第6話 不吉な夜
妖精の泉へ入ると、身体に染みついていた痛みが、少しずつ薄れていった。
頬の腫れが引き、切れていた唇も塞がっていく。
腹の奥に残っていた鈍い痛みまで消えるころには、さっきまで三人の男たちに殴られていたことが嘘のようだった。
「……本当に治った」
泉のそばに座っていたラベンダーが、俺の顔をじっと見ている。
「だから言っただろ」
「顔が三倍になってたのに」
「それは妖精たちが勝手に言ってただけだ」
近くにいた小さな妖精たちが、三本の指を立てた。
「三倍!」
「三倍!」
「お前らは黙ってろ」
妖精たちは楽しそうに笑いながら飛んでいった。
泉から上がると、ラベンダーも立ち上がった。
傷の消えた俺の頬へ手を伸ばしかけ、途中で止める。
「もう、痛くない?」
「ああ」
「……よかった」
それだけ言って、ラベンダーは手を引っ込めた。
俺も何を返せばいいのか分からず、濡れた髪をかき上げる。
服には泥や血が残っているが、身体は完全に治っていた。
便利すぎる泉だ。
ただし、外へ持ち出すことはできず、戦闘中に逃げ込むこともできない。
使える状況が限られているとはいえ、命を救う力であることに変わりはなかった。
◇
昼になってから、俺は庭の机で《スキル図鑑》を開いた。
【スキル図鑑 6/100】
【登録済み技能】
《剣術》
《盾術》
《採取》
《野営》
《応急処置》
《火起こし》
登録されている技能は、まだ六つ。
十個まで、あと四つだ。
その先には、達成報酬の《JOB解放》が待っている。
図鑑を眺めていると、ラベンダーが横から覗き込んできた。
「これが図鑑?」
「ああ。俺が身につけた技能が記録される」
「何でも?」
「たぶんな」
「たぶんなんだ」
「まだ分からないことが多い」
ラベンダーは並んだ技能を見つめたあと、少し考えるように耳を動かした。
「じゃあ、《追跡》は?」
「追跡?」
「昨日、足跡を追ったでしょう」
「あれは全部、ラベンダーがやったことだろ」
「教えたら、ミントもできるかもしれない」
「教えてくれるのか?」
「妖精の家に置いてもらうから」
「そんなことを気にしなくていい」
「何もしないのは嫌」
きっぱりと言われた。
ラベンダーは妖精の家に世話になることを、借りだと考えているらしい。
「分かった。頼む」
「うん」
ラベンダーは立ち上がり、庭の奥へ歩いていった。
「ここから私を探して」
「見えてるけど」
「目を閉じて」
「それなら最初から言え」
言われたとおりに目を閉じる。
草を踏む音が遠ざかっていった。
しばらくして、庭の奥から声が飛んでくる。
「もういいよ」
目を開けると、ラベンダーの姿は見えなくなっていた。
足元には、草を踏んだ跡が残っている。
「これを追えばいいのか」
倒れた草をたどっていく。
しばらく進んだところで、足跡は右へ曲がっていた。
「こっちだな」
そのまま進む。
だが、どれだけ歩いてもラベンダーは見つからなかった。
「違う」
後ろから声がした。
振り返ると、ラベンダーは最初に立っていた木の近くにいた。
「なんでそこにいる?」
「途中から後ろ向きに歩いた」
「そんなの分かるか」
「追われているときは、こういうこともする」
ラベンダーは地面を指差した。
よく見ると、足跡の向きと草の倒れている方向が合っていない。
俺は足跡しか見ていなかった。
「足跡だけを見るのは駄目」
「ほかに何を見る?」
「草。枝。泥。匂い。歩く人の癖」
「多いな」
「全部を一度に見る必要はないよ」
もう一度、最初から挑戦することになった。
今度は足跡だけではなく、周囲の草や枝も見る。
だが途中から、地面に小さな足跡が大量に増えた。
顔を上げる。
小さな妖精たちが、ラベンダーの歩き方を真似していた。
前向きに歩いたあと、後ろ向きに歩く。
その場で回る。
意味もなく跳び上がる。
「邪魔するな!」
妖精たちは楽しそうに笑いながら逃げていった。
