第34話 妖精のための薬
白い霧に包まれた森を前に、俺たちは少し離れた場所まで戻った。
霧の近くにいるだけでも、身体が重くなる。
このまま中へ入れば、《妖精露草》へたどり着く前に全員が眠ってしまうだろう。
ピーチは地面へ布を広げ、その上へ革鞄の中身を並べ始めた。
何種類もの薬草。
色の違う小瓶。
小さな秤や乳鉢。
細い金属の棒や、見たことのない器具まで次々に取り出される。
「ここで薬を作れるのか?」
「簡単な物なら作れます」
ピーチは白い霧を閉じ込めた金属の筒を見つめた。
「完全に霧を防ぐのは難しいと思います。ですが、眠りの作用を弱めることはできるかもしれません」
「どのくらい弱められる?」
「それは、作ってみないと分かりません」
ピーチは正直に答えた。
「霧の中で長時間活動するのは無理だと思います。薬が効いている間に《妖精露草》を見つけて、すぐに戻る必要があります」
「時間制限があるってことだね」
「はい」
ラベンダーは霧の森へ目を向けた。
「私が先に進む。妖精露草の場所が分かったら、すぐにみんなを呼ぶよ」
「一人では行かせない」
俺が言うと、ラベンダーは耳を横へ倒した。
「でも、私が一番速いよ」
「霧の中で倒れたら、見つけられなくなる」
「そうですね」
ローズも杖を握ったまま頷く。
「全員で動いた方がよいと思います」
「分かった」
ラベンダーは素直に引き下がった。
ピーチは薬草を一枚ずつ確認している。
「何が必要なんだ?」
「眠気を覚ます作用のある薬草と、身体の中へ入り込んだ成分を外へ出しやすくする薬草です」
「そんな物があるんだね」
「あります。ただし、強く混ぜすぎると別の問題が起きます」
「別の問題?」
「心臓が速く動きすぎたり、身体が熱くなりすぎたりします」
ラベンダーが少し顔を引いた。
「怖い薬だね」
「使い方を間違えれば、どんな薬も危険です」
ピーチは真剣な表情で答えた。
それから、乳鉢へ何種類かの葉を入れた。
細い棒で丁寧にすり潰していく。
青い葉と黄色い花が混ざり、どろりとした緑色へ変わった。
「ピーチ、何か手伝えるか?」
「では、水を少しだけお願いします」
俺が水筒を渡すと、ピーチは決められた量だけ器へ注いだ。
そこへすり潰した薬草を加える。
小瓶の液体を一滴ずつ落とすと、緑色だった液体が薄い黄色へ変化した。
ピーチは匂いを確かめる。
少量を金属の棒へつけ、布の上へ垂らした。
「どう?」
ピクがすぐ近くまで顔を寄せる。
「まだです」
「まだー?」
「完成するまで触ってはいけません」
「はーい」
ピクは少し離れた場所へ移動した。
けれど、目は薬から離さない。
ピーチは何度も量を変えながら調合を続けた。
一度目に作った液体は匂いが強すぎたらしく、別の瓶へ移された。
二度目は色を見ただけで首を横に振る。
三度目を作る頃には、額に汗が浮かんでいた。
「大丈夫か?」
「はい」
ピーチは眼鏡を押し上げる。
「もう少しです」
俺たちには何が違うのか分からない。
けれど、ピーチはわずかな色や匂いの変化を確かめながら、慎重に薬を完成へ近づけていた。
やがて、淡い橙色の液体が四本の小瓶へ分けられた。
「できました」
「これを飲めばいいのか?」
「はい。ただし、一度に全部飲まないでください」
ピーチは小瓶を一本ずつ俺たちへ渡した。
「まず半分だけ飲みます。霧の中で眠気を強く感じたら、残りを飲んでください」
「どのくらい効く?」
「おそらく、一刻も持ちません」
「十分だ」
森の奥深くまで進むつもりはない。
《妖精露草》を見つけ、採取して戻る。
それだけなら、間に合うはずだ。
「ピクはどうする?」
俺が尋ねると、ピーチは少し悩んだ。
「ピクさんは身体が小さいので、人間と同じ量の薬は飲めません」
「でも、一緒に行くよ!」
「危険だ」
「妖精露草、妖精の花だよ。ピクも探す!」
ピクは俺の前で両手を広げた。
止めても、聞きそうにない。
ピーチは小さな容器を取り出すと、薬を一滴だけ垂らした。
そこへ水を加えて薄める。
「ピクさんはこちらを飲んでください」
「苦い?」
「少しだけ」
「甘い?」
「甘くはありません」
ピクは容器の中を覗き込んだ。
「頑張る!」
一息で飲み干す。
すぐに顔をしかめた。
「苦い!」
「薬ですから」
俺たちも小瓶の半分を飲んだ。
舌へ強い苦味が広がる。
その後から、喉の奥が熱くなった。
