第7話 月夜の獣
ラベンダーの牙が、俺の喉元へ近づいてくる。
荒い息が首筋にかかった。
押さえつけられた両肩が痛い。
人の姿をしていたときとは比べものにならない力だった。
「ラベンダー……」
「グルルルル……!」
名前を呼ぶと、ラベンダーの身体がわずかに震えた。
金色の瞳が細くなる。
だが、牙は止まらない。
俺は片手を動かそうとした。
すぐそばに、腰から外れた剣が落ちている。
手を伸ばせば届く。
剣を取れば、少しくらいは抵抗できるかもしれない。
でも、その剣を誰に向ける?
俺を殺さないように、必死で耐えているラベンダーにか?
「……逃げ、て」
獣の唸り声に混じって、かすかな言葉が聞こえた。
聞き間違いじゃない。
ラベンダーの声だった。
「まだ話せるんだな」
「逃げて……ミント……!」
ラベンダーの爪が、床板へ食い込む。
俺の肩を押さえていた手が離れた。
だが、自由になった爪は自分の腕へ向かう。
鋭い爪が毛皮を裂こうとした。
「やめろ!」
俺はその腕にしがみついた。
「離して!」
「自分を傷つけるな!」
「このままじゃ、君を殺す!」
ラベンダーが大きく腕を振った。
俺の身体が簡単に飛ばされる。
背中から壁へぶつかった。
「ぐっ……!」
息が詰まる。
床へ落ちた俺を見て、ラベンダーが後ずさった。
その顔は獣だった。
けれど、目から涙が流れていた。
「来ないで……」
ラベンダーは玄関へ向かう。
家から出るつもりだ。
「どこへ行くんだ」
「森へ……」
「一人でか?」
「人のいないところへ行く。朝まで、誰にも会わなければいい」
震える手が扉へ伸びる。
俺は壁に手をつきながら立ち上がった。
「駄目だ」
「どうして!」
「森には魔物がいる。旅人が通るかもしれない。ここを出たら、もっと危険だ」
「じゃあ、どうすればいいの!」
ラベンダーが振り返った。
低い声が家の中へ響く。
「私を縛れる鎖なんてない! 薬も効かない! 朝が来るまで、私はずっとこのままだ!」
「なら、ここにいろ」
「君が死ぬ!」
「死なない」
「さっき吹き飛ばされたじゃないか!」
「ちょっと痛かっただけだ」
「壁にひびが入っている!」
振り返ると、本当に入っていた。
妖精の家の壁に、細いひびが走っている。
「あとで直す」
「そういう問題じゃない!」
外から、小さな声が聞こえた。
「ミントー!」
「ラベンダー!」
「だいじょうぶー!?」
ピクたちだ。
俺がラベンダーに押し倒されたとき、家の外へ逃げてもらった。
扉の向こうに集まっているらしい。
「入ってくるな!」
俺が叫ぶと、外が静かになった。
けれど、すぐにピクの声がする。
「ラベンダー、かえってきてー!」
「おうちだよー!」
「みんな、いるよー!」
ラベンダーが扉の前で動きを止めた。
「……やめて」
「ラベンダー!」
「やめてくれ……」
耳をふさぐように頭を抱える。
身体がさらに大きく膨らんだ。
毛が逆立ち、背中が丸まる。
「グルルルルル……!」
理性が消えかけている。
俺は床に落ちていた剣を拾った。
鞘から抜く。
ラベンダーがこちらを見た。
「……それで、私を殺すの?」
「違う」
俺は剣を逆さに持った。
刃先を床へ向ける。
「何を……」
「暴れたら、これで床を叩く」
「は?」
「大きな音がしたら、驚いて止まるかもしれない」
「そんな子供だましで!」
「効かなかったら、もっと大きく名前を呼ぶ」
ラベンダーの目が見開かれた。
「どうして逃げないの……」
「ラベンダーが一人になるからだ」
「私は化け物だ!」
「今はちょっと毛深いだけだ」
「牙も爪もある!」
「獣人なら普段からあるだろ」
「大きさが違う!」
「たしかに三倍くらいあるな」
外から妖精たちの声がした。
「三倍!」
「ラベンダー、三倍!」
「そこは喜ぶところじゃない!」
ラベンダーが反射的に叫んだ。
その直後、自分でも驚いたように口を閉じる。
俺は少し笑った。
「ほら。まだラベンダーだ」
「……違う」
「同じだよ」
「違う!」
ラベンダーが床を蹴った。
一瞬で目の前まで迫る。
速い。
姿が消えたようにしか見えなかった。
巨大な爪が振り下ろされる。
俺は剣を横にして受け止めた。
金属が悲鳴を上げた。
「ぐっ……!」
両腕がしびれる。
そのまま床へ押しつぶされそうになる。
「ラベンダー!」
名前を叫ぶ。
爪が止まった。
「ラベンダー!」
「グルル……!」
「ラベンダー!」
「呼ぶな!」
「何度でも呼ぶ!」
「私はもう――」
「ラベンダー!」
