第3話 ラベンダー
森の中に、少女が倒れていた。
灰色の髪。
その頭には、髪と同じ色の獣耳がある。
腰のあたりから伸びているのは、細い尻尾だ。
「獣人……」
俺は剣の柄へ手を置いたまま、少女の周囲を見回した。
近くに魔物の姿はない。
茂みが不自然に揺れている様子もなかった。
「ピク。何かいるか?」
俺の隣を飛んでいたピクが、辺りを見回す。
「今は何もいないよ」
「今は、か」
「血の匂いはするけど、魔物の匂いは遠くなってる」
襲った魔物は、すでに立ち去ったらしい。
俺は剣から手を離し、少女のそばへ膝をついた。
「おい。聞こえるか?」
肩を軽く揺らす。
反応はない。
額には汗が浮かび、呼吸も浅かった。
右脚の服が大きく裂けている。
その下には、何かに噛まれたような深い傷があった。
血は止まりかけているが、傷の周りが赤黒く腫れている。
「ひどい傷……」
ピクが少女の脚を見て、顔を曇らせる。
俺は少女の首筋へ指を当てた。
脈はある。
だが、弱い。
「このままだと危ないな」
「妖精の家に連れていこうよ」
「この子も中に入れるのか?」
「ミントが入っていいって思えば、入れるよ」
「そういう仕組みなのか」
「妖精の家はミントの家だからね」
昨日知ったばかりの場所なのに、もう俺の家らしい。
俺は少女の背中と膝の下へ腕を入れ、身体を持ち上げた。
思ったより軽い。
俺と年齢はあまり変わらないように見えるが、身体はかなり痩せていた。
「扉を出してくれ」
「うん!」
ピクが両手を広げる。
木々の間へ淡い光が集まり、妖精の家へ続く扉が現れた。
俺は少女を抱えたまま、その中へ入った。
◇
「泉に入れればいいんだな?」
「うん。傷なら治るよ」
俺は少女を妖精の泉まで運んだ。
服を着たままだが、今は気にしている場合ではない。
右脚から、そっと泉の中へ沈める。
少女の身体が水へ入った瞬間、泉の表面に淡い光が広がった。
「おお……」
赤黒く腫れていた傷が、少しずつ元の色へ戻っていく。
裂けた皮膚がふさがり、流れていた血も消えた。
やがて、あれほど深かった噛み傷は跡形もなくなった。
青白かった少女の顔にも、わずかに血の気が戻っている。
「すごいな、この泉」
「妖精の泉だからね!」
ピクが得意そうに胸を張った。
自分が治したわけではないが、細かいことは言わないでおく。
「でも、起きないな」
傷は治った。
それでも少女は目を閉じたままだ。
「すごく疲れてるのかも」
「腹も減ってそうだな」
頬は少しこけている。
何日もまともに食べていないのかもしれない。
俺は少女を泉から抱き上げた。
濡れた服から水が落ちる。
寝台へ運ぶと、小さな妖精たちが布を持ってきてくれた。
身体の水気を拭き、毛布をかける。
呼吸は先ほどより穏やかになっていた。
「これなら、しばらく眠らせておけば大丈夫そうだ」
「よかったね」
「ああ」
目を覚ましたとき、食べる物も必要だろう。
昨日倒した牙猪の肉が残っている。
「肉を焼くか」
「お肉!」
ピクだけでなく、周りの妖精たちまで一斉に声を上げた。
「お前たちは食べるのか?」
「食べないよ」
「じゃあ、どうして喜んだ」
「焼いてるところを見るのが好き!」
「変わってるな」
家の中には、小さな炉がある。
その横には薪と乾いた草も置かれていた。
だが、当然ながら火はついていない。
俺は荷物から火打ち石を取り出した。
「それ、知ってる!」
ピクが火打ち石を指さす。
「火の起こし方を知っているのか?」
「知ってるよ!」
周りの妖精たちも頷いた。
一人の妖精が両手に石を持つ真似をして、何度も腕を打ち合わせる。
別の妖精は、頬を膨らませて息を吹く真似をした。
「……見たことがあるだけだな?」
「ちゃんと覚えてるよ!」
「やり方を教えられるわけじゃないだろ」
妖精たちは、人間の動きを真似できる。
だが、その意味まで理解しているわけではないらしい。
俺は炉の中へ乾いた草を置いた。
火打ち石を打ち合わせる。
硬い音とともに火花が散った。
だが、草には火がつかない。
「ぴっ!」
小さな妖精たちが、俺の動きを一斉に真似した。
「分かってる。今やってる」
もう一度。
火花が飛ぶ。
今度も失敗した。
さらに打ち合わせる。
乾いた草の端から、細い煙が上がった。
「ついたか?」
俺は急いで顔を近づけ、息を吹きかけた。
煙が消えた。
「……消えたね」
「見れば分かる」
一人の妖精が、頬を大きく膨らませて息を吐く真似をする。
周りの妖精たちが笑い始めた。
「何がおかしい」
俺が睨むと、さらに笑い声が大きくなる。