身体の中に火が灯ったような感覚が広がり、さっきまで残っていた重さが少しずつ消えていく。
「効いてる」
ラベンダーが腕を動かす。
「身体が軽くなった」
「無理はしないでください」
ピーチは残った薬を革帯へ差し込んだ。
「少しでも意識がぼんやりしたら、すぐに戻ります」
俺たちは再び白い霧の森へ向かった。
森の手前で、全員が一度足を止める。
数歩先すら見えないほど霧は濃い。
「行くぞ」
俺が最初に霧の中へ入った。
すぐに冷たい空気が肌へまとわりつく。
わずかに甘い匂いがした。
昨日は、それだけでまぶたが重くなった。
だが、今はまだ意識がはっきりしている。
「薬、効いてるよ」
ラベンダーが後ろから続く。
ローズとピーチも森へ入った。
「全員、離れすぎないように」
霧の中では、少し距離が開くだけで姿が見えなくなる。
俺たちは互いの声を確かめながら進んだ。
ラベンダーが先頭へ出る。
地面の匂いや木の幹を確かめ、進む方向を選んでいく。
「この辺り、前に来たことがある?」
「途中までは」
ピーチが答える。
「ですが、霧が濃くなってからは進めませんでした」
「妖精露草がどこにあるかは分かる?」
「湿った場所に生えると聞いています。それから、淡い光を放つそうです」
「光なら霧の中でも見つけやすそうだね」
「そうだとよいのですが」
森の中は異様に静かだった。
足元の枯れ葉を踏む音だけが響く。
鳥の声も聞こえない。
風もほとんど吹いていなかった。
少し進んだところで、ローズが足を止めた。
「少し、眠くなってきました」
「私も」
ラベンダーが目を何度か瞬く。
薬は効いている。
それでも、霧の作用を完全には防げていないらしい。
「まだ進めるか?」
「大丈夫です」
「無理はするな」
「はい」
ピーチは周囲を確認しながら歩き続ける。
自分で作った薬が効いているとはいえ、表情には緊張が残っていた。
さらに奥へ進むと、霧の向こうに黒い影が見えた。
俺は剣へ手をかける。
「何かいる」
全員が足を止めた。
黒い影は動かない。
ゆっくり近づくと、木の根元で眠っている小さな獣だった。
呼吸はしている。
だが、俺たちが近づいても目を覚まさない。
「霧のせいだね」
ラベンダーが小声で言う。
「この森の生き物は、ずっと眠っているのでしょうか」
「分かりません」
ピーチは獣の様子を確かめた。
「少なくとも、今は命に別状はなさそうです」
俺たちは獣を起こさず、その場を離れた。
時間は限られている。
立ち止まり続ける余裕はない。
やがて、俺のまぶたも重くなってきた。
身体の内側にあった熱が弱まり始める。
「残りを飲むぞ」
俺たちは小瓶の中に残っていた薬を飲んだ。
再び強い苦味が広がる。
「苦いー!」
ピクも薄めた薬の残りを飲み、舌を出した。
「帰ったら甘い物を食べよう」
「食べる!」
少しだけ元気を取り戻したピクが、霧の中を見回した。
「あっち、光ってる!」
「本当か?」
ピクが指差した方向へ目を凝らす。
最初は何も見えなかった。
だが、霧の奥に淡い青色の光が浮かんでいる。
一つではない。
小さな光がいくつも、地面の近くで揺れていた。
「行ってみよう」
俺たちは光を目印に進んだ。
少しずつ霧が薄くなっていく。
木々の間を抜けると、地面が湿った場所へ出た。
浅い水が流れ、その両側に青白い草が生えている。
細長い葉の先には、丸い雫のような実がついていた。
その雫が、淡い光を放っている。
「《妖精露草》です」
ピーチの声が震えた。
「間違いありません」
「やっと見つけたね!」
ラベンダーが笑う。
「すぐに採ろう」
ピーチはその場へしゃがみ込んだ。
けれど、すぐには手を伸ばさない。
葉の状態や根元を確かめている。
「全部採らないのか?」
「はい。根ごと採ると、次に生えなくなってしまいます」
ピーチは小さなナイフを取り出した。
「薬に必要な分だけいただきます」
光を放つ雫を傷つけないように、一本ずつ丁寧に切り取っていく。
採取した《妖精露草》は、湿らせた布へ包まれた。
ピクも手伝おうとしたが、触る前にピーチから止められた。
「とても傷つきやすいので、私がやります」
「ピク、見てる!」
「お願いします」
必要な分を採り終えると、ピーチは立ち上がった。
「これだけあれば、薬を作れます」
「じゃあ戻ろう」
長居する理由はない。
薬の効果も、いつ切れるか分からない。
俺たちは来た道を引き返した。
帰り道では、全員の足取りが少しずつ重くなっていった。