金色の瞳から涙がこぼれた。
押しつけられていた剣が軽くなる。
ラベンダーは俺から離れ、頭を抱えた。
「嫌だ……」
大きな身体が震えている。
「また誰かを傷つける……」
「また?」
ラベンダーは答えなかった。
それでも、その一言で分かった。
以前にもあったんだ。
満月の夜に獣となり、誰かを傷つけたことが。
だから月を恐れていた。
だから誰とも暮らさなかった。
俺は剣を床へ置いた。
ゆっくりラベンダーへ近づく。
「来るな……」
「行かない」
「近づかないで」
「それも無理だ」
「どうして言うことを聞かないんだ!」
「ラベンダーも聞かないだろ。逃げろって言っても、いつも俺を助けてくれる」
ラベンダーの耳がわずかに動いた。
「それと同じだ」
「同じじゃない……」
「同じだよ」
俺は手を伸ばした。
巨大な腕へ触れる。
毛は硬く逆立っていた。
その下で、身体が激しく震えている。
「怖いのか?」
「……怖い」
「俺を傷つけるのが?」
「君だけじゃない」
ラベンダーの声が小さくなる。
「誰かを傷つけるのが怖い。目が覚めたとき、何をしたのか分からないのが怖い。だから私は、満月の夜は一人でいなきゃいけないんだ」
「今までずっと?」
「そうだ」
「じゃあ、今日は違うな」
ラベンダーが顔を上げる。
「俺がいる。ピクたちもいる」
「それが怖いんだ!」
ラベンダーの腕が俺を振り払おうと動く。
俺は抱きついた。
巨大な身体に腕が回らない。
それでも離さなかった。
「ミント!」
「朝までここにいる」
「離して!」
「嫌だ」
「噛み殺すかもしれない!」
「噛むな」
「そんな簡単な!」
「じゃあ、頑張って噛まないでくれ」
「無茶苦茶だ!」
「俺は剣も弱いし、追跡も今日覚えたばかりだ。難しいことはできない」
腕の中で、ラベンダーの震えが少しだけ弱くなった。
「だから、名前を呼ぶくらいしかできない」
「……馬鹿だ」
「よく言われる」
「私しか言っていないだろ」
「じゃあ、一回だけだ」
また外から声がする。
「ラベンダー!」
「おかえりー!」
「おうちー!」
ラベンダーが小さく息を吐いた。
獣の身体から力が抜けていく。
俺たちは、そのまま床へ座り込んだ。
ラベンダーは何度も唸った。
突然、爪を振り上げることもあった。
そのたびに名前を呼んだ。
ピクたちも外から呼び続けた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
窓から差し込んでいた月明かりが、少しずつ薄くなっていく。
やがて森の向こうから、朝の光が差し込んだ。
ラベンダーの身体が縮み始める。
逆立っていた毛が元へ戻る。
鋭く伸びていた牙と爪も小さくなった。
俺の腕の中にいたのは、いつものラベンダーだった。
「……ミント?」
「おはよう」
ラベンダーは自分の手を見た。
次に俺の顔を見る。
頬や腕についた傷を見つけたらしい。
顔が青ざめた。
「私がやったの?」
「壁のひびもな」
「私は君に聞いている!」
「ちょっと吹き飛ばされただけだ」
「ちょっとじゃない!」
ラベンダーは俺の頬の傷へ手を伸ばした。
触れる直前で、その手が止まる。
「ごめん……」
声が震えていた。
「ごめんなさい……」
ラベンダーは何度も謝った。
俺は傷の痛む頬をかいた。
「謝る前に言うことがあるだろ」
「え……」
俺は立ち上がり、玄関の扉を開けた。
外で待っていた妖精たちが一斉に飛び込んでくる。
「ラベンダー!」
「もどったー!」
「三倍じゃない!」
「三倍はもう忘れろ!」
妖精たちがラベンダーの周りを飛び回る。
ラベンダーは泣きながら笑った。
俺はそんな彼女へ言った。
「おかえり、ラベンダー」
ラベンダーの笑顔が止まる。
「……今まで誰も、そんなこと言ってくれなかった」
「そうなのか?」
ラベンダーが小さくうなずく。
俺は少し考えてから答えた。
「じゃあ、これからは毎日言うよ」
「毎日?」
「出かけて、帰ってきたら言う」
「出かけなかった日は?」
「その日は言わない」
「そこは言ってくれないのか」
「帰ってきてないからな」
ラベンダーが笑う。
妖精たちも意味が分からないまま笑っていた。
月は消えた。
呪いがなくなったわけじゃない。
次の満月には、また同じことが起きる。
それでもラベンダーは、もう一人じゃない。
俺たちには帰る家がある。
だから次も、何度だって名前を呼べばいい。
朝の光が差し込む妖精の家で、ラベンダーはもう一度、小さく笑った。




