第33話 白い霧の森
《妖精露草》を探しに行くことが決まると、ピーチはすぐに工房へ戻って支度を始めた。
「必要な物を取ってきます。少しだけ待っていてください」
「一人で大丈夫か?」
「はい。すぐ戻ります」
そう言い残し、ピーチは光の扉をくぐっていった。
妖精の家に残った俺たちは、庭で出発の準備を整える。
ラベンダーは短剣の刃を確かめ、ローズは杖へ魔力を通していた。
俺も剣と盾を確認する。
妖精露草が生える場所には魔物が多いと聞いている。
ピーチ一人では近づけなかった場所だ。
何が出てきても、すぐに対応できるようにしておいた方がいい。
「ピーチ、本当にここに住むつもりなのかな」
ラベンダーが工房の方を見ながら呟いた。
「本人はそのつもりみたいだな」
「決めるのが早すぎない?」
「妖精を見た瞬間に、人生で一番幸せだと言っていましたから」
ローズが小さく笑う。
庭では、小妖精たちがピーチの話で盛り上がっていた。
「桃色の人ー!」
「お薬の人ー!」
「眼鏡かわいいー!」
「ここに住むー!」
「薬を勝手に触るなよ」
俺が注意すると、小妖精たちは一斉にこちらを向いた。
「触らないー!」
「見るだけー!」
「匂いも嗅ぐー!」
「匂いも勝手に嗅ぐな」
「はーい!」
本当に分かっているのかは怪しい。
しばらくすると、光の扉が開いた。
戻ってきたピーチは、大きな革鞄を肩から下げていた。
胸元の革帯には、色の異なる小瓶が何本も差し込まれている。
腰には匙や小さなナイフだけでなく、折り畳まれた布や金属製の筒まで増えていた。
「お待たせしました」
「ずいぶん持ってきたな」
「薬草を採取する道具と、簡単な調合道具です。それから、傷薬、解毒薬、虫除け、止血薬もあります」
「全部使うの?」
ラベンダーが鞄を覗き込む。
「使わないのが一番です。でも、薬は必要になってから作っても間に合わないことがありますから」
「準備がいいんですね」
「一人で森へ入ることが多かったので」
ピーチはそう答えたあと、庭を飛び回る妖精たちへ目を向けた。
小妖精たちは、出発するピーチの周りへ集まってくる。
「ピーチ、行くの?」
「お花取りに行くー?」
「お薬作るー?」
「はい。《妖精露草》を採って、皆さんが安心して使える薬を作ります」
「やったー!」
「お薬ー!」
「甘いのがいいー!」
「薬はお菓子ではありません」
ピーチが真面目な顔で答える。
だが、小妖精たちは楽しそうに笑っていた。
「行ってくるね!」
ピクが皆へ手を振る。
ピク以外の妖精たちは、妖精の家に残る。
外へ連れていくには距離が遠すぎるし、魔物が多い場所へ同行させるつもりもない。
「いってらっしゃーい!」
「お花いっぱい取ってきてー!」
「ピーチ、帰ってきてねー!」
その言葉を聞いたピーチが、少しだけ目を見開いた。
それから、嬉しそうに頬を緩める。
「はい。必ず帰ってきます」
俺たちは光の扉をくぐり、森の中へ戻った。
扉が消えると、木々の間へ静けさが戻る。
目指す森は、ピーチの工房よりさらに奥にあるという。
先頭はラベンダー。
その後ろを俺とピーチが歩き、ローズが最後尾につく。
ピクは俺とピーチの間を楽しそうに飛んでいた。
「こっちで合ってる?」
「はい。川沿いに進んだあと、北へ曲がります」
ピーチは地図を広げながら答えた。
紙には細い川や森の形が描かれている。
ところどころに、薬草らしい絵と小さな文字が書き込まれていた。
「自分で作った地図か?」
「はい。薬草を探しながら、少しずつ書き足しました」
「何度も森へ入っているんですね」
「錬金術師にとって、素材を知ることも大切ですから」
ピーチは道端へ目を向ける。
少し歩いただけで、何度も足を止めた。
「これは傷薬に使えます」
「こっちは?」
「似ていますが、違う草です。葉の裏側に細い毛があるので、触るとかぶれます」
ラベンダーが伸ばしかけた手を引っ込める。
「危なかった」
