答えると、その場を去ろうとした。しかし、身体を翻し、彼女の腕を掴んだのも髙橋だ。
「まだ、話し終わってないけど?」
「別に、仕事に身が入っていないなんて覚えがないから。言いたいことがあるならハッキリ言えば」
こんなふうに言い返してみれど、髙橋に勤務態度を注意されるほどぼうっともしていないし、ミスをした覚えもない。なぜ彼がこれほどに突っかかってるのか、友香にもわからず困惑していた。強がりながらも戸惑う目で髙橋を見る。しかし彼が友香を捉えるその視線はとても鋭くて少し怖い。友香のそれとは正反対で、いつものようななんでも見透かしてしまいそうなミステリアスなものではなく、単純に怒っているようにも見える。
「俺はね、アルバイトを管理するもの仕事なんだよ」
そう言って彼は友香の腕を掴むその手を放した。
「こっちはお前の様子がおかしいってことくらい、気付いてんの」
「…気付いてるって、何を」
眉をひそめ、髙橋の言葉の続きを待つ友香に髙橋は再び口を開いた。
「いちいち客からのアプローチに応える義務なんてないんだよ。うちはそんな如何わしい店じゃないんだから」
髙橋のその視線は、痛いほど強く感じた。いつもはたいてい不気味過ぎるほどの優しい笑みを浮かべているのに、やはり今日はどこか違う。
「…如何わしいって…。あんただって女性のお客さんからよく手紙もらってるじゃない。より取り見取りのくせに」
すると、髙橋はあからさまにため息をついた。
「俺は、客に手を出すほど女に困ってないけど?」
「なっ…!」
さっきの真剣な目はどこへ行ったのか、今度は彼女を見る目が不愉快なものを見るかのようなイラついたものだった。
「吉田さんが紹介してくださろうとしてた人なのに、そんなこと言ったら失礼でしょ」
「吉田さんだって怪しいもんだよ」
何を言っても言い返してくる髙橋に、友香は怒りが爆発しそうになっていた。
「だいたいなんだよ、ストーカーかよ。偶然、カフェで出会うって」
「あんたなんかに関係ないじゃない」
「だから、俺は管理する義務があるの。お前を」
人差し指を立てて、目の前にいる友香に突きさした。
「和志、もうやめろ」
ここでやっと、ずっと黙っていた佐井が仲裁に入った。佐井は立ち上がり、彼らのそばに近づいていく。
「お前、美帆から聞いたのか?」
佐井の問いかけに、髙橋は答えなかった。
「ちょっと、どういうこと?」
友香が尋ねると、佐井は小さくため息をついてから口を開いたのだ。
「2週間くらい前、お前と時田さんが○○ビルのカフェでコーヒー飲んでるところを、俺と美帆が見たんだよ。それを美帆がこいつに話したんだろ」
まさか知り合いに見られていたとは思っておらず、友香は思わず事務所から駆け出した。自分が浮かれてドキドキしていたところをよりによって佐井にと美帆に見られていたと思うと、恥ずかしくて仕方がない。
「お前、ちょっと友香のことで感情的になり過ぎやしないか?」
呆れた顔をした佐井が、相変わらずパソコンの画面を見たままの髙橋の背中に問いかけた。髙橋は、今日のランチの数字を確認しているところだった。
「…そんなことないだろ。さっきも言ったけど、アルバイトの管理も仕事のうちだからな」
「…そうだけど」
言葉を濁し、佐井は自分の事務作業に戻りながら、髙橋のキーボードを打ち込む音を聞いていた。
「…アイツはここで働いているバイトの中で一番長い。レジの金も管理してるんだぞ。それが、恋だの愛だの理由で辞めるとか言い出してみろ。全部その仕事が俺に戻ってくるじゃねぇか」
髙橋は、そう口にしながら力強くエンターキーを叩く。
「何が原因で正社員にならないって言ってるのか知らねぇけど、あれをまず正社員にしないと俺たちだけで店が回らんのも事実だろ」
「…ホントにそれだけの理由か?」
佐井が相変わらずの無愛想な顔をして尋ねると、髙橋はわざとらしく大きなため息を吐いて見せた。
「…何度も同じことを言わせるなよ」
高橋のその目は、少し疲れていた。すると佐井はそれ以上何も言わなかった。
(なんなのよ…!)
