第2話 妖精の庭と、倒れていた少女
身体の痛みは、きれいに消えていた。
牙猪の牙がかすめた脇腹にも、傷跡は残っていない。
盾で突進を受け止めた左腕の痺れもなくなり、鉛のように重かった身体まで軽くなっていた。
「すごいな、この泉……」
俺は水辺にしゃがみ込み、透明な水へ手を伸ばした。
両手ですくおうとする。
だが、水は手のひらに溜まらなかった。
まるで俺の手が存在しないかのように、指も皮膚もすり抜け、そのまま泉へ戻っていく。
「持って帰れないよ」
目の前を飛んでいた妖精が、得意げに胸を張った。
「瓶でも桶でも同じ。外へ持ち出そうとすると、ぜんぶすり抜けちゃうの」
「回復薬として売るのは無理か」
「売るつもりだったの?」
妖精がじっと俺を見る。
小さな顔に、分かりやすく疑いの色が浮かんでいた。
「できるなら、かなり高く売れそうだと思っただけだ」
「この泉は、お金を稼ぐためにあるんじゃないよ」
「分かってる」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
妖精はまだ疑わしそうだったが、やがて納得したように頷いた。
改めて周囲を見渡す。
光の扉をくぐった先にあったのは、家の中ではなかった。
色とりどりの花が咲き乱れる、広い庭だ。
右手には、俺の傷を癒やした妖精の泉。
左手には、まだ何も植えられていない小さな畑。
庭の奥には、赤茶色の屋根を持つ一軒の家が建っている。
白い壁。
木で作られた扉。
窓辺には小さな花が並び、屋根の煙突からは細い煙が上がっていた。
「あれが《妖精の家》か?」
「うん。でも、あの家だけじゃないよ」
妖精は両手を広げ、庭全体を示した。
「この庭も、泉も、畑も、ぜんぶ合わせて《妖精の家》なの」
「ずいぶん広い家だな」
「これでも、まだ小さい方だよ」
「広くなるのか?」
「ミントがいろんなことを覚えたらね」
妖精は楽しそうに笑った。
「畑を広げたり、木を植えたり、作業小屋を建てたり。できることは、まだまだいっぱいあるよ」
「俺が作るのか?」
「もちろん」
「妖精が作ってくれるわけじゃないんだな」
「今は見てるだけ!」
「今は?」
聞き返すと、妖精は両手で口を塞いだ。
「なんでもない!」
どうやら、まだ話せないことがあるらしい。
俺は立ち上がり、服についた水気を払った。
「そういえば、名前を聞いてなかったな」
「ピクだよ」
妖精は自分の胸を指差した。
「ピクシーだから、ピク!」
「そのままだな」
「覚えやすいでしょう?」
「まあな。俺はミントだ」
「知ってるよ」
即答だった。
「どうして俺の名前を知ってる?」
ピクの羽が、ぴたりと止まった。
「それは……持ち主さんの名前だから」
「本当にそれだけか?」
「本当に、それだけ……」
ピクは俺から顔をそらした。
明らかに何かを隠している。
黙って見つめていると、ピクは次第に落ち着かなくなり、ついには観念したように肩を落とした。
「やっぱり、ミントは覚えてないんだね」
「何をだ?」
「昔、森で傷ついた妖精を助けたこと」
記憶を探る。
すぐには思い出せなかった。
「まだ、ミントが小さかったころ」
ピクは自分の羽へ手を伸ばした。
「私は羽を怪我して、飛べなくなってたの。雨も降ってきて、このままじゃ駄目かもしれないって思ってた」
雨。
森。
傷ついた小さな生き物。
ぼんやりとした記憶が、少しずつ形を持ち始める。
「もしかして、木の根元にいた……」
「うん!」
ピクの顔が一気に明るくなった。
「ミントは私を大きな葉っぱの下へ運んで、羽に布を巻いてくれたの。それから、木の実も置いてくれた」