「森には、よく似た植物が多いんです。色や形だけでは見分けられません」
「匂いで分かる物もあるよ」
「さすがですね」
ピーチが感心すると、ラベンダーは少し得意そうに耳を立てた。
「薬草探しなら、私も手伝えるかも」
「とても助かります」
「でも、変な匂いを嗅がせないでね」
「危険な物は先に伝えます」
二人の会話を聞きながら、森を進む。
ピーチが加わったばかりとは思えないほど、雰囲気は穏やかだった。
妖精の家での様子を見る限り、ピーチは俺たちと暮らすことに迷いがない。
けれど、俺たちはまだピーチのことをほとんど知らない。
妖精が好きで、妖精用の薬を作ろうとしている錬金術師。
分かっているのは、それくらいだった。
しばらく歩いたところで、ローズがピーチへ声をかけた。
「一つ、聞いてもいいでしょうか」
「はい。何でしょう?」
「ピーチさんは、どうしてそこまで妖精のための薬を作りたいのですか?」
ピーチの足が、わずかに止まった。
丸眼鏡の奥の瞳が、ピクへ向けられる。
ピクは何も知らない様子で、近くに飛んでいた蝶を追いかけている。
「そうですね」
ピーチは胸元の小瓶へ触れた。
「皆さんには、お話ししておいた方がいいかもしれません」
再び歩き始めながら、ピーチは幼い頃の話を始めた。
「子どもの頃、家族と一緒に森へ来たことがありました」
今よりも人の多い、町に近い森だったという。
家族や知り合いの大人たちと、食べられる木の実や薬草を集めに来ていた。
ピーチも大人たちの真似をして、小さな籠へ花や葉を入れていた。
珍しい花を見つけるたび、夢中で追いかけた。
「気づいた時には、家族の姿が見えなくなっていました」
「迷子になったんだね」
ラベンダーが言う。
「はい。声を出して探しましたが、返事はありませんでした」
森の中を歩き回っているうちに、どちらから来たのかも分からなくなった。
やがて日が暮れ始める。
空は暗くなり、雨まで降ってきた。
「雨宿りできる場所を探しました。でも、子どもだった私には、どこへ行けばいいのか分かりませんでした」
冷たい雨に打たれ続け、服は濡れた。
身体は震え、指先の感覚もなくなっていった。
木の根元で夜を明かそうとしたが、次第に熱が上がり、立ち上がることもできなくなった。
「怖くなかったのか?」
「怖かったです」
ピーチは少しだけ笑った。
「もう家には帰れないと思いました」
その時だった。
暗い森の中へ、小さな光が現れた。
一つ。
二つ。
それから、いくつもの光が木々の間から集まってきた。
「妖精さんたちでした」
ピクが蝶を追うのをやめ、ピーチの隣へ戻ってきた。
「妖精?」
「はい。今のピクさんたちよりも、少し姿が薄く見えました。でも、確かに妖精さんでした」
妖精たちは、動けないピーチの周りへ集まった。
大きな葉に雨水をため、何人かで運んでくれた。
葉の端を傾け、少しずつ口へ水を流してくれたという。
「水を運んだの?」
「はい」
「えらい!」
ピクが自分のことのように胸を張った。
「それから、身体が温かくなる花びらを持ってきてくれました」
「そんな花があるんでしょうか」
ローズが尋ねる。
「当時の私は、花の名前までは分かりませんでした。けれど、胸や手の上へ花びらを置いてくれると、少しだけ寒さが和らいだんです」
妖精たちは夜の間、ずっとそばにいた。
小さな声で話しかけてくれた。
震える指を、何人もの小さな手で握ってくれた。
何を言っているのか、幼いピーチには分からなかった。
それでも、自分を励ましてくれていることだけは伝わった。
「眠ってしまっても、目を覚ますたびに妖精さんたちがいました」
「置いていかなかったんだね」
「はい。一度も」
雨が止み、朝になると、妖精たちはピーチの前を飛び始めた。
ついてくるように何度も振り返る。
ピーチは木へ手をつきながら立ち上がり、その光を追いかけた。
「何度も転びました。途中で動けなくなりそうにもなりました。でも、妖精さんたちは待っていてくれました」
