第9話 レベルアップ
「……まずは町へ戻った方がよさそうだな」
俺は自分の服を見下ろした。
泥と血で汚れ、破れた部分には不格好な縫い目が残っている。
ラベンダーの服も同じだった。
昨夜、獣の姿へ変わったせいで、袖や裾が大きく裂けている。
「その格好で月の谷まで行くつもりでしたか?」
ラベンダーが俺の服を見ながら言った。
「ラベンダーも似たような格好だろ」
「私は獣人ですから」
「獣人なら服が破れていても平気なのか?」
「動くことはできます」
「そういう問題じゃないと思う」
俺たちの周りを飛んでいたピクが、楽しそうに声を上げた。
「二人とも、ぼろぼろ!」
「楽しそうに言うなよ」
「でも、元気!」
「それはそうだけど」
月の谷へ行けば、ラベンダーの病を治せる《月の欠片》がある。
今すぐにでも向かいたかった。
けれど、手持ちの食料は少ない。
鍋も食器も布団もない。
妖精の家には建物と庭と泉はあるが、まだ人が暮らすための物がほとんどなかった。
「月の谷までは遠いんだよな?」
俺が尋ねると、淡い光をまとった月の妖精が頷いた。
「一日では着かないよ」
「なら、旅の準備が必要だな」
「そうですね」
ラベンダーも素直に頷く。
「服を買って、食料をそろえて、それから家で使う物も買おう」
「家で使う物までですか?」
「帰ってきたあとも暮らすんだろ?」
ラベンダーが少しだけ目を伏せた。
まだ、自分もあの家で暮らすことを当然だとは思えていないのかもしれない。
「……はい」
けれど、返事はしっかりしていた。
俺たちは一度、町へ戻ることにした。
最初に向かったのは服屋だった。
旅に使える丈夫な服を二人分選び、店の奥を借りて着替える。
俺が新しい服で店の外へ出ると、少し遅れてラベンダーも姿を見せた。
動きやすそうな濃い色の上着に、膝まである丈夫な靴。
背中には、いつもの弓を背負っている。
「似合ってるな」
「ありがとうございます」
ラベンダーは照れた様子もなく、素直に答えた。
破れた古い服は捨てず、丁寧に畳んでいる。
「それも持って帰るのか?」
「直せば、まだ使えます」
「裁縫なら俺も手伝えるぞ」
「ミントの縫い目は曲がっています」
「前は思ったより上手だと言ってなかったか?」
「思ったより、です」
やはり完全には褒められていなかったらしい。
次に食料品店へ向かった。
硬いパン、干し肉、芋、玉ねぎ、乾燥豆、塩。
旅の途中でも使える小さな鍋と、木の皿を二枚。
さらに、妖精の家で使うための大きめの鍋や食器も買った。
「ピクのお皿も買うか?」
「ピクはご飯を食べないよ?」
「そうだった」
「お花の元気と、妖精の泉の力があれば平気!」
「料理の匂いも分からないのか?」
「匂いは分かるよ。いい匂いは好き!」
食べはしないが、料理を囲むことはできるらしい。
食料を買ったあとは、布団を二組選んだ。
「私の分まで必要ありません」
ラベンダーがすぐに言った。
「じゃあ、どこで寝るんだ?」
「床でも眠れます」
「せっかく家があるのに、床で寝る必要はないだろ」
「獣人は身体が丈夫です」
「それで何でも済ませるつもりか?」
ラベンダーは答えず、積まれた布団へ視線を向けた。
耳は少し伏せられている。
けれど、尻尾はゆっくりと左右へ揺れていた。
「二つ買おう」
「……ありがとうございます」
小さな声だったが、今度も素直に受け取ってくれた。
最後に、材木を扱う店へ寄った。
短い木材を何本かと、釘、金槌、小さなのこぎりを買う。
「何を作るんですか?」
「妖精の家の壁を直すんだよ」
昨夜、獣になったラベンダーに吹き飛ばされた俺は、妖精の家の壁へ激突した。
そのせいで、壁には大きなひびが残っている。
ラベンダーの耳が下がった。
「私が壊した壁ですね」
「俺がぶつかった壁だよ」
「原因は私です」
「帰ってきたら、一緒に直そう」
ラベンダーは少しだけ黙ったあと、静かに頷いた。
「はい。私も手伝います」
必要な物を買い終えると、手持ちの金はかなり減った。
それでも、旅と生活に必要な物はそろった。
