第8話 月の妖精
目を覚ますと、すぐ近くにラベンダーの顔があった。
「……近くないか?」
俺が声をかけると、ラベンダーの耳がぴくりと動いた。
けれど離れない。
俺の首元へ顔を寄せ、鼻を小さく動かしている。
「何してるんだ?」
「傷が治ったか確認しただけです」
「匂いで?」
「獣人なら普通です」
ラベンダーは何事もなかったように顔を離した。
昨夜、獣になったラベンダーに吹き飛ばされた俺は、《妖精の泉》へ入った。
傷も痛みもすっかり消えている。
ただし、破れた服までは元に戻らなかった。
「傷は治ってるよ」
「本当に?」
「ああ」
俺が脇腹を見せると、ラベンダーはじっと見つめた。
傷跡は残っていない。
「よかった……」
小さく息を吐いたあと、また顔を寄せてくる。
「今、もう一回嗅いだだろ」
「確認が足りなかっただけです」
「もう傷を見たよな?」
「獣人なら普通です」
「便利だな、その言葉」
俺が笑うと、ラベンダーは少しだけ頬を膨らませた。
「笑わないでください」
「ごめん」
「まだ笑っています」
昨夜までとは違う。
ラベンダーの話し方から、少しだけ固さが抜けていた。
それがなんとなく嬉しかった。
「服、破れちゃったね!」
頭の上から声が降ってきた。
ピクが俺の肩へ降り、脇腹の辺りを指さす。
「ミントのお腹、見えてる!」
「見なくていいよ」
「ピクは見てないよ!」
「今、指さしただろ」
「見つけただけ!」
言っていることがよく分からない。
ラベンダーが小さく笑った。
俺は背負い袋から針と糸を取り出す。
「縫えば、まだ着られる」
「ミント、裁縫もできるんですか?」
「少しだけな」
冒険者の服はよく破れる。
そのたびに新しい服を買っていたら、いくら金があっても足りない。
最初は糸を絡ませたり、指へ針を刺したりした。
それでも何度も繰り返すうちに、簡単な破れなら自分で直せるようになった。
俺は泉の近くに腰を下ろし、裂けた布を縫い合わせていく。
少し歪んでいるが、動くのに問題はない。
最後に糸を結んだ瞬間、目の前へ《スキル図鑑》が現れた。
本がひとりでに開き、白いページへ文字が浮かぶ。
【新しい技能が登録されました】
《裁縫》
【登録技能数 8/100】
「増えた」
俺の声を聞いて、ラベンダーが横から図鑑をのぞき込む。
「裁縫も技能になるんですね」
「俺も今知ったよ」
「それなら、いろいろ覚えられそうです」
「ああ」
剣や盾だけではない。
薬草を採ることも、火を起こすことも、服を直すことも技能になる。
特別な才能がなくても、積み重ねたことを図鑑は認めてくれる。
それだけで、少し前へ進めた気がした。
図鑑を閉じると、ラベンダーが俺の縫った場所を見つめた。
「思ったより上手ですね」
「思ったよりは余計だよ」
「褒めています」
「本当に?」
「半分くらいは」
「半分か」
ラベンダーはまた小さく笑った。
けれど、すぐに表情を曇らせる。
昨夜のことを思い出したのだろう。
耳がわずかに伏せられた。
「ラベンダー」
「……はい」
「昨日のこと、聞いてもいいか?」
ラベンダーは少し迷ったあと、ゆっくり頷いた。
「満月になると、いつもああなるのか?」
「毎回ではありません。でも、月の力が強い夜は抑えられなくなります」
「治す方法は?」
「ありません」
答えは早かった。
「ずっと探しました。獣人の村でも、町の治療師にも聞きました。でも、これは病気ではないと言われました」
「病気じゃない?」
「私の身体に流れている、獣の血が強すぎるそうです」
ラベンダーは自分の両手を見る。
「満月の光を浴びると、身体を自分で動かせなくなります。誰かを傷つけても、止められない」
「でも、昨日は戻れた」
「ミントが止めてくれたからです」
「俺は名前を呼んでただけだよ」
「それでも戻れました」
ラベンダーは顔を上げた。
「だから、余計に怖いんです。次も戻れるとは限らないから」
ラベンダーがここを離れようとしていることは、すぐに分かった。
俺を傷つけないために。
自分から帰る場所を捨てようとしている。
「ピク」
「なあに?」
花の上で遊んでいたピクが飛んでくる。
