第23話 砕けた結界
世界樹の方角から吹いてきた風が、一瞬だけ冷たく変わった。
ローズの表情が険しくなる。
「どうした?」
俺が尋ねると、ローズは世界樹の杖を両手で握った。
淡い緑色の光が、白い枝の表面をゆっくりと流れていく。
「結界の魔力を確認します」
ローズは目を閉じた。
杖の周囲へ集まっていた精霊たちが、静かに光を強める。
さっきまで落ち葉の間を飛び回っていたピクも、俺の胸ポケットから顔を出したまま黙っている。
しばらくして、ローズが目を開いた。
「やはり、結界の魔力が薄くなっています」
「壊れかけてるの?」
ラベンダーが森の奥を警戒しながら尋ねる。
「まだ結界そのものは残っています。ですが、世界樹から送られている魔力が、途中で失われています」
「世界樹が弱ってるんじゃないのか?」
「世界樹には、まだ十分な力があります」
ローズは世界樹の杖を見つめる。
「どこかで魔力の流れが止められているのだと思います」
鳥や小動物の声が消えていた。
森全体が、何かを恐れて息を潜めているように静かだった。
「村へ戻ろう」
俺は新しい剣の柄へ手を添える。
「早く知らせた方がいい」
「はい」
俺たちは訓練を切り上げ、急いで村へ戻った。
◇
報告を受けたローズの父親と村長は、すぐに世界樹の前へ村の者たちを集めた。
「結界を支える魔力が減っているというのは、本当か?」
村長が尋ねる。
「はい」
ローズは世界樹の杖を握ったまま答えた。
「世界樹の力は弱っていません。結界へ魔力を送る途中で、流れが乱されています」
村人たちの間にざわめきが広がる。
「そういえば、最近は夜になると結界の光が薄かった」
「森の動物も、村の近くまで逃げてきていたぞ」
「結界の外に魔物が増えたという話も聞いた」
それぞれが気づいていた異変を口にする。
だが、誰も結界が破られるとは思っていなかったらしい。
「結界は世界樹だけで作られているわけではない」
ローズの父親が地面へ簡単な図を描いた。
中央に世界樹。
その周囲を囲むように、いくつかの印を置く。
「世界樹から流れた魔力は、森の中に置かれた石柱を通して村全体へ広がっている」
「その石柱のどれかに問題がある?」
俺が尋ねる。
「ああ。魔力の戻りが弱い場所が一つある」
ローズの父親は森の一方向を指さした。
「調べる必要がある」
「俺たちも行きます」
俺が言うと、父親はすぐにローズを見た。
「ローズも行くつもりか」
「はい」
「森の中で何が起きているか分からない」
「だからこそ、私が必要です」
ローズは世界樹の杖を胸元へ引き寄せた。
「この杖があれば、魔力の流れを追うことができます」
「だが――」
「私は、もう村を追われた頃の子供ではありません」
ローズの声は静かだった。
けれど、迷いはなかった。
「今の私にできることをさせてください」
父親はしばらく娘を見つめていた。
やがて、短く息を吐く。
「必ず戻ってこい」
「はい」
その一言だけで、ローズの表情が少しだけ柔らかくなった。
◇
俺たちは村のエルフ数人とともに、森へ入った。
先頭を歩くのはラベンダーだ。
新しく買った弓を手にし、獣の耳を動かしながら周囲を探っている。
「足跡が多い」
ラベンダーが地面へしゃがみ込む。
「何の足跡だ?」
「いろいろ。牙獣もいるし、爪の長い魔物もいる」
「同じ方向へ向かってるのか?」
「うん」
ラベンダーは森の奥を指さした。
「でも、村を襲おうとしてる感じじゃない」
「どういうこと?」
「みんな、途中で止まってる」
魔物たちは森を歩き回っているのではない。
何かを待つように、結界の外側へ集まっているらしい。
「嫌な感じなの」
ピクが胸ポケットの中へ少しだけ身を隠す。
さらに進むと、木の幹の一部が黒く変色していた。
ローズが世界樹の杖を近づける。
「魔力が抜けています」
「木から?」
「はい。この周囲だけ、地面から流れる魔力も薄くなっています」
世界樹から広がる力が、どこかへ吸い取られている。
森の静けさが、ますます不気味に感じられた。
そのとき、頭上で枝が揺れた。
「上!」
ラベンダーが叫ぶ。
黒い影が木の上から飛び下りてくる。
細長い腕と鋭い爪を持つ、小型の魔物だった。
だが、地面へ降りるよりも早く、ラベンダーが矢を放つ。
弦が鋭く鳴った。
飛び出した矢は真っ直ぐに魔物の胸を貫き、その体を近くの木へ縫い止めた。
「速い……」
ラベンダー自身が、新しい弓を見つめる。
