第18話 旅の初日
翌朝。
俺たちは夜明け前に妖精の家を出た。
人目のない場所で扉を閉じ、町の門へ向かう。
ラベンダーの背には、昨日買った大きな背負い袋がある。丸めた寝袋も括りつけられていた。
歩くたびに、狼の尻尾が左右へ楽しそうに揺れている。
「そんなに野宿が楽しみなのか?」
「野宿じゃなくて、旅が楽しみなの」
「昨日は寝袋を抱えて喜んでただろ」
「新しい物を買ったら、使いたくなるでしょ?」
ラベンダーはそう言うと、一歩だけ俺に近づいた。
鼻先を俺の肩へ寄せ、くんくんと匂いを嗅ぐ。
「何してるんだ?」
「今日もミントの匂いだなって確認してる」
「一晩で別人の匂いにはならないぞ」
「分かってるけど、確認したくなるの」
ラベンダーの尻尾が、さらに速く揺れ始める。
少し後ろを歩いていたローズが、不思議そうに首を傾げた。
「獣人の方は、毎朝そのように匂いを確かめるのですか?」
「全員がするわけじゃないよ」
「では、なぜミントさんの匂いを?」
「ミントだから」
ラベンダーは当然のように答えた。
ローズは俺とラベンダーを交互に見たあと、
「そういうものなのですね」
と、まだよく分かっていない顔で頷いた。
ピクは俺の外套の内側に隠れている。
妖精は珍しい存在らしい。
護衛中に人前へ出れば、余計な騒ぎになるかもしれない。
「ピク、苦しくないか?」
小声で尋ねる。
外套の襟元から、小さな顔だけが出てきた。
「大丈夫なの!」
「顔が出てるぞ」
「少しだけなの!」
「門を出るまでは我慢してくれ」
「分かったの……」
ピクは不満そうに頬を膨らませ、再び外套の中へ引っ込んだ。
町の門前には、すでに三台の馬車が並んでいた。
荷台には木箱や布袋が積み上げられ、商人たちが縄の緩みを確認している。
護衛として集まった冒険者も、俺たち以外に何人かいた。
簡単に役割を確認したあと、俺とラベンダーは先頭の馬車の近くを歩くことになった。
ローズは俺たちと同じ場所にいる。
まだ戦闘には慣れていないため、無理に前へ出る必要はない。
朝日が昇る頃、馬車はゆっくりと街道を進み始めた。
「出発なの?」
外套の中から、ピクの小さな声が聞こえる。
「ああ」
「ピクも外を見たいの」
「人がいる間は駄目だ」
「少しだけ……」
「駄目だ」
「ミントの意地悪なの」
外套の中で、ピクがもぞもぞと動く。
くすぐったい。
「じっとしてくれ」
「外が見えないの!」
「あとで休憩になったら出してやる」
「約束なの?」
「約束だ」
ようやくピクが大人しくなった。
街道は森と草原の間を伸びている。
道幅は馬車が二台すれ違えるほどあり、視界も悪くない。
ラベンダーは時折立ち止まり、地面に残った足跡や草の倒れ方を確かめていた。
「何かいるか?」
「小動物ばかり。今のところ危ない匂いはしないよ」
そう答えながらも、ラベンダーの耳は絶えず周囲の音を拾っている。
以前より動きに迷いがない。
月の欠片を取り込んだ熊を倒したあと、俺とラベンダーのレベルは上がっていた。
力が増しただけではない。
歩いていても身体が軽い。
背負い袋の重さも、以前ほど気にならなかった。
「ミント」
ラベンダーの声が低くなる。
右側の草むらが揺れた。
「来るよ」
俺はすぐに盾を構えた。
草をかき分け、三匹の狼型の魔物が飛び出してくる。
普通の狼より一回り大きく、口元から長い牙が伸びていた。
先頭の一匹が、俺へ向かって跳びかかる。
盾を前へ出した。
ぶつかった衝撃を受け止める。
以前なら足を踏ん張るだけで精いっぱいだったはずだ。
だが、今は違う。
盾を押し返す余裕がある。
「はっ!」
体勢を崩した魔物へ剣を振り下ろす。
一匹目が地面へ倒れた。
残った二匹が左右へ分かれる。
「右は任せて!」
ラベンダーが駆け出した。
俺は左から迫る魔物へ盾を向ける。
牙が盾の縁へ食い込んだ。
そのまま身体をひねり、魔物を地面へ叩きつける。
剣を突き下ろしたときには、ラベンダーも最後の一匹の背後へ回り込んでいた。
銀色の短剣が、魔物の首元を切り裂く。
三匹目も、その場へ崩れ落ちた。
戦いは、ほとんど時間をかけずに終わった。
「もう終わったのですか?」
後ろにいたローズが目を見開いている。
「小さな群れだったからな」
「ですが、お二人とも何も相談していませんでした」