やがて森の中に、人が通る道が見えた。
そこまでたどり着いたところで、家族や捜索に来た大人たちに発見された。
「助かったんだ」
「はい」
ラベンダーが安心したように息を吐く。
ピーチは静かに頷いた。
「ですが、妖精さんたちのことを話しても、誰も信じてくれませんでした」
「どうして?」
ピクが首を傾げる。
「熱で夢を見たのだろう、と言われました」
「夢じゃないよ!」
ピクが声を上げる。
「妖精、いたよ!」
「はい。私もそう言いました」
だが、大人たちは笑うだけだった。
森の中で一人になり、熱を出していたのだから、幻を見てもおかしくない。
水を飲んだのも、たまたま葉へ溜まっていた雨水だったのだろう。
人の通る道へ出られたのも、偶然だったのだろう。
誰も、妖精の存在を信じなかった。
「私だけは覚えています」
ピーチの声が、少しだけ強くなる。
「妖精さんたちの声も、私の指を握ってくれた小さな手の温かさも」
胸元の小瓶を包むように、ピーチが手を重ねた。
「あの日、妖精さんたちがいなければ、私は帰れませんでした」
森の中へ、ピーチの足音が静かに響く。
「だから今度は、私が妖精さんたちの役に立ちたいんです」
「それで錬金術師になったのか?」
「はい」
ピーチは微笑んだ。
「妖精さんにもう一度会えた時、助けてもらったお礼ができるように、薬の作り方を学びました」
幼い頃から、薬草の本を読んだ。
大人になってからは錬金術を学び、森に工房を構えた。
けれど、どれほど森を探しても妖精の姿は見えなかった。
「それでも、いつか会えると思っていたんです」
そしてある日、森の草の上に、小さな血の跡を見つけた。
近くには、羽のような淡い光も落ちていた。
姿は見えなかったが、ピーチは傷ついた妖精がいるのだと思った。
「その時、人間用の薬を使ってもよいのか分かりませんでした」
「身体が小さいから?」
「それもあります。ですが、大きさだけではありません」
ピーチは胸元から小瓶を一本抜いた。
「人間と妖精では、魔力の巡り方も違うはずです。人間用の薬を薄めただけでは、強すぎたり、反対に全く効かなかったりするかもしれません」
「だから、妖精専用の薬を作ろうとしたんですね」
「はい」
ピーチは小瓶を元へ戻した。
「いつかまた傷ついた妖精さんを見つけた時、今度は何もできずに見送らなくて済むように」
その研究を始めてから、工房では不思議なことが増えた。
置いたはずの材料が、少しだけ動いている。
机の上に、小さな花が置かれている。
一人で作業していても、誰かが近くにいるような気がする。
ピーチは妖精かもしれないと思っていた。
けれど、姿は見えなかった。
薬へ花や粉を入れて手伝っていることにも気づかなかった。
「ようやく会えた妖精さんたちは、ずっと私の近くにいてくれました」
ピーチが恥ずかしそうに笑う。
「それなのに、私は今まで気づけなかったんです」
ピクがピーチの肩へ飛び乗った。
「でも、もう見えるよ!」
「はい」
ピーチは丸眼鏡の奥で目を細める。
「今度こそ、妖精さんたちのための薬を完成させます」
「きっと完成します」
ローズが優しく答える。
「私たちも手伝いますから」
「うん。一人じゃないよ」
ラベンダーも頷いた。
ピーチは俺たちを順番に見た。
少しだけ驚いたような顔をしたあと、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「まだ素材も採れていないけどな」
「それでもです」
ピーチは顔を上げた。
「一人で何度も挑んで、諦めかけていましたから」
「今日は一人じゃない」
「ああ」
俺も答える。
「妖精露草を採って、薬を完成させよう」
「はい」
ピーチの返事には、迷いがなかった。
それからさらに森の奥へ進んだ。
道は次第に細くなり、木々の間隔も狭くなっていく。
鳥の声が少なくなった。
虫の羽音も、ほとんど聞こえない。
「静かだね」
ラベンダーが足を止める。