眠気も強くなっている。
それでも、ラベンダーが残した匂いと足跡を頼りに進む。
「もう少しだよ」
ラベンダーが何度も声をかける。
「森の外の匂いがする」
やがて、白い霧が薄くなった。
木々の間から、明るい光が差し込む。
俺たちは最後の力で霧の森を抜けた。
外へ出た瞬間、全員がその場へ座り込んだ。
「眠い……」
ラベンダーが地面へ寝転がる。
「寝るなよ」
「分かってる。でも、少しだけ横になる」
ローズも木へ寄りかかっていた。
ピーチは苦しそうに息をしながらも、革鞄を抱えている。
「妖精露草は?」
「無事です」
布の中を確認し、ピーチは安心したように息を吐いた。
「帰りましょう」
俺たちは少し休んだあと、妖精の家へ戻った。
光の扉をくぐると、小妖精たちが一斉に集まってくる。
「おかえりー!」
「帰ってきたー!」
「お花あった?」
「ありました」
ピーチが布を開く。
青白い《妖精露草》が姿を見せると、妖精たちは歓声を上げた。
「きれいー!」
「光ってるー!」
「妖精のお花ー!」
「触らないでくださいね」
「見るだけー!」
「今度は本当だろうな」
「本当ー!」
俺たちは疲れていたが、ピーチはすぐに薬を作りたいと言った。
「少し休んでからでもいいんじゃないか?」
「いえ。《妖精露草》は新鮮なうちに使った方がよいんです」
ピーチは妖精の家の台所を借り、調合の準備を始めた。
小妖精たちは手を出さないよう、少し離れた場所から見守っている。
ピクはピーチの隣で、時々妖精たちへ注意していた。
「入れちゃだめ!」
「触っちゃだめ!」
「ピクはお手伝いしてる!」
ピーチは《妖精露草》の葉を一枚ずつ分けた。
淡く光る雫を小さな器へ落とす。
そこへ以前から準備していた薬草を加え、ゆっくり混ぜていく。
透明だった液体が、淡い水色へ変わった。
「きれい……」
ローズが静かに呟く。
ピーチは答えず、薬だけを見つめていた。
何度も温度を確かめる。
量を測り直す。
少しでも違えば、最初からやり直すつもりなのだろう。
長い時間をかけ、ようやく小さな瓶へ薬が注がれた。
淡い水色の液体が、瓶の中でかすかに光っている。
「完成したのか?」
「まだ、最後の確認が必要です」
ピーチは薬を一滴だけ、小さな皿へ落とした。
匂いを確かめ、別の液体と混ぜる。
色に変化がないことを確認すると、ようやく肩の力を抜いた。
「完成です」
誰もすぐには声を上げなかった。
ピーチ自身も、小瓶を見つめたまま動かない。
「これが、妖精さんのための薬です」
丸眼鏡の奥に、涙が浮かんでいた。
「ずっと、作りたかった薬です」
ピクがピーチの肩へ飛び乗る。
「できたね!」
「はい」
「ピーチ、すごい!」
「ありがとうございます」
小妖精たちも、今度は騒がずにピーチを見ていた。
やがて、一人が小さな声を上げる。
「ピーチ、ありがとう」
続けて、周りの妖精たちも口々に言った。
「ありがとうー!」
「お薬の人ー!」
「妖精のお薬ー!」
「ピーチ、大好きー!」
ピーチは小瓶を胸元へ抱いた。
涙を隠すように俯く。
「こちらこそ……ありがとうございます」
その時だった。
ちりん。
庭の入口から、小さな鈴の音が聞こえた。
「お手紙!」
ピクが《妖精のポスト》へ飛んでいく。
俺たちも後を追った。
ポストの中には、小さく折り畳まれた葉が一枚入っていた。
ピクが葉を広げると、淡い光の文字が浮かび上がる。
いつもの妖精たちの楽しそうな文字とは違った。
線が震え、ところどころかすれている。
「森の奥で、怖い音がする」
ピクが読み上げる。
「お花が、どんどん枯れてる」
庭にいた妖精たちが静かになった。
「出かけた妖精が、まだ帰ってこない」
ピーチの表情が変わる。
「帰ってこない?」
ラベンダーの耳が立った。
ピクは最後の文字を読んだ。
「怖い」
手紙には、それだけが書かれていた。
何が起きているのかは分からない。
帰ってこない妖精が、どこへ行ったのかも書かれていない。
けれど、放っておくことはできなかった。
ピーチは完成したばかりの薬を強く握った。
「行きましょう」
その声に迷いはない。
「帰ってこない妖精さんたちを探します」
俺は頷いた。
「ああ」
妖精たちのための薬は完成した。
だが、それを必要としている者が、どこかで待っているのかもしれない。
俺たちは手紙を囲みながら、次に向かう場所を確かめ始めた。