ローズは倒れた魔物と俺たちを交互に見た。
「ラベンダーが右へ行くのは分かったから」
「私も、ミントが左を止めてくれるって分かってたよ」
「互いの動きが分かるのですね」
「ずっと一緒に戦ってきたからね」
ラベンダーが笑う。
尻尾が大きく左右へ揺れていた。
「それにしても、前より動きやすかったな」
「うん。私も身体が軽かった」
「レベルが上がった影響か」
「それもあると思う。でも、ミントが前より安定してるから、私も安心して動けるんだよ」
「ラベンダーも速くなってたぞ」
「分かった?」
「ああ」
ラベンダーの耳がぴんと立った。
尻尾の動きも、さらに速くなる。
「それなら、もっと褒めてもいいよ」
「調子に乗るからやめておく」
「ひどい」
そう言いながらも、ラベンダーは嬉しそうだった。
倒した魔物を街道の端へ移動させる。
護衛中のため、本格的な解体はできない。
討伐を確認したあと、俺たちは再び馬車と一緒に歩き始めた。
昼頃になると、馬車は街道脇の広い草地へ止まった。
馬を休ませ、俺たちも短い休憩を取る。
周囲に人がいないことを確認してから、俺は外套を少し開いた。
ピクが勢いよく飛び出してくる。
「やっと出られたの!」
「大声を出すな」
「ピク、ずっと我慢してたの!」
ピクは俺たちの周りを何度も飛び回ったあと、近くの木へ向かっていった。
枝や葉を眺めながら、楽しそうに何かを話している。
俺は草の上へ座り、保存食を取り出した。
すぐ隣へラベンダーも腰を下ろす。
肩が触れそうなほど近い。
「もう少し向こうが空いてるぞ」
「ここがいいの」
「狭くないか?」
「全然」
ラベンダーは保存食を口に運びながら、こちらへ少し寄りかかった。
柔らかな尻尾が草の上を滑る。
次の瞬間、尻尾の先が俺の手首へくるりと巻きついた。
「ラベンダー」
「なに?」
「尻尾が巻きついてるぞ」
「知ってるよ」
「離さないのか?」
「嫌?」
ラベンダーが俺の顔を覗き込む。
「嫌じゃないけど」
「なら、このままでいいね」
尻尾が俺の手首を握るように、きゅっと力を込めた。
ラベンダーは満足そうに保存食をかじり続ける。
少し離れたところでは、ローズが妖精の木から作った杖を両手で持っていた。
目を閉じ、ゆっくりと息を整えている。
枝の先に淡い光が浮かんだ。
最初は強く輝きすぎたが、ローズはすぐに魔力を止める。
「もう一度、やってみます」
今度は先ほどよりも弱い光が灯った。
枝へ流れている魔力は細く、静かだ。
ヒビが増える様子もない。
「昨日より安定してるな」
俺が声をかけると、ローズは光を消してから顔を上げた。
「はい。魔力を一気に流すのではなく、細い糸を通すように意識しています」
「それなら、枝への負担も少ないのか?」
「おそらくは。まだ長く保つことはできませんが」
「無理はしないでね」
ラベンダーが言う。
「ありがとうございます」
ローズは答えたあと、俺の手首へ視線を向けた。
そこには、ラベンダーの尻尾がしっかりと巻きついている。
「……その状態で、普通に会話を続けるのですね」
「いつものことだから」
ラベンダーが答える。
「いつものことなのですか?」
「うん」
尻尾が誇らしげに揺れ、俺の手首をもう一度きゅっと締めた。
「俺は最近になって増えた気がするけどな」
「気のせいだよ」
「そうか?」
「そうなの」
ローズは何かを考えるように俺たちを見たあと、再び杖へ視線を戻した。
休憩を終え、午後の旅が始まった。
道は次第に緩やかな上り坂へ変わっていく。
森も深くなり、街道の両側に太い木々が並んでいた。
一度目の戦闘からしばらく経った頃。
前方の茂みから、大きな音が聞こえた。
枝を折りながら現れたのは、巨大な猪型の魔物だった。
俺の胸ほどの高さがあり、頭部には太い牙が二本伸びている。
魔物は馬車を見ると、地面を蹴った。
「来る!」
俺は馬車の前へ出た。
盾を両手で構える。
猪型の魔物が、まっすぐ突進してくる。
ぶつかった瞬間、身体へ重い衝撃が走った。
足元の土が削れる。
それでも、倒れない。
「止めた!」
俺は盾を押し返した。
魔物の前足が地面を滑る。
以前の俺なら、受け止めることすらできなかったかもしれない。
「ラベンダー!」
「分かってる!」
ラベンダーが側面へ回る。
