第32話 妖精のポスト
朝になっても、《スキル図鑑》は淡い光を放ち続けていた。
昨日、ローズの部屋が完成した直後に四十個目の技能が登録された。
けれど、その時は報酬を確認しなかった。
ローズの初めての「ただいま」を、別のことで途切れさせたくなかったからだ。
「ミント、そろそろ見てもいいんじゃない?」
ラベンダーが、机の上に置かれた図鑑を覗き込む。
「私も気になります」
ローズも新しくできた自分の部屋から出てきた。
朝から本棚へ本を並べていたらしく、腕にはまだ二冊の本を抱えている。
「よく眠れたか?」
「はい」
ローズは少し照れたように微笑んだ。
「目を覚ました時、どこにいるのか一瞬分かりませんでした」
「知らない場所みたいだった?」
「いいえ。自分の部屋があることに、まだ慣れていなかっただけです」
そう言いながら、ローズは嬉しそうに自分の部屋を振り返った。
その様子を見てから、俺は《スキル図鑑》を開いた。
【《スキル図鑑》40/100】
【40%コンプリート報酬を解放します】
開いたページから金色の光が溢れ出す。
光は図鑑の上で小さく集まり、一枚の絵を形作った。
赤い屋根。
木で作られた小さな箱。
正面には、妖精の羽をかたどった飾りがついている。
【《妖精のポスト》を獲得しました】
「ポスト?」
ラベンダーが首を傾げる。
「手紙を入れる箱でしょうか」
「たぶんな」
次の瞬間、家の外から小妖精たちの声が聞こえた。
「なんか出たー!」
「赤い屋根ー!」
「箱があるー!」
俺たちは急いで外へ出た。
庭の入口近くに、さっき図鑑へ描かれていた物と同じポストが立っていた。
人間が使う物より少し小さい。
腰ほどの高さの木製の柱に、両手で抱えられるくらいの箱が載っている。
丸みのある赤い屋根。
正面には白い羽の模様。
扉の取っ手には、小さな鈴が結ばれていた。
「かわいい!」
ピクが屋根の上へ飛び乗る。
「ピクたちのお家みたい!」
「入るための家じゃないぞ」
「入れるかな?」
「試すなよ」
小妖精たちは興味津々で、投入口を覗き込んだり、屋根へ寝転がったりしている。
俺は図鑑へ戻り、報酬の説明を確認した。
【《妖精のポスト》】
【近くに暮らす妖精から、手紙が届くことがあります】
【助けを求める声や、伝えたい想いが手紙となって届けられます】
【手紙には、送り主の知る場所が示されます】
「近くの妖精と手紙をやり取りできるのか」
「妖精は文字を書けるの?」
ラベンダーが尋ねる。
「書ける子もいるよ!」
ピクが胸を張る。
「書けない子もいるけど!」
「書けない場合はどうするんでしょう」
「気持ちが手紙になるんじゃないか?」
説明には、想いが手紙になると書かれていた。
文字を書けない妖精でも使えるのかもしれない。
「まだ何も入ってないね」
ラベンダーがポストの扉を開く。
中は空だった。
「今できたばかりだからな」
「誰かから届くかな?」
ピクはわくわくした様子で、ポストの前を飛び回る。
「お手紙ほしい!」
「困っている妖精がいない方がいいだろ」
「そっか!」
ピクは納得したように頷いた。
その直後。
ちりん。
ポストの取っ手についた鈴が、小さく鳴った。
全員の動きが止まる。
「……今、鳴ったよね?」
「ああ」
風は吹いていない。
誰もポストには触れていなかった。
ちりん。
もう一度、鈴が鳴る。
「手紙だー!」
ピクが扉へ飛びついた。
「待て。俺が開ける」
小妖精たちを少し離れさせ、ゆっくりと扉を開く。
さっきまで空だった中に、折り畳まれた一枚の葉が入っていた。
大きな葉を二つに折り、その周囲を細い草の茎で結んである。
表面には、桃色の花びらが一枚貼りつけられていた。
「これが手紙?」
「みたいだな」
葉を取り出すと、ほんのり甘い匂いがした。
草の茎を解き、葉を広げる。
内側には、細い光の線で何かが書かれている。