「妖精なら、ラベンダーの獣化について何か知らないか?」
ピクは首を傾げた。
「ピクは分かんない」
「そうか」
「でも、月の妖精なら知ってるかも!」
「月の妖精?」
「月のこと、いっぱい知ってる妖精!」
ピクは羽を大きく広げた。
「呼んでくるね!」
そう言うと、庭の奥へ飛んでいく。
花の間へ消えたかと思うと、すぐに姿が見えなくなった。
「すぐ戻ってくるのか?」
「妖精に聞かれても困ります」
「ラベンダーも分からないか」
「獣人なら何でも分かると思わないでください」
「思ってないよ」
俺たちは泉の近くで待つことにした。
その間、簡単な朝食を取る。
残っていた硬いパンと干し肉だけだ。
ラベンダーは干し肉を一口食べたあと、俺の方を見た。
「ミント」
「どうした?」
「昨日、怖くなかったんですか?」
「怖かったよ」
「それでも逃げなかった」
「逃げたら、ラベンダーが一人になるだろ」
ラベンダーは何も言わなかった。
ただ、少しだけ俺へ近づいた。
そして、また首元へ顔を寄せてくる。
「……また嗅いでる?」
「獣人なら普通です」
「三回目だぞ」
「今日は確認することが多いんです」
「何を確認してるんだよ」
「いろいろです」
答えるつもりはないらしい。
ラベンダーの尻尾が、ゆっくり左右へ揺れていた。
しばらくすると、庭の奥から二つの光が飛んできた。
「連れてきたよ!」
先を飛んでいるのはピク。
その後ろに、淡い銀色の光をまとった妖精がいる。
ピクと同じくらいの大きさだが、羽は月の光のように白く輝いていた。
月の妖精はラベンダーの周りを一周する。
耳を見て、尻尾を見て、最後に顔をのぞき込んだ。
「この子だよ!」
ピクが元気よく言う。
月の妖精は頷いた。
「ラベンダーはね。月の欠片を探したらいいよ」
「月の欠片?」
ラベンダーの耳が立つ。
「それがあれば、満月の力を抑えられるの?」
「うん」
月の妖精は迷わず答えた。
「身体の中で暴れてる月の力を、月の欠片が静かにしてくれるよ」
「どこにあるんですか?」
「月の谷」
ラベンダーの表情が変わった。
「月の谷……聞いたことがありません」
「遠いのか?」
俺が尋ねると、月の妖精は両手を広げた。
「ちょっと遠いよ。でも、わたしが連れていってあげる」
場所が分からないのなら探しようがない。
だが、案内してくれるなら話は別だ。
「じゃあ、行こう」
「待ってください」
ラベンダーが俺を見る。
「危険な場所かもしれません」
「一人で行くより、二人の方が安全だろ」
「これは私の問題です」
「でも、月の妖精は俺の家にいる」
「それは……そうですけど」
「それに、俺も旅に出る理由が欲しかったんだ」
妖精の家を手に入れた。
けれど、ずっとここにいるだけでは《スキル図鑑》は埋まらない。
新しい土地へ行き、新しいことを覚える。
その旅の目的として、月の欠片を探すのは悪くない。
「月の谷へ行きながら、技能も増やせるかもしれない」
「結局、図鑑のためですか?」
「それだけじゃないよ」
「では、何です?」
「一人より二人の方が安全だから」
「さっきも聞きました」
「大事なことだからな」
ラベンダーは呆れたように息を吐いた。
それでも、もう断ろうとはしなかった。
「分かりました」
ラベンダーは俺のすぐ横へ座る。
「月の谷まで、一緒に行きます」
「ああ」
月の妖精が嬉しそうに宙を回る。
「でも、気をつけてね」
「何かあるのか?」
「月の欠片は、谷の奥にあるよ」
月の妖精は笑ったまま続けた。
「大きな魔物が守ってるから」
ラベンダーの耳がぴくりと動く。
「……大きな魔物?」
「うん。とっても強いよ!」
嬉しそうに言うことではない。
俺とラベンダーは顔を見合わせた。
「簡単には取れそうにありませんね」
「簡単じゃなくても、場所が分かっただけ前進だろ」
「ミントは前向きですね」
「よく言われる」
「たぶん、褒められていませんよ」
「それもよく言われる」
月の谷。
そこにいる魔物がどれほど強いのか、まだ分からない。
それでも、進む道は決まった。
俺たちは月の欠片を探すため、旅へ出る。