短剣を振り下ろすが、刃は厚い毛と皮に阻まれた。
「硬い!」
魔物が頭を振り、牙でラベンダーを狙う。
俺は盾を叩きつけ、こちらへ注意を引き戻した。
「首の下!」
ラベンダーが叫ぶ。
「そこだけ毛が薄い!」
「動きを止める!」
猪型の魔物が再び突進しようと、前足へ力を込める。
俺は一歩踏み込み、盾の縁を頭部へ押しつけた。
「今だ!」
ラベンダーが低く身体を沈める。
魔物の牙を潜り抜け、首の下へ短剣を突き立てた。
魔物が大きく暴れる。
俺は盾で押さえ込み続けた。
ラベンダーが刃を引き抜き、もう一度同じ場所へ突き刺す。
力を失った巨体が、地面へ倒れた。
しばらく待っても、起き上がらない。
「倒したな」
「うん」
ラベンダーが大きく息を吐く。
俺も盾を下ろした。
腕は少し痺れている。
それでも、身体はまだ動く。
「あれほど大きな魔物を、二人だけで……」
ローズがゆっくりと近づいてきた。
「ミントさんは、あの突進を正面から受け止めたのですね」
「盾があるからな」
「盾があっても、普通は吹き飛ばされると思います」
「前だったら、俺も飛ばされてたかもしれない」
俺が答えると、ラベンダーが短剣の血を拭いながら笑った。
「私も前より速く動けたよ」
「ああ。すぐに弱点を見つけてたな」
「ずっと見てたからね」
「よく分かったな」
「斥候だから当然だよ」
ラベンダーはそう言ったものの、耳も尻尾も嬉しそうに動いていた。
「お二人は、本当に息が合っていますね」
ローズが言う。
「ミントが絶対に止めてくれるって分かってたから」
ラベンダーは迷わず答えた。
「だから私は、弱点を探すことだけ考えられたの」
「俺もラベンダーが仕留めてくれると思ってた」
「本当?」
「ああ」
ラベンダーの尻尾が勢いよく左右へ振られる。
そのまま俺のそばへ寄り、首元へ鼻を近づけてきた。
「くんくん……」
「今度は何だ?」
「戦ったあとのミントの匂い」
「汗臭いだけだろ」
「私は嫌いじゃないよ」
「ローズが見てるぞ」
「見られて困ることじゃないもん」
ラベンダーはもう一度だけ俺の匂いを嗅ぐと、満足そうに離れた。
ローズは困ったように微笑んでいる。
「お二人の関係については、まだ学ぶことが多そうです」
「学ばなくていいと思うぞ」
「どうして?」
ラベンダーだけが不満そうに首を傾げた。
倒した魔物は街道脇へ移動させ、場所を覚えておく。
護衛を終えたあとで回収できるかは分からないが、今は馬車を守ることが優先だった。
その後は魔物に襲われることもなく、日が傾く前に野営地へ到着した。
馬車を円形に止め、その内側へ焚き火を作る。
俺たちも買ったばかりの寝袋を地面へ広げた。
ラベンダーが寝袋の上へ座り、両手で感触を確かめる。
「思ってたより柔らかい」
「まだ寝る時間じゃないぞ」
「確認してるだけだよ」
「そのまま眠りそうだけどな」
「眠らないよ」
そう言いながら、ラベンダーは寝袋の上へ身体を横たえた。
尻尾が楽しそうに揺れている。
ローズは焚き火から少し離れた場所に座り、再び枝を両手で持った。
枝の先に、小さな光を灯す。
昼間よりも光は弱い。
だが、揺れずに保たれている。
「できました」
ローズが嬉しそうに言った。
「今度はかなり安定してるな」
「はい。まだほんの少しの魔力ですが、自分で量を決められました」
「少しずつでいいよ」
寝袋から起き上がったラベンダーが笑う。
「旅は始まったばかりだからね」
「はい」
ローズも小さく笑い返した。
初日の旅は、二度の戦闘こそあったものの、大きな問題もなく終わろうとしていた。
レベルの上がった力も確認できた。
ローズも少しずつ、魔力を抑えられるようになっている。
このまま穏やかな旅が続く。
そう思っていた。
隣に座っていたラベンダーの尻尾が、突然動きを止めた。
寝ていた耳が、ぴんと立つ。
「どうした?」
ラベンダーは答えなかった。
立ち上がると、暗くなり始めた森へ顔を向ける。
鼻先が小さく動いた。
一度。
二度。
何度も空気の匂いを確かめる。
やがて、ラベンダーの表情から笑みが消えた。
「人の匂いがする」
「護衛の誰かじゃないのか?」
「違う」
ラベンダーは短剣へ手を添えた。
「汗と革と……古い血の匂い」
森の奥を見つめたまま、低い声で続ける。
「たぶん、山賊だよ」