俺たちは妖精の家へ戻り、買った物を運び込んだ。
二組の布団を床へ並べる。
食器と鍋を棚へ置き、食材を壁際へ積む。
何もなかった部屋に、少しずつ生活のための物が増えていく。
「お家らしくなってきたね!」
ピクが二つの布団の上を順番に飛んだ。
「こっちがミント!」
隣へ移る。
「こっちがラベンダー!」
「まだ私の物と決まったわけではありません」
「二つ買っただろ」
「一つは予備かもしれません」
「並べた時点で予備には見えないな」
「並べたのはミントです」
「それはそうだけど」
ラベンダーは否定しながらも、布団を片づけようとはしなかった。
木材と道具は、ひびの入った壁の近くへ置く。
今すぐに直したいところだが、まずは月の欠片を探す方が先だ。
それでも念のため、木材の一部と釘、金槌、のこぎりは旅へ持っていくことにした。
道や橋が壊れていたら、役に立つかもしれない。
荷物を整えた俺たちは、月の妖精の案内で家を出た。
「月の谷は、こっちだよ!」
月の妖精が森の奥へ向かって飛んでいく。
その横をピクが楽しそうに飛んでいた。
月の谷までは、一日では着かない。
俺たちは森を抜け、岩の多い道を進んだ。
しばらく歩いたところで、ラベンダーが突然、片手を上げた。
「止まってください」
声は小さい。
けれど、緊張が混じっていた。
俺はすぐに足を止め、盾へ手をかける。
ラベンダーの耳が、森の奥へ向いた。
鼻が小さく動く。
「魔物か?」
「はい。灰爪狼が三頭います」
俺には、木々と茂みしか見えない。
「どこにいる?」
「正面の岩陰に一頭。右奥の茂みに二頭です」
「こっちには気づいてる?」
ラベンダーは風の流れを確かめるように顔を上げた。
「いいえ。風はこちらから向こうへは流れていません。まだ気づかれていないはずです」
斥候として、ラベンダーは俺よりはるかに早く敵を見つけていた。
もし一人だったら、俺は三頭に囲まれてから気づいていたかもしれない。
ラベンダーは背中から弓を取り、静かに矢をつがえた。
「右の二頭を先に狙います」
「見えていないんだろ?」
「匂いと音で、大体の位置は分かります」
「外したら?」
「そのときは、ミントのところへ誘導します」
「分かった。正面の一頭は俺が止める」
ラベンダーが俺を見る。
「お願いします」
俺は盾を構え、正面の岩陰へ意識を向ける。
ラベンダーは木々の間を静かに走り始めた。
足元の枝を避け、音をほとんど立てない。
立ち止まらないまま弓を持ち上げ、弦を引く。
走りながら放たれた矢が、茂みの奥へ消えた。
直後、獣の短い悲鳴が響く。
ラベンダーはすぐに二本目の矢を抜いた。
木の根を飛び越え、身体を横へ向けながら射る。
二本目の矢も、茂みの中へ吸い込まれた。
今度は低い唸り声と、地面を激しく引っかく音が聞こえた。
「一頭は倒しました。もう一頭は前脚を傷つけています」
「本当に見えてたみたいだな」
「見えてはいません。感じていただけです」
そのとき、正面の岩陰から灰色の獣が飛び出した。
仲間の悲鳴を聞いたのだろう。
大きな口を開け、真っすぐ俺へ向かってくる。
「来ます!」
「ああ!」
俺は盾を正面へ構えた。
灰爪狼が地面を蹴り、飛びかかってくる。
牙が盾の縁へぶつかった。
腕に重い衝撃が走り、足がわずかに後ろへ滑る。
それでも、押し負けない。
盾を前へ押し出し、灰爪狼の身体を止める。
灰爪狼が前脚を振り上げた。
鋭い爪が盾を引っかき、三本の傷を残す。
「ミント、そのまま止めてください!」
ラベンダーの声が右から聞こえた。
「分かった!」
灰爪狼の意識は、正面の俺へ向いている。
俺は盾を少し下げ、敵の視界を塞いだ。
灰爪狼が盾へ噛みつく。
その瞬間、横から矢が飛んできた。
矢は灰爪狼の肩へ深く突き刺さった。
「ギャウッ!」
灰爪狼が俺から離れ、ラベンダーの方へ顔を向ける。
けれど、ラベンダーはすでに同じ場所にはいなかった。
木々の間を走り、狼の側面へ回り込んでいる。
走りながら次の矢をつがえ、弦を引く。