だが、人間の文字ではない。
「読めないな」
「妖精文字です」
ローズが覗き込む。
「私も詳しくは読めません」
「ピクは?」
「読めるよ!」
ピクが葉の上へ降りる。
光る文字を、指で一つずつなぞった。
「えっとね……」
いつも元気なピクの声が、少しずつ小さくなる。
「どうした?」
「この子、困ってる」
ピクは手紙を見つめたまま読み始めた。
「ピーチが、また泣いてる」
「お手伝いしたのに、お薬が変になった」
「きれいなお花も入れた」
「きらきらの粉も入れた」
「でも、ピーチが元気にならない」
「どうしたらいいの?」
手紙の最後には、光る点が何度も重ねられていた。
涙を表しているようにも見える。
「ピーチって、人の名前かな」
ラベンダーが言う。
「たぶんな」
「妖精たちは、薬作りを手伝ったつもりのようですね」
ローズが手紙を覗き込む。
「ですが、決められた材料以外の物を入れれば、薬は失敗します」
「きれいなお花を入れたら、よくならないの?」
ピクが不思議そうに尋ねる。
「薬は、きれいかどうかではなく、決まった分量が大切なんです」
「きらきらの粉は?」
「それが何の粉なのかにもよります」
「じゃあ、よくなかった?」
「おそらくは」
ピクはしょんぼりと羽を下げた。
「でも、手伝いたかったんだよ」
「分かっています」
ローズは責めることなく答えた。
「だからこそ、きちんと伝えなければいけません」
手紙へ指を触れると、光の文字が揺れた。
そして葉の端へ、ぼんやりとした景色が浮かび上がる。
森。
背の高い木々。
細い川。
川の向こうにある、小さな煙突つきの建物。
さらに景色の下には、ここからその場所までを示すように、一本の光の線が伸びていた。
「場所も分かるみたいだね」
「それほど遠くはなさそうだ」
妖精の家を出た場所から、森の奥へ向かう方角が示されている。
「行こう」
俺が言うと、ラベンダーもすぐに頷いた。
「うん。薬に何を入れたのか、ちゃんと聞かないとね」
「ピーチという方も心配です」
「ピクも行く!」
「もちろんだ」
俺たちは妖精の家を出た。
光の扉が消えたあとも、葉の手紙には道を示す線が残っている。
線が指す方角へ進む。
森の中を流れる細い川を見つけ、その流れに沿って歩いた。
それほど時間はかからなかった。
木々の隙間から、薄い紫色の煙が上がっているのが見えた。
「煙だ」
「火事の匂いではないね」
ラベンダーが鼻を動かす。
「甘い匂いと……薬草かな。それから、何か焦げてる」
「急ごう」
煙の方へ向かう。
森の中に、小さな木造の工房が建っていた。
壁には乾燥させた薬草が束になって吊るされている。
窓辺には色とりどりの瓶。
煙突からは紫色の煙が何度も噴き出していた。
その時。
ぼんっ!
工房の中から、鈍い爆発音が響いた。
「きゃあっ!」
続いて、若い女性の悲鳴。
俺は扉へ駆け寄った。
「大丈夫か!」
返事を待たずに扉を開く。
中は紫色の煙でいっぱいだった。
机の上には、薬草、木の実、鉱石の粉末、大小さまざまな瓶が散乱している。
床には緑色の液体がこぼれ、鍋からは桃色の泡が溢れていた。
その中心に、一人の女性が立っていた。
年齢は俺たちと大きく変わらないように見える。
柔らかそうな桃色の髪は肩の辺りまで伸びていて、毛先がふんわりと内側へ跳ねていた。
長い前髪の隙間から、同じ桃色の眉が覗いている。
顔には丸い眼鏡。
けれど今は片方のレンズが紫色の液体で汚れ、曇っていた。
大きな瞳も桃色に近い赤紫色で、眼鏡の奥から驚いたようにこちらを見ている。
頬には黒い煤。
白い肌へ、指でなぞったような跡がついている。
身につけているのは、膝まである薄茶色の作業着と、薬品の染みがいくつもついた白いエプロン。
胸元には小瓶を入れるための革帯があり、腰には薬草を切る小さなナイフと、細い匙が何本もぶら下がっている。
