第1話 スキル図鑑
「悪い、ミント。お前には今日でパーティーを抜けてもらう」
冒険者ギルドの隅で、槍を背負った男が申し訳なさそうに言った。
十五歳で冒険者になってから三年。
そのほとんどを、俺は彼らと一緒に過ごしてきた。
「次の護衛依頼に、俺は必要ないということか?」
「今回だけじゃない」
男は俺から目をそらした。
「俺たちは、これから森の奥や迷宮にも挑むつもりだ。今のミントを連れていけば、お前だけじゃなく、仲間や依頼人まで危険になる」
「俺も《剣士》だ。訓練だって毎日している」
「分かっているよ」
男の声には、嘲りも怒りもなかった。
だからこそ、反論できなかった。
「お前が誰より努力していることも知っている。でも、努力だけで埋まらない差もある」
腰に下げていた仲間の証を外し、男へ差し出す。
「……分かった」
「すまない」
「謝らなくていい」
誰も、俺を嫌っているわけではない。
ただ、もう仲間として選ばれなかっただけだ。
俺は男たちから離れた。
誰も、俺のことを嫌っているわけではない。
ただ、選ばれないだけだ。
十五歳で冒険者になってから三年。
俺は毎日剣を振り、盾の扱いも覚えた。
それでも、才能のある剣士には追いつけなかった。
固有スキルも役に立たない。
神殿で授かったのは、《スキル図鑑》という聞いたことのない力だった。
新しい技能を教えてくれるのか。
習得した技能を強くしてくれるのか。
最初は期待した。
だが、何度呼びかけても図鑑は現れなかった。
剣を振っても、魔物を倒しても、何も起きない。
今ではすっかり、役立たずの固有スキルとして知られている。
「ミントさん」
受付から声をかけられた。
顔を向けると、受付の女性が一枚の依頼書を持っている。
「薬草採取なら、まだ残っているわよ」
「それを受ける」
依頼書を受け取ると、受付の女性は小さく微笑んだ。
「最近、牙猪が出ているから気をつけてね」
「ああ。森の奥には行かない」
「怪我しないように無理はしないでね」
俺は頷き、ギルドを出た。
◇
町から歩いて一時間ほど。
森の浅い場所には、柔らかな木漏れ日が差し込んでいた。
俺は草むらへしゃがみ込み、細長い葉を指でよける。
その下に生えていた薬草を、根を傷つけないように切り取った。
「二十八本目」
薬草は、よく似た毒草と同じ場所に生えることがある。
冒険者になったばかりのころは、俺も何度も間違えた。
見本を見せてもらい、匂いを覚え、何度も採取を繰り返した。
今では、葉を見ただけでほとんど区別できる。
これも技能と呼べるのだろうか。
役に立たない《スキル図鑑》は、何も教えてくれない。
俺は採った薬草を布で包み、背負い袋へ入れた。
もう少し集めれば、宿代を払っても食事に肉をつけられる。
昨日見つけた群生地へ向かおうとして、足を止めた。
地面が掘り返されている。
大きな蹄の跡。
獣の臭いも残っていた。
「牙猪か……」
跡は森の奥へ続いている。
群生地とは別の方向だ。
近づかなければ問題ない。
俺は盾を左腕へ固定し、周囲を警戒しながら歩き始めた。
少し進むと、開けた草地が見えてくる。
薬草はまだ残っていた。
手早く採って帰ろう。
そう思い、しゃがみ込んだ瞬間。
背後で枝が折れた。
振り向く。
茶色い巨体が、木の陰から姿を現した。
硬い毛に覆われた身体。
前へ突き出した二本の牙。
牙猪だ。
「奥へ行ったんじゃなかったのか」
牙猪が地面を蹴る。
俺は剣を抜き、横へ飛んだ。
太い牙が服をかすめて通り過ぎる。
すれ違いざまに首へ剣を振ったが、硬い毛皮に阻まれ、浅い傷しか与えられなかった。
牙猪が向きを変える。
そのとき、別の茂みが揺れた。
もう一頭。
一頭目より小さいが、同時に相手をするのは無理だ。
二頭が俺を挟むように動く。
正面から戦えば負ける。
牙猪は真っすぐにしか突進できない。
急には止まれず、曲がることも苦手だ。
俺は剣を鞘へ戻し、二頭の間へ移動した。
「来い」
二頭がほぼ同時に走り出した。
土を蹴る音が近づく。
牙が届く直前、俺は横へ飛んだ。
鈍い衝突音が響く。
二頭の牙猪が、正面から激しくぶつかった。
一頭が地面へ倒れ、もう一頭も足をふらつかせる。
俺は倒れた牙猪へ駆け寄り、首へ剣を突き立てた。