木の陰から、ラベンダーの笑い声が聞こえる。
「笑うな」
「だって、みんな真似してる」
「お前が始めたんだろ」
「妖精たちには教えてない」
「勝手に覚えたんだよ」
俺はラベンダーが隠れている方向へ歩き出した。
「そこだろ」
木の陰を覗く。
だが、誰もいない。
「違う」
今度は頭上から声がした。
ラベンダーは低い木の枝に腰を下ろしていた。
「木の上は反則だろ」
「反則じゃない」
「先に言ってくれ」
「追われている人は、追う人に教えない」
「それもそうか」
何度も失敗した。
見つけたと思えば、足跡を逆向きにつけられていた。
折れた枝を追えば、わざと折られた偽物だった。
ラベンダーを見つける前に、妖精たちを何人も見つけた。
「見つかった!」
「違う。お前を探してない」
「もう一回!」
「隠れなくていい」
昼を過ぎても、練習は続いた。
ラベンダーは隠れる場所を何度も変えた。
花畑。
木の陰。
家の屋根。
空の作業小屋の裏。
俺はそのたびに、地面や草木に残った痕跡を探した。
少しずつだが、見る場所が分かってきた。
足跡の深さ。
倒れた草の向き。
枝へ引っかかった灰色の毛。
土の表面に残った、指先ほどの小さな傷。
最後の挑戦では、足跡を逆向きにつけた罠にも引っかからなかった。
地面に残された跡ではなく、木の枝に引っかかった灰色の毛を見つける。
その先にある木の裏へ回った。
ラベンダーがしゃがんでいた。
「見つけた」
「遅い」
「今度は騙されなかっただろ」
「妖精には三回騙されてた」
「あいつらは数に入らない」
そのとき、目の前へ淡い文字が浮かんだ。
【《追跡》を登録しました】
【スキル図鑑 7/100】
「入った」
俺が言うと、ラベンダーが立ち上がった。
「本当に?」
「ああ。《追跡》だ」
ラベンダーは自分のことのように嬉しそうな顔をした。
「役に立った?」
「かなり」
「そっか」
灰色の耳が、少しだけ上を向いた。
褒められることに慣れていないのかもしれない。
「ありがとう」
「……うん」
短い返事だったが、尻尾がわずかに揺れていた。
◇
練習が終わっても、妖精たちは庭を走り回っていた。
そのうち何人かが、ラベンダーの後ろへ集まり始める。
目当ては、歩くたびに揺れる灰色の尻尾だった。
一人の妖精が手を伸ばす。
すぐにピクが止めた。
「勝手に触ったら駄目!」
妖精たちは一斉に手を引っ込めた。
それでも、尻尾から目を離さない。
ラベンダーが後ろを振り返った。
「……触りたいの?」
妖精たちが何度も頷く。
「触りたい!」
「ふわふわ!」
「少しだけ!」
ラベンダーは迷うように尻尾を見た。
それから地面へ座り、尻尾を横へ出す。
「少しだけ」
妖精たちが順番に触っていく。
指先で毛をなでる者。
頬をくっつける者。
柔らかさに驚いたのか、一人が両手で抱きついた。
「そこまで」
ラベンダーが尻尾を持ち上げると、妖精も一緒に浮かび上がった。
「わあ!」
周りの妖精たちが笑い始める。
俺もその様子を見ていると、ラベンダーがこちらを向いた。
「ミントは駄目」
「俺は何も言ってない」
「ずっと見てた」
「妖精を見てたんだ」
「本当に?」
「本当だ」
ラベンダーは疑うような目を向けてきた。
「触りたい顔をしてた」
「どんな顔だよ」
「こういう顔」
ラベンダーが少し眉を下げ、じっと尻尾を見る真似をした。
「そんな顔はしてない」
「してた」
「してない」
「してたよ」
「見てた!」
「尻尾見てた!」
妖精たちまで騒ぎ始める。
「お前らはどっちの味方なんだ」
「尻尾!」
「味方じゃないだろ、それ」
ラベンダーが小さく笑った。
昨日までは、ほとんど表情を変えなかった。
少しずつではあるが、この場所に慣れ始めているらしい。
◇
夕方になると、妖精の庭の空が少しずつ暗くなった。
淡い星が浮かび、やがて丸い月が姿を現す。