「あれは、お前だったのか」
当時の俺には、それが妖精だとは分からなかった。
手のひらに乗るほど小さく、薄暗い森の中で羽がかすかに光っていたことだけは覚えている。
翌朝、同じ場所へ行ったときには、もう姿を消していた。
「名前まで教えた覚えはないぞ」
「ミントのお母さんが、遠くから呼んでたの」
「そこまで覚えてるのか」
「ずっと忘れてなかったよ」
ピクは少し照れくさそうに笑った。
「でも、《スキル図鑑》がミントを選んだわけじゃないからね」
「分かってる」
「本当に偶然なんだよ。持ち主さんが来たと思ったら、あのとき助けてくれた男の子だったから、私もびっくりしたの」
それなら、話の筋は通る。
俺がピクを助けたから、《スキル図鑑》を得たわけではない。
十五歳のとき、神殿で授かったものが、たまたま《スキル図鑑》だった。
そして三年後。
五つの技能を覚えたことで、ようやく力が目覚めた。
「三年間、何も起きなかったのは、技能が足りなかったからか」
「うん。五つ覚えないと、《妖精の家》への扉は開かないの」
「剣術と盾術は、ずっと前から使えていた。それでも足りなかったんだな」
「見る?」
ピクが目の前を飛びながら尋ねる。
「何を?」
「《スキル図鑑》」
「どうやって出すんだ?」
「心の中で呼んでみて」
言われた通り、俺は意識を集中した。
《スキル図鑑》。
すると、目の前に淡い光が集まった。
一冊の古びた本が現れ、空中で静かに開く。
神殿で授かったときは、何度呼びかけても反応しなかった本だ。
【スキル図鑑 5/100】
【登録済み技能】
《剣術》
《盾術》
《採取》
《野営》
《応急処置》
五つの技能が並んでいた。
剣術も盾術も、自分では大したものではないと思っている。
採取と野営も、一人で安い依頼を受けるために必要だったから覚えただけだ。
応急処置に至っては、牙猪に傷つけられ、生き残るために必死で行ったにすぎない。
それでも、図鑑には確かに記録されている。
「どのくらいできれば、技能として登録される?」
「一度やっただけじゃ駄目だよ」
ピクは開かれた本の縁へ座った。
「何度も練習して、自分の力として使えるようにならないと登録されないの」
「誰かがやっているところを見ただけでも駄目か」
「駄目。知ってるだけじゃなくて、自分でできないと」
「本当に身につけたものだけが記録されるわけか」
「そういうこと!」
百個の技能。
言葉にすれば簡単だが、本当に身につけるとなると相当な時間がかかるだろう。
俺は次のページへ目を移した。
【達成報酬】
5%:《妖精の家》
10%:JOB解放
20%:《信頼の器》
その下にも項目は続いていたが、文字は黒く塗り潰され、読むことができない。
「JOB解放……」
俺はその文字を何度も見返した。
今の俺のJOBは《剣士》。
三年間、毎日剣を振ってきた。
だが、いくら努力しても、才能のある剣士には追いつけなかった。
護衛依頼では選ばれず、冒険者たちからも役に立たないと笑われてきた。
「あと五つ覚えれば、新しいJOBが得られるのか?」
「うん」
「どんなJOBだ?」
ピクは両手で口を押さえた。
「秘密!」
「ピクは知ってるのか」
「知ってるけど、言っちゃ駄目なの」
「少しくらい教えてくれてもいいだろ」
「自分でたどり着いた方が、絶対に嬉しいから」
完全に教える気はないらしい。
俺は諦めて、図鑑を閉じた。
「妖精の家には、俺以外も入れるのか?」
「ミントが許可した人なら入れるよ」
「誰でも?」
「ミントが、本当に入ってもいいと思った人だけ。勝手に入ってくることはできないの」