残った一頭が咆哮を上げる。
負傷しているが、まだ動ける。
俺へ向かって突進してきた。
避けようとした足が、崩れた土へ沈む。
「しまった!」
身体をひねったが、完全には避けられなかった。
牙が脇腹をかすめる。
熱い痛みが走り、俺は地面へ転がった。
牙猪は止まりきれず、木の幹へ激突する。
今しかない。
俺は立ち上がり、牙猪の首へ剣を振り下ろした。
一度では倒れない。
もう一度。
二度目の刃が深く入り、牙猪の巨体が崩れ落ちた。
「……危なかった」
荒い息を整えながら、周囲を見回す。
ほかの魔物の気配はない。
二頭の牙猪も、もう動かなかった。
剣を下ろした瞬間、脇腹の痛みが強くなる。
服が裂け、血が流れていた。
深い傷ではない。
だが、このまま血の匂いを広げれば、別の魔物を呼び寄せる。
俺は背負い袋を下ろした。
水筒の水で手と傷口を洗う。
「痛っ……」
採取した薬草から、止血に使える葉を選ぶ。
石の上で潰し、傷へ押し当てた。
その上から清潔な布を巻く。
片手では結びづらく、何度かやり直した。
それでも、緩まないように固定する。
「これで大丈夫だ」
その瞬間。
目の前に淡い光が集まった。
「なんだ……?」
光は、一冊の本へ変わった。
十五歳のときから、何度呼びかけても現れなかったもの。
《スキル図鑑》だった。
本が空中で開き、ページがペラペラとめくられていく。
白かったページに、文字が浮かび上がる。
【登録済み技能】
《剣術》
《盾術》
《採取》
《野営》
最後に、新しい文字が加わった。
《応急処置》
【登録技能数 5/100】
「五つ……?」
剣術と盾術。
採取と野営。
どれも、一日で覚えたものではない。
何度も失敗しながら、必要に迫られて身につけた。
応急処置も同じだ。
誰かに自慢できる力ではない。
それでも、図鑑は技能として認めていた。
ページがひとりでにめくられる。
【登録率が5%に到達しました】
【達成報酬:《妖精の家》が与えられます】
「妖精の家?」
次の瞬間、木々の間へ淡い光の線が走った。
光が集まり、一枚の扉を形作る。
白い木で作られた扉。
中央には、本と羽を組み合わせた紋章が刻まれている。
扉へ近づき、慎重に取っ手を握る。
三年間、何も起こらなかったスキルが、初めて見せた変化だ。
確かめずに帰ることなどできない。
俺は扉を開いた。
花の香りを含んだ、暖かな風が流れてくる。
扉の向こうに広がっていたのは、家の中ではなかった。
色とりどりの花が咲く、広い庭。
柔らかな草。
澄み切った青空。
右手には、透き通った水をたたえた泉。
どこからか、クスクスと笑う声が聞こえた。
庭の奥には、赤茶色の屋根を持つ小さな家が建っている。
「ここが……妖精の家?」
庭の中に危険な気配はない。
すぐ近くから、小さな声が聞こえた。
俺は剣の柄へ手を伸ばし、笑い声のした方を見る。
泉の向こうに、小さな少女が浮かんでいた。
手のひらに乗りそうな身体。
背中には、光を透かす二枚の羽。
「妖精……?」
「そうだよ」
妖精は嬉しそうに笑った。
「それは《妖精の泉》。中へ入れば、傷も疲れも治してくれるよ」
「本当に安全なのか?」
「うん。毒もないよ」
そう言われても、すぐには信用できない。
俺は泉の縁へしゃがみ、まず指先だけを水へ触れさせた。
冷たくない。
痛みも痺れも起きなかった。
次に、傷のない右手を手首まで沈める。
何も起こらない。
「慎重だね」
「知らない場所で、知らない水に入る方がおかしいだろ」
「それもそうだね」
妖精は素直に頷いた。
俺は木へ打ちつけた左腕を、水の中へ浸す。
淡い光が腕を包んだ。
鈍く残っていた痛みが、ゆっくりと消えていく。
「……本当に治ってる」
「だから言ったでしょう?」
俺は少し迷ったあと、ゆっくりと泉へ足を入れた。
脇腹の傷が水に触れる。
淡い光が集まり、熱を持っていた痛みが消えていく。
布を外すと、裂けていた皮膚がゆっくりと閉じていた。
傷跡さえ残らない。
「すごいな……」
俺が傷の消えた脇腹を見つめていると、妖精は俺の目の前まで飛んできた。
なぜだろう。
妖精は満面の笑みを浮かべ、両手を大きく広げた。
「おかえり! 持ち主さん」