今度は別の妖精が、眉間にしわを寄せて俺の顔を真似した。
「似てないぞ」
「きゃははは!」
「笑うな」
火打ち石を打つ。
失敗する。
煙が出る。
息を吹きすぎて消える。
それを何度も繰り返すたび、妖精たちは俺の動きを覚えて真似した。
「失敗したところまで覚えなくていい」
「ぴぴっ!」
「今のは絶対に笑っただろ」
何度目かも分からなくなったころ。
火花が乾いた草の中心へ落ちた。
細い煙が上がる。
今度は強く吹かず、ゆっくりと息を送った。
赤い火種が広がる。
やがて、小さな炎が生まれた。
「ついた……」
その瞬間、目の前へ淡い文字が浮かぶ。
【《火起こし》を登録しました】
【スキル図鑑 六/百】
「増えた!」
ピクが嬉しそうに叫んだ。
小さな妖精たちも、火の周りを飛び回る。
「火を起こしただけでも登録されるのか」
「ミント、前にも何度かやってたでしょ?」
「ああ。野営のときにな」
「何度もやって、ちゃんとできるようになったから、ミントの力になったんだよ」
今回一度成功しただけで、急に身についたわけではないらしい。
今までの経験が積み重なり、図鑑へ登録されたのだろう。
俺は牙猪の肉を切り分け、塩を振った。
串へ刺し、火へかける。
脂が落ち、じゅうっと音が鳴った。
香ばしい匂いが、家の中へ広がっていく。
「いい匂い!」
「食べないのに分かるのか?」
「匂いは分かるよ」
ピクが肉の周りを飛び回る。
「近づきすぎると羽が焼けるぞ」
「焼けないもん」
「試すなよ」
肉の表面が焼け始めたころ、背後で布の擦れる音がした。
振り返る。
寝台の上で、少女が目を開けていた。
◇
「目が覚めたか」
俺が声をかけた瞬間、少女の灰色の耳が立った。
毛布を跳ね上げ、勢いよく身体を起こす。
右手が腰へ伸びた。
だが、そこに武器はない。
「落ち着け」
「……ここは?」
「妖精の家だ」
「妖精……?」
少女は眉を寄せた。
俺と部屋の中を交互に見ている。
「森で倒れていた。脚にひどい傷があったから、ここへ運んだ」
少女は自分の右脚へ目を向けた。
裂けた服の隙間から、傷の消えた肌が見えている。
何度か脚を動かし、本当に治っていることを確かめた。
「あなたが治したの?」
「治したのは妖精の泉だ」
「泉?」
「あとで説明する」
少女の目が鋭くなる。
「私の弓は?」
「外で見つけた。壊れてはいなかったから、入口の近くに置いてある」
「……そう」
まだ警戒している。
当然だろう。
目を覚ましたら、知らない男の家にいたのだから。
俺は焼けた肉を火から外した。
「一緒に食うか?」
「いらない」
返事は早かった。
その直後。
少女の腹から、小さな音が鳴った。
部屋が静かになる。
ピクが少女を見る。
小さな妖精たちも、一斉に少女の腹へ視線を向けた。
「……」
少女の耳が伏せる。
次の瞬間、妖精たちが笑い始めた。
「きゃははは!」
「ぴぴっ!」
「笑うな」
俺が言うと、妖精たちは口を両手で押さえた。
押さえながら、まだ笑っている。
俺は焼いた肉を木皿へ載せ、少女の近くへ置いた。
「毒は入ってない」
「そんなこと、聞いてない」
「食べたくなったら食べろ」
俺は自分の分を手に取り、先にかじる。
塩しか使っていないが、焼きたてなら十分うまい。
少女はしばらく肉を見つめていた。
やがて、ゆっくりと木皿へ手を伸ばす。
一口だけかじる。
警戒するように噛んでいたが、すぐに二口目を食べた。
「熱いから気をつけろ」
「分かってる」
そう答えながら、食べる速度は少しずつ上がっていく。
よほど腹が減っていたらしい。
俺は何も言わず、自分の肉を食べた。
ピクたちは、少女が食べる姿を珍しそうに眺めている。
少女が肉を半分ほど食べたところで、顔を上げた。
宙を飛ぶピクと目が合う。
「……妖精?」
「そうだよ!」
ピクが嬉しそうに少女の前まで飛んでいく。
少女は驚き、少し身体を引いた。
「本物……」
「私はピク!」
「……喋った」
「喋るよ!」
小さな妖精たちも集まってくる。
少女の耳や尻尾を、興味深そうに見つめていた。
「耳がふわふわ!」
「尻尾もある!」
「勝手に触ったら駄目だよ」
ピクが小さな妖精たちを止める。
俺は少女へ向き直った。
「俺はミントだ」
少女はしばらく黙っていた。
こちらを信用していいのか、考えているようだった。
やがて、小さな声で答える。
「……ラベンダー」
「ラベンダーだね!」
ピクが嬉しそうに名前を繰り返した。
ラベンダーは妖精たちへ視線を向ける。
先ほどより、ほんの少しだけ警戒が薄れているように見えた。
