第27話 帰る場所
ミノタウロスが倒れても、しばらく誰も声を上げなかった。
地面へ横たわった巨体を、エルフたちは息を詰めたまま見つめている。
やがて、誰かが弓を下ろした。
「……終わった」
その一言をきっかけに、村のあちこちから安堵の息が漏れた。
泣き出す者。
抱き合う者。
無事だった家族の名前を呼びながら、走り出す者。
静まり返っていた村に、少しずつ人々の声が戻ってくる。
俺はそれを見届けると、張りつめていた力が一気に抜けた。
「ミント!」
膝から崩れ落ちる前に、ラベンダーが身体を支えてくれた。
「大丈夫だ」
「どこが?」
言い返そうとしたが、左腕は持ち上がらず、息をするだけでも胸の奥が痛んだ。
盾を手放した手には、まだ何かを握っているような感覚が残っている。
「すぐに治療を――」
駆け寄ってきたエルフへ、ピクが両手を振った。
「妖精の泉に連れていくの! ミント、ぼろぼろなの!」
「俺だけじゃない。二人も――」
「喋らないの!」
ピクに叱られた。
ラベンダーも弓を引き続けた腕を押さえている。ローズは世界樹の杖に縋らなければ立っていられないほど消耗していた。
俺たちは村の外れまで移動し、妖精の家へ続く光の中へ入った。
次に目を開けたとき、懐かしい泉の水音が聞こえた。
◇
「痛っ……」
「動いたら駄目なの!」
泉の中で左腕を動かそうとすると、ピクが頬を膨らませた。
淡く輝く水が、傷ついた身体を包み込んでいる。
裂けた皮膚はゆっくりと塞がり、紫色に腫れていた胸や肩からも痛みが引いていく。指先の感覚も少しずつ戻ってきた。
隣ではラベンダーが水に浸かり、傷ついた指を何度も曲げている。
ローズは泉の縁に腰を下ろし、両足だけを水につけていた。魔力を使い果たした顔は青白かったが、先ほどより呼吸は落ち着いている。
「これなら、明日には戻れそうだな」
「戻るつもりなの?」
ラベンダーが呆れたように俺を見た。
「村の片づけが残っている」
「ミントは今日、何回死にかけたと思ってるの?」
「数えていない」
「私は数えてたよ。途中で腹が立ってやめたけど」
「それなら数えていないのと同じだろ」
「そういう話じゃない!」
ラベンダーの声が妖精の家に響く。
ローズが口元を押さえ、小さく笑った。
それを見たラベンダーが、今度はローズへ顔を向ける。
「ローズもだよ。魔力が空になるまで使うなんて」
「すみません」
「謝らなくていいけど……無茶するところまでミントに似なくていいからね」
「俺のせいなのか?」
「そうだよ」
即答だった。
ローズはもう一度笑う。
戦いが終わってから、初めて見せた穏やかな笑顔だった。
泉は傷を癒やしてくれたが、失った体力までは戻してくれない。
俺たちはその夜、妖精の家で泥のように眠った。
◇
翌朝、村へ戻ると、すでに復旧作業が始まっていた。
壊された柵を立て直す者。
崩れた家から瓦礫を運び出す者。
怪我人へ食事や水を配る者。
村の中央では、倒した魔物の素材を回収する作業も進められていた。
あれほど激しい襲撃だったにもかかわらず、村人に死者はいなかった。
負傷者は多い。
家を失った者もいる。
それでも、村は残っている。
「俺たちも手伝おう」
「昨日の今日で?」
「重い物は持たない」
「信用できないなあ」
そう言いながらも、ラベンダーは作業を始めた。
俺は折れた柵の材料を運び、ラベンダーは村の外周を回って、残った魔物がいないか確かめる。
ローズは少し迷ったあと、世界樹の杖を掲げた。
「お願いできますか?」
その声に応えるように、小さな光が周囲へ集まってくる。
風が瓦礫に積もった土埃を払い、地面から伸びた根が傾いた柱を支えた。
折れた枝がひとりでに持ち上がり、道の端へ運ばれていく。
村人たちは作業の手を止めた。
ローズの肩がわずかに震える。
以前なら、その力を見た者たちは怯えていたのかもしれない。
だが、一人の子どもがローズへ駆け寄った。
「すごい!」
その子は目を輝かせ、宙を漂う光へ手を伸ばした。
「お姉ちゃんが、村を守ってくれたんだよね?」
「私は……」
「ありがとう!」
子どもの声が響く。