「許可を取り消すこともできる?」
「できるよ。ここは持ち主さんの家だから」
それなら、将来仲間ができたとしても、一緒に使える。
敵に利用される危険も少ない。
「扉は、いつでも開けられるのか?」
「ううん」
ピクは首を横に振った。
「生きた魔物や、ミントに敵意を持っている人が近くにいると開かないよ」
「戦いの途中で逃げ込むことはできないわけか」
「できない。安全になって、ミントが落ち着かないと駄目」
「魔物から逃げている最中も?」
「駄目。追ってくるものがいなくなるまで開かないよ」
便利ではあるが、万能ではない。
戦う前に扉を開いて逃げ道にしたり、危なくなるたびに泉へ戻ったりはできないらしい。
「外へ出るときに魔物が近くにいたら?」
「扉が開かないよ。外が安全になるまで、ここにいることになるの」
「閉じ込められる可能性もあるのか」
「お腹が空いたら大変だね」
「笑い事じゃない」
「だから、食べ物を置いておくといいよ」
家の奥にあった空の部屋は、食料や素材を保管するためにも使えそうだ。
「ピクたちは、外へ出られないのか?」
「少しだけなら出られるよ」
ピクは自分の羽を見せた。
透き通った羽の中に、淡い光が流れている。
「庭の光を羽に宿している間だけ、ミントの世界へ行けるの」
「どのくらい持つ?」
「そのときによるよ。長くいると羽の光が薄くなって、最後にはここへ戻されるの」
「俺から遠くへ離れられる?」
「そんなに遠くは無理。戦ったり、重い物を持ったりもできないよ」
「魔物が近づいたら?」
「すぐ庭に戻される」
それなら、ピクたちを戦力として頼ることはできない。
採取や釣りを見学する程度なら、一緒に外へ出られるということだろう。
「妖精は、人間の作業を見るのが好きなのか?」
「大好き!」
ピクは勢いよく飛び上がった。
「料理でしょう。木工、釣り、裁縫、鍛冶、畑仕事。それから解体!」
「解体まで好きなのか」
「人が何かを覚えて、少しずつ上手になるところを見るのが好きなの」
「戦うところは?」
「怖いから、あまり好きじゃない」
「さっきの牙猪との戦いは見ていたのか?」
ピクは目をそらした。
「……少しだけ」
「いたのか」
「だって、ミントが死んじゃいそうだったから」
「助けてくれたわけじゃないだろ」
「妖精は戦えないもん」
ピクは頬を膨らませた。
「でも、すごく心配してたの」
「そうか」
心配されることに慣れていない。
それだけで、少し返事に困った。
俺は森に残してきた二頭の牙猪を思い出した。
牙猪は肉が売れる。
牙も素材になる。
毛皮も、状態がよければ防具に使える。
今までは町の解体場まで運び、安い金額で引き取ってもらっていた。
「牙猪の死体は、ここへ持ち込めるか?」
「死んでいる魔物なら大丈夫だよ」
「なら、次に覚える技能は決まった」
「なになに?」
「解体だ」
ピクの顔が輝いた。
「ほんと!?」
「ああ。二頭もいる。練習にはちょうどいい」
「みんな呼んでくる!」
「みんな?」
聞き返したときには、ピクは花畑の奥へ飛んでいってしまった。
◇
俺は一度森へ戻り、牙猪の脚へ縄を結んだ。
二頭を一度に運ぶのは無理だ。
一頭ずつ、扉の前まで引きずっていく。
地面を滑らせれば何とか動かせるが、それでもかなり重い。
一頭目を庭へ運び込んだ時点で、腕が張り始めた。
もう一度森へ戻り、二頭目を運ぶ。
すべて終わった頃には、泉で消えたはずの疲れが戻っていた。
「これだけで一仕事だな……」
牙猪を庭の端へ並べる。
すると、花畑や木々の陰から、小さな光が次々と飛び出した。
一つ。
二つ。
十を超える光が集まり、手のひらよりも小さな妖精の姿へ変わる。