爆発に巻き込まれた直後なのに、髪へついた小さな花びらのせいで、妙に可愛らしく見えた。
「ど、どなたですか?」
女性は丸眼鏡を押さえながら後ずさった。
「手紙をもらった」
「手紙?」
「妖精からだ」
その言葉を聞いた瞬間、女性の表情が変わった。
「妖精……?」
さっきまで警戒していた瞳が、大きく見開かれる。
「今、妖精とおっしゃいましたか?」
「ああ」
ピクが俺の肩から顔を出した。
「ピーチ?」
女性は固まった。
眼鏡の奥の目が、さらに大きくなる。
唇が小さく震えた。
「……見える」
「見えるの?」
「妖精が……本当に……」
ピクが女性の顔の前まで飛んでいく。
「ピーチだよね?」
「は、はい」
「お手紙きたよ!」
「私に?」
「ピーチが泣いてるって!」
「泣いてはいません!」
ピーチは慌てて否定した。
だが、目元は少し赤い。
机の上には何度も失敗したらしい薬瓶が並んでいる。
「手紙には、妖精たちがお前の薬へ花や粉を入れたと書いてあった」
「……え?」
ピーチはゆっくり鍋を見る。
桃色の泡が、まだ小さく弾けている。
「お花を?」
「きれいだから入れたって」
「きらきらの粉も」
「もっとよくなると思ったんだよ!」
工房の隅から、小さな声が聞こえた。
見ると、棚の陰や薬草の束の後ろから、小妖精たちが顔を出している。
俺たちが来るまで隠れていたらしい。
「ピーチ、がんばってた」
「元気になるお薬、作ってた」
「だからお手伝いしたの」
「ピーチが喜ぶと思った」
ピクが、その言葉を一つずつピーチへ伝える。
ピーチは呆然と立ち尽くした。
やがて、目に涙が溜まっていく。
「私のために……?」
「そうだよ!」
「ピーチ、好き!」
「お薬の匂い、好き!」
「甘いのも好き!」
「最後のは薬の話じゃないな」
俺が言うと、ラベンダーが小さく笑った。
ピーチは涙を拭うことも忘れ、妖精たちを見つめている。
「ずっと、何かがいるような気はしていました」
震える声で話し始める。
「材料を置いた場所が少し変わっていたり、机の上に小さな花が置かれていたり……」
「怖くなかったの?」
ラベンダーが尋ねる。
「いいえ」
ピーチは首を横に振った。
「悪いものではないと思っていました。むしろ、一人で作業している時も、誰かが近くにいてくれるような気がして……」
ピーチは棚の陰にいる妖精へ、そっと手を伸ばした。
妖精は少し迷ったあと、その指先へ両手で触れる。
「ですが、まさか薬に材料を足していたとは思いませんでした」
「怒ってる?」
妖精が不安そうに尋ねる。
ピクが通訳する。
ピーチはすぐに首を横へ振った。
「怒っていません」
「ほんと?」
「はい。私を助けようとしてくれたのでしょう?」
「うん!」
「でも、薬は決めた物だけを入れなければならないんです」
「お花も?」
「お花もです」
「きらきらの粉も?」
「何の粉か分からない物は、特に入れてはいけません」
「はーい……」
妖精たちは少し残念そうに返事をした。
「怒らないんだな」
「怒れません」
ピーチは、指へ触れている妖精を優しく見つめる。
「こんなに可愛い子たちが、私のためにしてくれたのですよ?」
「薬は全部失敗したみたいだけど」
「それとこれとは別です」
ピーチは真剣な顔で答えた。
「可愛いものは可愛いです」
俺はラベンダーと顔を見合わせた。
かなり妖精が好きらしい。
「それで、何の薬を作っていたんだ?」
俺が尋ねると、ピーチの表情が少し曇った。
「妖精のための薬です」
「妖精の?」
「はい」
ピーチは机の端へ置かれた、小さな透明瓶を手に取った。
人間が使うには少なすぎる量しか入らない瓶だ。
「以前、この森で羽を傷つけた妖精らしき存在を見つけました」
「らしき?」
「その時の私には姿が見えませんでしたから」
ピーチは瓶を両手で包む。
「草の上に小さな血の跡がありました。羽のような光も落ちていました。ですが、人間用の薬では強すぎるかもしれません。小さな身体に、どれほど使えばいいのかも分からない」