肉を食べ終えると、ラベンダーは木皿を置いた。
「もう帰る」
「帰るって、どこへ?」
「森の奥」
「村があるのか?」
ラベンダーは首を横に振る。
「一人で暮らしてる」
「一人で?」
「小屋がある」
それだけ言うと、寝台から立ち上がった。
だが、一歩踏み出したところで身体が傾く。
俺は反射的に肩を支えた。
「触らないで」
「なら倒れるな」
「傷は治ってる」
「傷だけだろ。まだ身体に力が戻ってない」
「帰れる」
「さっきまで森で倒れていた奴の言葉は信用できない」
ラベンダーが俺を睨む。
灰色の耳も、警戒するように立っていた。
「家に戻らないと」
「分かった。送っていく」
「いらない」
「また途中で倒れられたら困る」
「あなたには関係ない」
「助けた相手が、すぐ近くでまた倒れたら後味が悪い」
ラベンダーはしばらく黙っていた。
断っても俺がついてくると分かったのだろう。
「……勝手にして」
「私も行く!」
ピクが手を挙げる。
「遊びに行くんじゃないぞ」
「分かってるよ。ラベンダーのお家を見に行くの!」
「それを遊びに行くと言うんだ」
◇
妖精の家を出ると、ラベンダーは森の奥へ歩き始めた。
足取りはまだ少し重い。
それでも、道には迷わなかった。
目印らしいものは何もないのに、木々の間を迷いなく進んでいく。
「この辺りに長く住んでいるのか?」
「……少し前から」
「一人で?」
「そう」
「食事は?」
「狩りと採取」
「町には行かないのか?」
ラベンダーの耳がわずかに伏せた。
「行かない」
それ以上は話すつもりがないらしい。
俺も無理には聞かなかった。
しばらく進むと、ラベンダーの歩く速度が少し上がった。
「あそこ」
木々の隙間から、小さな屋根が見えた。
ようやく着いたらしい。
だが、ラベンダーは急に足を止めた。
「……うそ」
森の中に、小屋が立っていた。
正確には、小屋だったものが残っていた。
扉は外され、地面へ倒れている。
壁板は何枚も剥がされ、窓も割られていた。
屋根の一部まで崩れている。
毛布や衣服、木の器が外へ放り出され、泥にまみれていた。
ラベンダーが走り出す。
「おい、待て!」
俺もそのあとを追った。
ラベンダーは倒れた扉の前で立ち止まる。
小屋の中を見渡したまま、動かない。
「魔物に襲われたのか?」
俺は周囲を調べる。
すぐに、その考えが間違いだと分かった。
小屋の前のぬかるんだ地面に、いくつもの足跡が残っている。
獣のものではない。
靴の跡だ。
一人ではない。
何人もの人間が、小屋の周囲を歩き回っていた。
地面には干し肉や木の実が散らばっている。
食べられた形跡はない。
泥の中へ捨てられ、何度も靴で踏みつけられていた。
「人間がやったのか」
ラベンダーは答えなかった。
壊された小屋を見つめたまま、動かない。
「誰にやられた?」
「……分からない」
返事は早かった。
「心当たりは?」
「ない」
「前にも何かあったのか?」
「何もない」
どれも短い。
こちらを見ようともしない。
知らないのではない。
話したくないのだ。
ラベンダーは倒れた扉へ手をかけた。
起こそうとするが、まだ力が戻っていないのか、扉はほとんど動かなかった。
「何をしてる?」
「戻す」
「扉だけ戻しても住めないだろ」
「私の家だから」
ラベンダーはもう一度、扉を持ち上げようとした。
その手が震えている。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
表情からは分からなかった。
ピクが俺の肩の近くへ飛んでくる。
いつもなら騒がしい小さな妖精たちも、今は静かだった。
「ラベンダー」
「なに」
「妖精の家で暮らさないか?」
ラベンダーの手が止まる。
灰色の耳が、ゆっくりとこちらへ向いた。
「……私が?」
「ああ」
「どうして」
「ここには、もう住めないだろ」
「あなたには関係ない」
「そうかもしれない」
ラベンダーは俺を睨んだ。
だが、その顔には先ほどまでの強さがなかった。
「妖精の家には、空いている部屋がある」
「ラベンダーも一緒に住もうよ!」
ピクが明るく言った。
「お庭もあるし、泉もあるよ。小さい妖精もいっぱいいるよ!」
周りの妖精たちも、ラベンダーのそばへ集まってくる。
「一緒に住もう!」
「おいで!」
「楽しいよ!」
ラベンダーは何も答えなかった。
壊された小屋を見る。
それから、俺とピクたちを見る。
長い沈黙のあと、ラベンダーが小さく口を開いた。
「……どうして、私を助けるの?」