赤い髪の妖精。
青い服を着た妖精。
葉を帽子のようにかぶった妖精。
花びらを服のようにまとった妖精。
どの妖精も、姿が少しずつ違っていた。
小さな妖精たちは牙猪を取り囲み、太い牙を覗き込んだり、硬い毛皮を引っ張ったりしている。
「ぴぴっ!」
「ちりりん!」
「きゅい、きゅい!」
「何を言ってるんだ?」
「早く始めてって」
ピクが俺の肩へ腰を下ろした。
「みんな、解体を見るのは初めてなの」
「見たことがないのに、教えられるのか?」
「遠くから見たことがある子はいるみたい」
「誰だ?」
ピクが小さな妖精たちを見る。
すると、葉の帽子をかぶった妖精が勢いよく手を挙げた。
「キャッ!」
「その子?」
「うん。たぶん詳しいよ」
「たぶんか……」
不安しかない。
だが、何も始めなければ技能は増えない。
俺は腰からナイフを抜き、牙猪の横へしゃがみ込んだ。
解体場で作業を見たことはある。
最初に血を抜き、そのあとで皮を剥ぐ。
大まかな順番は分かっていた。
だが、自分で行ったことは一度もない。
「最初は、どこを切る?」
俺が尋ねると、小さな妖精たちが一斉に騒ぎ始めた。
「ぴぴぴっ!」
「ちりっ!」
「きゅいきゅい!」
何人もが牙猪の首元を指差し、腕を大きく振っている。
ピクは真剣な顔で何度も頷いた。
「その猪さんはね、最初に首のところを切って――」
両手を大きく広げる。
「血をビューッとするの!」
「説明が雑すぎる」
「でも、みんなそう言ってるよ」
小さな妖精たちは揃って何度も頷いた。
仕方なく、俺は牙猪の首元へ刃を当てる。
浅すぎれば血が抜けない。
深すぎれば、必要な部分まで傷つけるかもしれない。
「この辺か?」
葉の帽子をかぶった妖精が勢いよく頷く。
「キャッ!」
「なんて?」
「そこだって」
「今度は、たぶんじゃないんだな」
「たぶん!」
「やっぱり、たぶんか」
俺は覚悟を決め、ナイフへ力を込めた。
刃が硬い毛皮を抜け、肉へ入る。
次の瞬間。
血が勢いよく噴き出した。
「うわっ!」
避ける間もなかった。
頬から髪まで、赤いしぶきが飛び散る。
一瞬、庭が静まり返った。
小さな妖精たちは、血まみれになった俺の顔をじっと見つめている。
「……なんだよ」
次の瞬間。
「キャキャキャキャ!」
「きゃはははは!」
「ぴゃっ、ぴゃははは!」
「ふ、ふふっ……あはははは!」
妖精たちが、一斉に腹を抱えた。
空中で身体を丸めて笑う者。
花の上を転げ回る者。
笑いすぎて羽を動かせなくなり、そのまま草の上へ落ちる者までいる。
葉の帽子をかぶった妖精は、俺の顔を指差しながら、何度も地面を叩いていた。
「キャキャキャキャ!」
「……笑いすぎだろ」
俺が袖で顔を拭うと、さらに大きな笑い声が上がる。
ピクまで腹を抱え、俺の肩から転げ落ちそうになっていた。
「ピクまで笑うのか」
「ご、ごめん……! でも、ミントの顔が……真っ赤で……!」
「血が飛ぶって言ったのは、お前だろ」
「ビューッとは言ったけど、顔にかかるとは思わなかったの!」
妖精たちはいつまでも笑っていた。
馬鹿にされているというより、俺の失敗が面白くて仕方ないらしい。
三年間。
剣の訓練を失敗しても、依頼で怪我をしても、誰も笑わなかった。
誰も見ていなかったからだ。
今は、大勢の妖精が俺を見ている。
失敗すれば腹を抱えて笑い、次に何をするのか目を輝かせて待っている。
「次は笑われないようにやる」
俺がナイフを握り直すと、妖精たちは笑うのをやめた。
今度は全員が、俺の手元へ顔を寄せる。
「近い」
俺が言うと、少しだけ下がった。
だが、ほんの少しだけだった。