「それで妖精用の薬を?」
「はい。妖精が本当にいるなら、いつか必要になると思って」
工房の妖精たちが、一斉にピーチへ抱きついた。
「ピーチー!」
「だいすきー!」
「お薬作ってくれてたー!」
何人もの妖精に頬や髪へ抱きつかれ、ピーチは完全に動きを止めた。
頬がみるみる赤くなっていく。
「か、可愛い……」
眼鏡が少しずり落ちる。
「こんなに近くに……こんなにたくさん……」
「大丈夫か?」
「今、人生で一番幸せです」
真顔だった。
「ただ、薬はまだ完成していません」
ピーチは名残惜しそうに妖精たちを見ながら続ける。
「必要な素材が一つ、手に入らないんです」
「どんな素材だ?」
「森のさらに奥に咲く、《妖精露草》です」
ピーチは一冊の古い本を開いた。
そこには、葉の先に丸い雫を宿した、白い草の絵が描かれている。
「妖精の身体へ馴染む薬を作るには、この草から採れる雫が必要です」
「採りに行かなかったの?」
ラベンダーが尋ねる。
「何度か行きました」
ピーチは苦笑する。
「ですが、《妖精露草》が咲く場所には魔物が多く、一人では近づけませんでした」
「それで薬が完成しないままか」
「はい」
ピーチは悔しそうに唇を結んだ。
「妖精たちがここにいると分かった以上、諦めたくありません」
「だったら、俺たちが手伝う」
俺が言うと、ピーチが顔を上げた。
「ですが、皆さんには関係のないことです」
「妖精のためなんだろ?」
「はい」
「なら関係ある」
ピクも大きく頷いた。
「妖精のため!」
「みんなで行くー!」
ラベンダーも笑う。
「一人で無理なら、一緒に行けばいいよ」
「《妖精露草》の詳しい性質は、私も調べられるかもしれません」
ローズが本を覗き込む。
ピーチは俺たちを順番に見た。
「本当に、手伝ってくださるのですか?」
「ああ」
「その前に、一度見せたい場所がある」
俺は《スキル図鑑》を開いた。
光の扉が現れる。
「この中なら、妖精たちとも落ち着いて話せる」
「この扉は……?」
「《妖精の家》だ」
ピーチは、その名前を聞いただけで眼鏡の奥の瞳を輝かせた。
扉をくぐる。
庭へ入った瞬間、ピーチは立ち止まった。
花畑。
澄んだ泉。
赤茶色の屋根の家。
妖精工房。
そして庭中を飛び回る、数えきれないほどの小妖精たち。
「新しい人ー!」
「桃色ー!」
「眼鏡ー!」
「お薬の匂いするー!」
妖精たちが一斉に集まってくる。
肩。
頭。
両腕。
エプロンのポケット。
あっという間に、ピーチの全身が妖精だらけになった。
「これは……」
ピーチの唇が震える。
「ここは……本当に現実ですか?」
「現実だよ!」
ピクが答える。
「妖精のお家!」
「妖精の楽園……」
ピーチは両手で眼鏡を押さえた。
そのまま、ゆっくり俺へ振り返る。
「私、ここに住みます」
「早いな」
「今、決めました」
「まだ妖精露草を採りに行く話の途中だぞ」
「それも行きます」
ピーチは妖精を肩へ乗せたまま、真剣な顔で頷いた。
「薬も完成させます。皆さんのお役にも立ちます。掃除も料理もします」
「料理はできるのか?」
「薬草茶なら得意です」
「料理ではないね」
ラベンダーが笑った。
ピーチは少しだけ恥ずかしそうに頬を染めた。
桃色の髪へ妖精が花を差し込む。
もう一人の妖精は、ずり落ちた丸眼鏡を両手で押し上げていた。
「似合うー!」
「かわいいー!」
「ピーチ、ここに住むー?」
「住みます」
即答だった。
俺は思わず笑ってしまった。
「まずは《妖精露草》を採りに行こう」
「はい」
ピーチは妖精たちに囲まれながら、嬉しそうに笑った。
「妖精のためなら、私も何でもします」
「それなら決まりだな」
俺はピーチへ手を差し出した。
「一緒に行こう」
ピーチは少し驚いたあと、その手をしっかりと握った。