「この辺りから、いつも生き物が減るんです」
ピーチが地図を確認する。
「《妖精露草》が生える森は、もう近いはずです」
再び歩き始める。
しばらくすると、木々の間へ白いものが見え始めた。
最初は、朝靄が残っているのかと思った。
だが、近づくほど白さは濃くなっていく。
やがて、俺たちは森の境目へたどり着いた。
その先は、すべて白い霧に包まれていた。
地面も、木の幹も、数歩先までしか見えない。
霧は森の奥から流れ続け、低い場所へ溜まっている。
「ここです」
ピーチが地図を見つめる。
「《妖精露草》が生える場所は、この森の中です」
「ずいぶん霧が濃いな」
俺が一歩前へ進もうとした時だった。
「待って」
先頭にいたラベンダーが、片手を上げた。
耳がぴんと立ち、鼻が小さく動いている。
「どうした?」
「何か、おかしい」
ラベンダーは霧の手前でしゃがみ込んだ。
地面や木の幹を確かめる。
「動物の匂いはする。でも、動いている気配がない」
「魔物は?」
「いると思う。でも、鳴き声も足音も聞こえない」
ローズが杖を握る。
「霧に何か含まれているのでしょうか」
「調べてみます」
ピーチが鞄から布を取り出し、口元を覆った。
「近づきすぎるなよ」
「はい」
俺たちも警戒しながら霧へ近づく。
まだ森の中へは入っていない。
霧の端へ、一歩近づいただけだった。
それだけで、急にまぶたが重くなった。
「……なんだ?」
頭の中に、ぼんやりとした膜がかかったような感覚が広がる。
身体から力が抜けた。
剣を握る手まで重くなる。
隣にいたローズが杖へ寄りかかった。
「急に……眠気が……」
「下がって!」
ラベンダーの声が響く。
俺たちは慌てて後ろへ下がった。
霧から距離を取る。
数十歩離れたところまで戻ると、少しずつ頭の重さが消えていった。
「大丈夫?」
「ああ。まだ少し身体が重い」
「私もです」
ローズが額へ手を当てる。
ラベンダーも目を何度か瞬いていた。
「匂いを嗅いだだけで、意識が遠くなりそうだった」
ピーチは布で口元を覆ったまま、白い霧を見つめている。
地面へ落ちていた葉を拾い、小さな瓶へ入れた。
さらに金属製の筒を取り出し、霧の近くへ差し出す。
筒の中へ白い霧が入る。
蓋を閉めると、ピーチは少し離れた場所へ移動した。
「何をしているんだ?」
「霧に含まれている成分を確認します」
ピーチは筒の中へ数滴の液体を垂らした。
透明だった液体が、ゆっくりと青紫色へ変わっていく。
ピーチの表情が険しくなった。
「どう?」
ラベンダーが尋ねる。
「この霧には、眠りを誘う作用があります」
「やっぱりか」
「吸い込み続ければ、身体の力が抜け、最後には意識を失うと思います」
「少し近づいただけで、あれほどの眠気でした」
ローズが白い森を見つめる。
「中へ入れば、すぐに動けなくなるかもしれませんね」
「はい」
ピーチが頷いた。
「口元を布で覆うだけでは防げません。霧は皮膚や目からも少しずつ入り込む可能性があります」
「じゃあ、このままじゃ入れないね」
ラベンダーの言葉に、誰もすぐには答えられなかった。
森は目の前にある。
《妖精露草》も、この白い霧の向こうにある。
けれど、数歩近づいただけで身体が動かなくなりかけた。
そのまま進めば、魔物と戦う前に全員が眠ってしまう。
俺はピーチを見る。
「何か方法はあるか?」
ピーチは白い霧を見つめたまま、考え込んでいた。
やがて、胸元の小瓶へ手を添える。
「すぐには分かりません」
ピーチは正直に答えた。
「ですが、眠りの作用があると分かったなら、対策できる可能性はあります」
「薬で?」
「はい」
ピーチは革鞄を開き、中に入っている薬草や道具を確かめた。
「霧の影響を弱める薬を考えます」
その声には、迷いがなかった。
妖精のための薬を完成させるために、何度も一人で挑み続けた錬金術師。
今度は一人ではない。
白い霧に包まれた森を前に、ピーチは静かに丸眼鏡を押し上げた。