レジで、今日の予約を確認をしていると、友香はさっきの髙橋とのやり取りが頭から離れず、結んだ拳につい力が入っていた。
(今日の予約なんて、3件しか入ってないじゃない)
時計を見て、直樹の入り時間をシフト表で確認する。
(まだ15時過ぎか)
怒ったら、少しだけお腹が空いてきたのが不思議だ。友香はそう思いながら厨房へ向かった。
「料理長」
仕込みをしている山田に友香が声をかけると、彼は呼ばれた方に顔を向けた。
「友香、どうした?」
白いコックスーツを着て、赤いスカーフをしているのが、レストラン優美林の料理長の山田だ。
「まかないってもう残ってない、よね?」
お腹をさすりながらダメもとで聞いてみると、山田はいったんガスの火を止めて、冷蔵庫を開けた。
「あるよ。でも、調子悪いんだろ? 大丈夫か?」
心配そうにそう口にする山田に、友香は一瞬顔を曇らせた。
「え、誰が?」
「誰がって、お前がだよ。和志が言ってたぞ。どうせあとで食べるだろうから、残しとけって」
「あぁ、そうだったの…」
さっきはあんなに険悪な言い争いをしてたのに…と少しだけバツの悪い友香だったが、山田はそんな彼女に気にも留めず電子レンジにまかないの乗った皿を入れて、適当に温め始めた。
「夏の新作のメニューだから、あとで感想を聞かせてくれ」
「はい」
友香が返事をすると、山田は再びガス台の前に立ち、ガスに火を入れて鍋の様子を窺っていた。
「それは、何の仕込み?」
髙橋のことを少しでも忘れようと、彼女は山田の背中に質問する。
「あぁ、これは卵とコーンのスープな。コーンと生クリームを弱火でゆっくりと火を入れてるんだ。焦げるからよ」
「中華風のコーンスープって美味しいよね。あたしも大好き」
「そうか」
ふっと笑いながら山田はまた彼女に背を向けるように正面を向いて、鍋の中を大きなへらでかき混ぜている。すると、レンジの加熱が終わったと音で知らせていた。
「自分で取ってくれるか」
「もちろん」
友香はそっと厨房に入ると、レンジから温まったまかないを取り出した。
「米はいるか」
「ご飯は大丈夫。休憩室で食べてくるね。ありがとう」
まかないと箸とお冷をお盆に乗せて、友香は厨房を後にし、休憩室に向かった。
湯気の上がるそのまかないは、新作のメニューだとさっき髙橋も言っていた。カラフルなパプリカとズッキーニと牛肉のオイスターソース炒めは、黒コショウが効いており、濃い目の味付けだが美味しかった。米が欲しくなる味付けだ。しかし、米がなくても食べ応えは充分で、満足できる逸品だと友香は正直に思っていた。夢中で食べていたらあっという間にお皿が空になる。お腹も満たされ、ルンルンで洗い場に向かうと、食べたお皿を水が溜まったバケツに漬け、厨房に顔を出した。
「料理長!」
「おう、友香。どうだった?」
彼女に呼ばれた山田は、声のする方へと振り向いた。
「すごく美味しかった!」
「そうか、ありがとよ」
山田も彼女の顔を見ながら、満足そうに目を細めて笑っていた。
「おい、口の端にソースついてるぞ。ちゃんと口の回りを拭いてから店に出ろよ!」
山田が笑いながら注意すると、休憩から戻ってそれぞれ自分の仕事をしていた他の調理スタッフから笑いが起こる。友香は両手で口を覆った。
「歯磨きして、化粧直してくる!」
バタバタと厨房から出ると、自分のロッカーから歯磨きセットと化粧ポーチを取り出し、トイレに駆け込んだ。
(本を返してしまったら、もう会う機会はなくなるかもしれない。そしたら、忘れられるかな…)
お腹が満たされ心がすっかりと落ちついてしまったせいか、口紅を引きながらぼんやりとそんなことを考えていた。夢は夢。現実に起きているのは、幸雄とは関係のない男性だ。全く違う。時田は、幸雄との将来の夢の続きじゃない。
(解ってる…)
ため息をひとつ吐きトイレを出ると、掃除用具入れの扉を開けた。そして、ゴム手袋をつけて、バケツに入ったトイレ掃除セットを取り出した。
その時だ。友香の姿を見るなり、通り過ぎざまに髙橋が彼女に仕事の指示をする。
「友香、トイレ掃除」
「今からするわよ!」
彼女の手に持っているものが見えていなかったのか、急いで通り過ぎていく髙橋に、友香は半ば叫んでいた。
「お前に対するアイツの言い方は気に入らないかもしれないけどな」
いつの間にか横に佐井が立っていることに気付き、友香は驚いていた。
「…ビックリした。脅かさないでよ」
「アイツがあんな感情的になるの、珍しいよな」
佐井がポツリと呟いた。確かに友香も同じことを思っていた。
「ただ、お前だってもういい大人なんだし、好きにしたらいいんだよ」
そんな友香の様子を間近で見ていた佐井が、諭すように口を開いた。
「え…」
「なんかあったって、責任とれるだろって話だろ」
佐井はそれだけ告げると、踵を返してバックヤードへと引っ込んでいった。
19時少し前に高橋に仕事を引き継いで、佐井と一緒に友香も仕事から上がった。ロッカーで着替えながら、「本の感想とかぜひ聞かせてください」と口にする時田の顔と、「うちはそんな如何わしい店じゃないんだ」という髙橋の言葉が彼女の頭の中を巡っていた。しかし佐井の言う通り、自分は24歳のいい大人だ。いくらアルバイトだからと言え、そこまで干渉される覚えもない。
友香は、バッグのポケットから時田から受け取った手書きで書き加えられた名刺を取り出して、その無骨な文字を指で辿っていた。
(字は、幸雄の方がキレイかも…)
そんなことを思いながら、友香は震える指でその名刺を握りしめていたのだった。