それを見た瞬間、ラベンダーの身体が固まった。
「どうした?」
「……月」
灰色の耳が伏せられる。
尻尾も動かなくなった。
ピクが空を見上げた。
「ここのお月さまは、本物じゃないよ」
ラベンダーがピクを見る。
「本物じゃない?」
「お空も、お星さまも、お月さまも、妖精の家が見せてるの」
「外の月とは違うのか?」
「うん。外の魔力も入ってこないよ」
ラベンダーは、もう一度空を見上げた。
少しだけ肩の力が抜ける。
「月が嫌いなのか?」
「……あまり好きじゃない」
それ以上は聞かなかった。
聞かれたくないことまで話す必要はない。
夕食はラベンダーが作った。
牙猪の肉を薄く切り、野草と一緒に焼いていく。
肉から出た脂で野草がしんなりし、香ばしい匂いが家の中へ広がった。
「昨日よりうまい」
俺が肉を食べながら言うと、ラベンダーがこちらを見る。
「昨日はミントが焼いたから」
「焦げてはいなかった」
「黒かった」
「あれは焼き目だ」
「全部、焼き目だった」
「均等に焼けてたってことだ」
「中まで硬かった」
「保存には向いてる」
「その場で食べたのに?」
ラベンダーが声を出して笑った。
初めて聞く笑い声だった。
妖精たちもつられて笑い始める。
「黒かった!」
「全部、黒かった!」
「お前らは食べてないだろ」
「見てた!」
「焦げてた!」
「焼き目だって言ってるだろ」
騒がしい夕食になった。
ラベンダーは何度も妖精たちを見た。
その表情には、昨日までの強い警戒心は残っていなかった。
◇
食事を終えたあと、ラベンダーが窓の外を見た。
外の森にある空は、厚い雲に覆われている。
「今夜は月が見えない」
「そうみたいだな」
「今のうちに、少し外へ行きたい」
「何をしに?」
「小屋の近くに、まだ置いてきた物があるかもしれない」
「明日でいいだろ」
「気になる」
ラベンダーは空を見つめた。
「雲が厚いから、大丈夫だと思う」
大丈夫。
何が大丈夫なのかは分からなかった。
だが、夕方に月を見たときの反応と関係がありそうだった。
「俺も行く」
「一人で平気」
「俺が平気じゃない」
ラベンダーは何も言わなかった。
しばらく俺を見つめたあと、小さく頷く。
「分かった」
俺は剣を腰へ差した。
ピクが近づいてくる。
「私も行く!」
「暗いから、今日は残れ」
「でも」
「すぐ戻る」
「絶対?」
「ああ」
ピクは納得していない顔をしたが、最後には頷いた。
「気をつけてね」
◇
二人で妖精の家を出る。
外の森は暗かった。
空は厚い雲に覆われ、月も星も見えない。
ラベンダーは慣れた様子で森の中を進んでいく。
俺にはほとんど道が見えなかったが、ラベンダーは木や根を避けながら歩いていた。
「暗くても見えるのか?」
「人間よりは」
「便利だな」
「昼ほどは見えない」
壊された小屋へ着くと、ラベンダーは周囲を探し始めた。
倒れた棚の下から、小さな革袋を見つける。
壁板の陰には、短い縄も落ちていた。
「ほかには?」
「たぶん、ない」
「じゃあ戻ろう」
「うん」
ラベンダーが革袋を腰へつける。
そのとき、強い風が吹いた。
木々が大きく揺れる。
雲が流れ、空の一部が開いた。
白い光が、森へ降り注ぐ。
本物の月が、雲の隙間から姿を現した。
ラベンダーの動きが止まった。
「ラベンダー?」
返事がない。
灰色の耳と尻尾の毛が逆立っている。
肩が細かく震え始めた。
「……月」
掠れた声が漏れる。
「見ちゃ、駄目だった……」
ラベンダーが膝をついた。
俺はすぐにそばへ駆け寄る。
「どうした?」
「来ないで」
「立てるか?」
「触らないで……」
呼吸が荒い。
手が震え、爪が少しだけ伸びていた。
このまま外へ置いていくわけにはいかない。
俺はラベンダーの腕を掴んだ。
「妖精の家へ戻るぞ」
「放して」
「嫌だ」
「危ない……」
「ここにいる方が危ない」
ラベンダーの腕を俺の肩へ回す。
身体が熱い。