灰爪狼がラベンダーを追おうとした。
「行かせない!」
俺は盾で横から身体を押し、進路を塞いだ。
灰爪狼が怒ったように牙をむく。
けれど、俺へ攻撃すればラベンダーに背を向ける。
ラベンダーを追えば、俺が盾で止める。
灰爪狼は一頭なのに、二方向へ注意を向けなければならない。
「ミント、少し左へ!」
俺は言われた通りに身体をずらす。
直後、俺の肩越しを矢が通り抜けた。
矢は灰爪狼の喉へ突き刺さる。
灰爪狼の身体が大きく揺れた。
俺は盾を押しつけ、剣を抜く。
喉へ刺さった矢を避け、胴へ剣を突き立てた。
灰爪狼の身体から力が抜け、そのまま地面へ倒れた。
「一頭目、倒した!」
「あと一頭です。前脚を傷つけています」
ラベンダーが弓を構えたまま、右奥へ視線を向ける。
傷を負った灰爪狼が茂みから姿を現した。
右の前脚に矢が刺さり、足を引きずっている。
仲間を二頭失ったことで逃げるかと思ったが、低く唸りながらこちらへ近づいてきた。
「まだ戦うつもりみたいだな」
「追い詰められたと思っているのでしょう」
「どうする?」
「ミントが正面へ立ってください。私は右へ回ります」
「ああ」
俺は傷ついた灰爪狼へ向かって歩いた。
盾を見せるように正面へ構える。
灰爪狼は俺を警戒しながらも、少しずつ距離を詰めてきた。
その間に、ラベンダーは大きく右へ回り込む。
走っているのに、ほとんど足音がしない。
灰爪狼の耳が動いた。
ラベンダーの位置に気づいたらしい。
逃げ道を探すように、左右へ顔を動かす。
「俺を見ろ!」
俺は盾を剣で叩いた。
金属音が森に響く。
灰爪狼の注意が俺へ戻った。
次の瞬間、狼が地面を蹴った。
傷ついていても速い。
俺の盾へ飛びかかり、身体ごと押し倒そうとしてくる。
俺は腰を落とし、正面から受け止めた。
重い衝撃。
けれど、最初の一頭よりも力が弱い。
前脚を傷つけられているため、踏ん張れないのだ。
「ラベンダー!」
「はい!」
ラベンダーは走りながら矢を放った。
矢が灰爪狼の後ろ脚へ刺さる。
灰爪狼の身体が傾いた。
俺は盾を押し上げ、そのまま地面へ転がす。
倒れた灰爪狼が起き上がろうとした。
しかし、その前にラベンダーがもう一本の矢をつがえる。
今度は足を止め、深く弦を引いた。
放たれた矢が、灰爪狼の胸へ突き刺さる。
灰爪狼は一度だけ身体を震わせ、そのまま動かなくなった。
森に静けさが戻る。
ラベンダーはすぐに弓を下ろさず、周囲へ耳を向けた。
鼻を動かし、風の匂いを確かめる。
「近くに、ほかの魔物はいません」
俺はようやく盾を下ろした。
「終わったな」
「はい」
俺たちは倒れた三頭の灰爪狼を見た。
一頭はラベンダーの最初の矢で仕留められていた。
もう一頭は先制攻撃で前脚を傷つけられ、ほとんど力を出せなかった。
無傷だった一頭も、俺が正面を止めている間に、ラベンダーが安全な位置から射抜いた。
「すごいな」
俺が言うと、ラベンダーがこちらを見る。
「何がですか?」
「最初の二本だよ。姿も見えていないのに、一頭を倒して、もう一頭の脚を止めただろ」
「匂いと音がありましたから」
「それでも、俺にはできない」
「ミントには盾があります」
ラベンダーは倒れた灰爪狼へ目を向ける。
「ミントが正面を止めてくれたので、落ち着いて狙えました」
「ラベンダーが先に二頭を減らしてくれたから、俺も正面だけ見ていられた」
一人だったら、三頭に囲まれていた。
背後を警戒しながら、正面の攻撃を防がなければならない。
ラベンダーも一人なら、近づかれる前に三頭すべてを射抜く必要があった。
「一人だったら、もっと大変だったな」
「はい」
ラベンダーが静かに頷いた。
「二人だと、ずいぶん楽ですね」
「ああ。一人で全部やらなくていいからな」
俺たちは顔を見合わせた。
戦う前よりも、少しだけ互いのことが分かった気がする。
俺は心の奥へ意識を向けた。
自分の中にある情報を確かめる。
【ミント】
【レベル 10】
「レベルが上がってる。十になった」
俺が言うと、ラベンダーも目を閉じた。