「よし。もう一度だ」
その日は日が暮れるまで、解体の練習を続けた。
血抜きだけで何度も失敗した。
皮を剥ごうとすれば、余計な肉まで一緒に切り取った。
妖精たちは、そのたびに笑った。
「キャキャキャ!」
「そこ、違うって」
「今のは何て言った?」
「もっと薄く切れって」
「最初からそれを言え」
「今、思い出したんだって」
失敗ばかりだった。
それでも、少しずつ刃の入れ方が分かってきた。
最後まで解体を終えることはできなかったが、最初よりは確実に上手くなっている。
図鑑に《解体》は登録されなかった。
まだ技能と呼べるほど、身についていないということだろう。
「明日は、二頭目をやる」
「うん!」
ピクが嬉しそうに頷いた。
「今度こそ、覚えられるといいね」
「今度は顔に血も浴びない」
その言葉を聞いた小さな妖精たちが、また笑い始めた。
「キャキャキャキャ!」
「まだ何もしてないだろ」
◇
日が暮れたあとは、家の中で休むことにした。
中には木の寝台と、机と椅子が一つずつ。
小さな炉。
何も入っていない棚。
奥には素材を置けそうな空の部屋があった。
豪華ではない。
だが、木の床には埃一つなく、寝台も柔らかかった。
今まで野営で硬い地面に寝ることが多かった俺には、それだけで十分すぎる。
「ここで寝てもいいのか?」
「もちろん。ミントの家だよ」
ピクは寝台の端へ座った。
「なんだか変な感じだな」
「何が?」
「昨日まで、帰る場所なんてなかったから」
安宿を転々とし、金がなければ森で眠る。
誰かが帰りを待っていることもなかった。
だが今は、家がある。
庭がある。
泉がある。
俺の失敗を見て、腹を抱えて笑う妖精たちまでいる。
「明日は、何を覚えるの?」
ピクが尋ねる。
「まずは《解体》だ」
「その次は?」
「まだ分からない」
「料理は?」
「牙猪の肉を使えば、練習できそうだな」
「ほんと!?」
ピクが目を輝かせた。
「妖精は料理も好きなのか?」
「見るのも、食べるのも大好き!」
「食べる方が目的じゃないのか」
「そんなことないよ」
即答したが、目をそらしていた。
俺は小さく笑い、寝台へ横になる。
こんなに穏やかな気持ちで眠るのは、久しぶりだった。
◇
翌朝。
目を覚ますと、窓の外では小さな妖精たちが花畑を飛び回っていた。
昨夜まで笑っていた妖精も、朝から元気らしい。
俺が家を出ると、ピクが慌てた様子で飛んできた。
「ミント!」
「どうした?」
「外に、誰かいるの!」
「誰か?」
「分からない。でも、倒れてるみたい」
ピクの羽は、いつもより激しく震えていた。
「どうして分かった?」
「庭の外から、弱い声がしたの」
「声?」
「聞こえたのは少しだけ。今はもう聞こえない」
俺はすぐに剣を腰へ差した。
妖精の庭から外へ出る扉を呼び出す。
淡い光が集まり、庭の端に扉が現れた。
「ピクはここにいろ」
「私も行く」
「外は危険かもしれない」
「少しだけなら大丈夫」
ピクの羽へ、庭の淡い光が宿った。
止めても聞きそうにない。
「危なくなったら、すぐ戻れ」
「うん」
俺は剣の柄へ手を添え、扉を開いた。
朝の冷たい空気が流れ込んでくる。
昨日、牙猪と戦った森だ。
周囲を確認する。
すぐ近くに魔物の姿はない。
鳥の声。
葉の揺れる音。
その中に、微かな血の匂いが混じっていた。
「こっち」
ピクが前方を指差す。
少し離れた木の根元に、誰かが倒れていた。
小柄な身体。
破れた外套。
泥と血に汚れた脚。
頭には、灰色の獣耳が生えている。
「狼獣人……?」
俺は慎重に近づいた。
倒れていたのは、まだ若い少女だった。