「前の弓より、ずっと矢が速い」
「いい弓を選んだな」
「うん」
ラベンダーはすぐに次の矢をつがえ、周囲を警戒する。
倒された魔物は、俺たちを襲おうとしたというより、様子を見ていたように思えた。
「見張られていたのかもしれません」
ローズも同じことを考えたらしい。
「急ぎましょう」
◇
森の奥へ進むと、木々の間に灰色の石柱が見えてきた。
大人の背丈ほどの高さがあり、表面には複雑な模様が刻まれている。
だが、石柱の中央には大きな亀裂が入っていた。
「これか」
俺は周囲を警戒しながら近づく。
石柱の表面には、深い爪痕が何本も残されていた。
「魔物に壊されたの?」
ラベンダーが尋ねる。
ローズはすぐには答えず、世界樹の杖を石柱へ近づけた。
淡い光が亀裂の中へ流れ込む。
「いいえ」
「違うのか?」
「爪痕がつく前に、石柱は壊されています」
ローズは亀裂の一部を指でなぞった。
「内側に、刃物のような物で削られた跡があります。その上から魔物の爪痕を重ねています」
「魔物が壊したように見せかけたってこと?」
「おそらく」
誰かが意図的に結界を弱めている。
それも、村の者たちに気づかれないように。
「ミント」
少し離れた場所を調べていたラベンダーが、低い声で俺を呼んだ。
「これ」
ラベンダーが拾い上げたのは、小さな金属片だった。
表面に黒い印が刻まれている。
翼を広げた蝙蝠。
山賊たちの小屋で見つけた印と同じだった。
「やっぱり、あの山賊たちと関係があるのか」
村の少女がさらわれたことも、偶然ではなかったのかもしれない。
「この印を使う者たちが、結界を壊しているのでしょうか」
ローズの顔が険しくなる。
「何のために?」
ラベンダーが尋ねる。
答えは、すぐには出なかった。
ローズは再び世界樹の杖を石柱へ向ける。
「修復できそうか?」
「完全には無理です。ですが、魔力を流し直せば、しばらくは――」
言葉の途中で、ローズの体が大きく揺れた。
「ローズ!」
俺が支える。
世界樹の杖が、強い光を放っていた。
「どうした?」
「一本ではありません」
ローズが顔を上げる。
「壊されているのは、この石柱だけではありません」
「他の石柱も?」
「はい。今、別の場所でも魔力の流れが急激に弱くなりました」
最初から、この一本だけを壊すつもりではなかった。
村の者たちを森へ引き離し、その間に残りの石柱も破壊する。
「村へ戻るぞ!」
俺たちは来た道を走り出した。
◇
森の中を駆ける。
ラベンダーが先頭を走り、俺とローズが続く。
胸ポケットの中で、ピクが必死に俺の服を掴んでいた。
「もっと速くなの!」
「これ以上は無理だ!」
枝を避け、根を飛び越える。
そのときだった。
空を揺らすほどの、巨大な破裂音が響いた。
俺たちは足を止める。
村を覆っていた淡い光の壁に、一本の亀裂が走っていた。
「そんな……」
ローズが世界樹の杖を握り締める。
亀裂は止まらない。
枝分かれしながら空全体へ広がり、村を包む結界を埋め尽くしていく。
世界樹の杖が震えた。
表面を走る光が激しく明滅する。
「世界樹が、助けを求めています」
次の瞬間。
結界が、ガラスのような音を立てて砕け散った。
淡い光の破片が空から降り注ぐ。
直後、森のあちこちから魔物の咆哮が上がった。
一つではない。
前からも、後ろからも、左右からも聞こえてくる。
「ラベンダー!」
俺が叫ぶと、ラベンダーは近くの木へ駆け上がった。
高い枝へ移り、村の方向を確認する。
その顔から血の気が引いた。
「魔物が走ってる!」
「何体いる?」
「分からない!」
ラベンダーが叫ぶ。
「一匹や二匹じゃない! 森中から村へ向かってる!」
遠くから警鐘が鳴り響く。
続いて、村人たちの叫び声が聞こえた。
「急げ!」
俺たちは再び走り出した。
だが、村の入口が見えたときには、すでに戦いが始まっていた。
弓を構えたエルフたちが、押し寄せる魔物へ矢を放っている。
何体かは倒れている。
それ以上の数が、壊れた結界を越えて村の中へ雪崩れ込んでいた。
巨大な牙を持つ魔物が、村の兵士を頭から弾き飛ばす。
別の魔物が家の壁へ爪を立てる。
逃げ惑う村人の悲鳴が響いた。
「ミント、前!」
ラベンダーの声に、俺は剣を抜いた。
村の入口を塞ぐように、一体の巨大な魔物が立っている。
俺たちを見つけた魔物が、大きく口を開いた。
結界はもうない。
村を守れるのは、俺たちだけだった。