続いて、その母親らしき女性が頭を下げた。
「この子が無事だったのは、あなたたちのおかげです。本当に、ありがとうございました」
別のエルフも近づいてくる。
「ローズ、戻ってきてくれてありがとう」
「あなたがいなければ、村はなくなっていた」
「私たちを守ってくれたこと、忘れない」
ローズは何も答えられなかった。
杖を握ったまま、ただ何度も頭を下げている。
その目から零れた涙を、今度は誰も恐れなかった。
◇
夕方になる頃には、壊れた柵の応急処置が終わった。
村の広場には長い机が並べられ、保存してあった果物やパン、温かいスープが運ばれてくる。
宴を開けるほど余裕があるわけではない。
それでも村人たちは、助かった命と、村を守った者たちを祝いたいと言った。
俺たちが広場へ呼ばれると、大勢のエルフが拍手で迎えてくれた。
「村を救ってくださった三人の勇者に、心から感謝いたします」
村をまとめる立場らしい年長のエルフが、深々と頭を下げる。
周囲の者たちも、それに続いた。
「ミント殿。ラベンダー殿。そして――ローズ」
名を呼ばれ、ローズの背筋が伸びる。
「我々はあなたの力を恐れ、一人で村を離れさせてしまった。その過ちを、なかったことにはできません」
広場が静まり返る。
「それでもあなたは、危機に陥った我々を見捨てず、命を懸けて守ってくれた」
年長のエルフは、もう一度頭を下げた。
「英雄となったローズよ。どうか、この村へ戻ってきてはいただけないでしょうか」
周囲から声が上がった。
「ここに残ってくれ!」
「今度こそ、私たちがあなたを支える!」
「この村は、あなたの故郷だ!」
ローズの父親も、人々の間から前へ出た。
何かを言おうとして、何度も唇を震わせる。
「ローズ……帰ってきてくれるなら、父さんは……」
最後まで言葉にならなかった。
ローズは父親へ駆け寄り、その胸に顔を埋めた。
父親は娘を強く抱きしめる。
村人たちから、再び大きな拍手が起きた。
「よかったね」
隣に立つラベンダーが、小さく呟いた。
「ああ」
ローズはようやく故郷へ帰ることができた。
恐れられるのではなく、必要とされて。
今度こそ家族と一緒に暮らせる。
「これで安心だな」
「……そうだね」
ラベンダーは笑っていた。
けれど、その耳は少しだけ垂れている。
きっと俺も、同じような顔をしていた。
◇
翌朝。
俺たちは村の入口に立っていた。
傷もかなり回復した。
いつまでも世話になるわけにはいかない。
「それじゃ、帰るか」
「うん」
ラベンダーが短く答える。
ピクは俺の肩に座り、何度も後ろを振り返っていた。
広場では、まだ多くの村人に囲まれたローズが話をしている。
俺は最後に一度だけ、彼女へ手を上げた。
「じゃあな、ローズ」
「元気でね!」
ラベンダーも明るい声で呼びかけた。
ローズがこちらを見た。
目が合ったのは、ほんの一瞬だった。
俺たちは背を向け、森の出口に続く道を歩き始める。
これでいい。
ローズは、帰るべき場所へ帰ったのだから。
「待ってください!」
背後から声が響いた。
振り返ると、ローズが村人たちの間を抜け、こちらへ走ってくる。
世界樹の杖を抱え、長い髪を揺らしながら、息を切らして俺たちの前まで来た。
「どうした?」
ローズは胸へ手を当て、何度か息を整えた。
そして、不安そうに俺たちを見つめる。
「私も……連れていってくれませんか?」
「……何を言っているんだ?」
思わず呆れた声が出た。
ローズの顔が曇る。
俺はため息をつき、その額を軽く指で押した。
「あたりまえだろ」
「え……」
「置いていくつもりなんて、最初からない」
ラベンダーもローズの隣へ並び、その腕を取った。
「もう家族なんだから」
ローズの目から、大粒の涙が溢れた。
ピクが俺の肩から飛び立ち、ローズの顔の前まで飛んでいく。
小さな両手をいっぱいに広げ、満面の笑みを浮かべた。
「ローズ、おかえり!」
ローズは涙を流しながら、それでも幸せそうに笑った。
「ただいま」
あとがき
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