息もどんどん荒くなっていた。
「歩けるか?」
「来ないで……」
「歩けないなら運ぶ」
「駄目……」
半分引きずるようにして、妖精の家へ向かう。
幸い、小屋から扉を開く場所までは遠くない。
俺は何度もラベンダーの名前を呼びながら歩いた。
「ラベンダー。もう少しだ」
「放して……」
「もうすぐ着く」
「私が……ミントを……」
妖精の家へ続く扉を呼び出す。
淡い光が集まり、木々の間に扉が現れた。
ラベンダーを支えたまま、中へ入る。
扉が閉じると、本物の月明かりは消えた。
だが、ラベンダーの震えは止まらなかった。
◇
「ミント!」
ピクが飛んでくる。
「何があったの?」
「分からない。ラベンダーの様子がおかしい」
ラベンダーが俺の肩から腕を外した。
そのまま床へ手をつく。
爪が少しずつ伸びていく。
口元から、鋭い牙が見えた。
小さな妖精たちが不安そうに集まってくる。
「全員、家の外へ出ろ」
「でも、ミントが――」
「ピクもだ」
「嫌だよ!」
「ラベンダーが暴れたら、お前たちまで危ない」
「妖精は庭へ戻されるから大丈夫!」
「それでも近づくな」
ピクは俺とラベンダーを交互に見た。
「……分かった」
「扉の外で待っててくれ」
ピクが小さな妖精たちを連れ、家の外へ出ていく。
俺はラベンダーから少し距離を取った。
「何が起きてる?」
「分からない……」
「前にもあったのか?」
ラベンダーは自分の腕を押さえながら、俺から離れようとした。
「月が明るい夜に、たまに記憶がなくなる」
「記憶が?」
「朝になると、服が破れてる。手に血がついてることもある」
「誰かを傷つけたのか?」
「分からない」
ラベンダーの声が震える。
「近くで、魔物が死んでたことはある」
伸びた爪が、床板へ食い込んだ。
「だから、一人で暮らしてたのか」
ラベンダーは答えなかった。
それだけで十分だった。
誰かを傷つけるのが怖かった。
何をしたのか思い出せないことが怖かった。
だから人から離れ、森の奥で一人きりになった。
「扉を開けて」
「駄目だ」
「外へ出る」
「もっと駄目だ」
「私が、あなたを傷つけるかもしれない!」
「外へ出たら、ほかの誰かを傷つけるかもしれないだろ」
「でも、ここにはミントがいる!」
「ここには泉がある」
「治るからいいっていう問題じゃない!」
「分かってる」
「分かってない!」
ラベンダーが顔を上げる。
瞳が、いつもの色ではなくなっていた。
獣のように細くなっている。
「逃げて……」
「扉は開けない」
「お願い……」
「外へ出す方が危険だ」
「来ないで……!」
床板が音を立てた。
ラベンダーの爪が深く食い込み、何本もの傷を残す。
喉の奥から、低い唸り声が漏れた。
俺は剣へ手を伸ばさなかった。
「俺を見ろ」
「逃げて……」
「ラベンダー」
「来ないで……!」
「名前を呼ばれて、返事ができるなら、まだラベンダーだ」
細くなった瞳が、一瞬だけ揺れた。
「違う……」
「違わない」
「私は、何をするか分からない」
「なら、俺が見てる」
「無理だよ……」
「一人にはしない」
ラベンダーの爪が床を削る。
身体が低く沈んだ。
今にも飛びかかってきそうな姿勢だった。
「俺を見ろ、ラベンダー」
「逃げて……」
「ラベンダー!」
次の瞬間、ラベンダーが床を蹴った。
灰色の影が、視界から消えたように見えた。
胸へ強い衝撃を受ける。
背中から床へ倒された。
「ぐっ……!」
ラベンダーが俺の上に乗っていた。
伸びた爪が、顔のすぐ横へ突き刺さる。
床板が割れた。
口元から鋭い牙が覗いている。
喉の奥から、獣のような唸り声が漏れた。
「俺を見ろ、ラベンダー!」
一瞬だけ、細い瞳が揺れた。
獣の色が薄れる。
その目から、涙が一筋だけ流れた。
「……逃げて」
すぐに瞳が元へ戻る。
低い唸り声が、部屋の中へ響いた。
俺の喉元へ、ラベンダーの牙が迫った。