心の奥へ意識を向け、自分の状態を確かめる。
「私もレベル10です」
「同時だったんだな」
「一緒に戦ったからかもしれません」
ラベンダーが少しだけ笑う。
「これからも、役割を分ければ楽に戦えそうです」
「ああ。俺が前で止める。ラベンダーが見つけて、射る」
「はい。ミントの後ろなら、安心して弓を引けます」
その言葉が、なぜか胸に残った。
倒した灰爪狼は、毛皮や牙を町で売れる。
けれど、三頭分の素材を持ったまま月の谷へ向かうのは難しい。
「妖精の庭へ置いておこう」
俺は妖精の家へ続く扉を呼び出した。
森の中に現れた扉を開くと、その先には花が咲き乱れる妖精の庭が広がっている。
「お庭に狼を置くの?」
ピクが倒れた灰爪狼の周りを飛ぶ。
「ああ。帰りに町へ持っていって売る」
「お花の近くはだめだよ!」
「分かってる。庭の端に置くよ」
俺とラベンダーで灰爪狼を一頭ずつ運ぶ。
三頭目は二人で持ち上げた。
花や泉から離れた、庭の端へ並べて置く。
妖精の庭なら、道中で盗まれる心配もない。
「帰ったら、解体が必要ですね」
「俺はほとんどやったことがない」
「私が教えます」
「助かるよ」
「きれいに解体できれば、毛皮も高く売れます」
「旅の費用を取り戻せるといいな」
「三頭分なら、かなり戻ると思います」
素材を置き終え、俺たちは扉を閉じた。
再び月の妖精のあとを追い、月の谷へ向かう。
その日は、森を抜けた先で野営することにした。
空が赤く染まり、月の妖精も今日はここまでだと言う。
俺は薪を集めて火を起こした。
町で買った鍋を取り出し、芋と玉ねぎを切る。
乾燥豆を水へ入れ、干し肉と一緒に煮込んだ。
塩を少しずつ加え、味を確かめる。
「いい匂い!」
ピクが鍋の上を飛ぶ。
「食べないのに、匂いは好きなんだな」
「好きだよ! あったかい匂い!」
「食べたくはならないのか?」
「ならないよ。でも、二人が食べてるところは好き!」
ラベンダーも鍋へ顔を近づけ、鼻を動かした。
「いい匂いです」
「俺の匂いを嗅ぐときより慎重だな」
「料理は口へ入れるものですから」
「俺は口へ入れないぞ」
ラベンダーは一瞬だけ黙った。
そのまま何も聞かなかったように鍋へ視線を戻す。
「もう食べられますか?」
「今のは無視するんだな」
「お腹が空きました」
俺は煮込み料理を木の皿へ盛り、ラベンダーへ渡した。
ラベンダーは一口食べる。
目が少しだけ見開かれた。
「どうだ?」
「おいしいです」
「意外と、はつかない?」
「とてもおいしいです」
「言い直したな」
「本当にそう思っています」
ラベンダーはもう一口食べた。
尻尾がゆっくりと左右へ揺れ始める。
「おかわりもありますか?」
「あるよ」
「では、お願いします」
俺は空になった皿へ、もう一度料理をよそう。
ピクと月の妖精は食べず、焚き火の近くを楽しそうに飛んでいた。
「二人とも、うれしそう!」
「ピクも楽しいのか?」
「楽しいよ。二人が一緒にご飯を食べてるから!」
焚き火の前で、同じ鍋の料理を食べる。
それだけのことなのに、妖精の家へ帰ったときと同じような安心感があった。
俺が自分の皿を食べ終えると、《スキル図鑑》が現れた。
ひとりでにページが開き、新しい文字が浮かび上がる。
【新しい技能が登録されました】
《料理》
【登録技能数 9/100】
「九個目だ」
隣からラベンダーが図鑑をのぞき込む。
「あと一つですね」
「ああ」
登録技能が十個になれば、図鑑の一割が埋まる。
そのとき、何が起きるのか。
まだ分からない。
図鑑を閉じた俺は、焚き火の向こうに見える山影へ目を向けた。
月の谷は、もう近い。
翌朝。
俺たちは月の妖精に案内され、谷の入口へ向かった。
森が途切れた先に、深い谷が広がっている。
向こう岸へ渡るための古い木橋も見えた。
けれど、橋は中央から大きく崩れ落ちていた。
谷の底は深く、下をのぞいても暗闇しか見えない。
俺は持ってきた木材とのこぎりへ目を向けた。
「……持ってきて正解だったかもしれないな」




