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おかえり!妖精の家へようこそ ~スキル図鑑で家族が増えていく物語~  作者: 月瀬 リュカ


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第12話 キス

 ラベンダーは、銀熊を見つめていた。


 銀熊も動かない。


 傷だらけの巨体を低く構え、ラベンダーを警戒している。


 月の谷に、数秒の沈黙が訪れた。


 風が白い花を揺らす。


 俺は地面に倒れたまま、二つの影を見ていた。


 胸から脇腹にかけて、焼けるように痛む。


 息を吸うたび、傷口が開いていくようだった。


「ラベンダー……」


 逃げろ。


 そう言いたかった。


 けれど、声にならない。


 ラベンダーの全身には、まだ淡い光がまとわりついていた。


 狼の耳が鋭く立ち、銀熊のわずかな動きも逃さない。


 細くなった瞳は、銀熊の身体だけを見つめている。


 いや。


 ただ見ているんじゃない。


 何かを探している。


「……見えます」


 ラベンダーが呟いた。


 弓を持つ手から、震えが消える。


「今まで見えなかったものが、全部」


 銀熊の前脚が、わずかに地面を掻いた。


 その瞬間。


 ラベンダーが矢を放った。


 一本目は、銀熊の首筋へ突き刺さる。


 銀熊が吠えようと口を開く。


 二本目の矢が、開いた口の中へ飛び込んだ。


 咆哮が、苦しげな声へ変わる。


 銀熊が頭を振った。


 ラベンダーはもう三本目の矢をつがえている。


 速い。


 今までとは比べものにならない。


 指が弦から離れた直後には、もう次の矢を取っている。


 三本目が銀熊の右目へ向かう。


 銀熊は顔をそらした。


 矢は目の横へ刺さった。


 それでもラベンダーは止まらない。


 四本目。


 五本目。


 六本目。


 矢が次々と放たれる。


 首。


 肩。


 前脚の付け根。


 脇腹にできた深い傷。


 どれも銀熊が守りにくい場所だった。


 《斥候》の目が、敵の動きを読む。


 《狩人》の力が、獲物の弱点を教える。


 二つのJOBが重なり、ラベンダーの身体を動かしていた。


 銀熊が前へ踏み出す。


 ラベンダーは横へ走った。


 銀熊が追う。


 だが、捕まらない。


 ラベンダーは白い花の間を滑るように駆ける。


 振り返りもせずに放った矢が、銀熊の後ろ脚へ刺さった。


 銀熊の足がわずかに崩れる。


 その隙にラベンダーは大きく距離を取る。


 弓を引き絞る。


 矢が飛ぶ。


 今度は、反対側の後ろ脚。


 銀熊が怒りの咆哮を上げた。


 谷全体が震える。


 それでもラベンダーは止まらない。


「遅いです」


 静かな声だった。


 銀熊が前脚を振り上げる。


 ラベンダーは踏み込んだ。


 逃げるのではなく、自分から銀熊の懐へ入る。


「ラベンダー!」


 俺の喉から、かすれた声が漏れた。


 銀熊の爪が振り下ろされる。


 ラベンダーの身体が沈む。


 爪が髪のすぐ上を通り過ぎた。


 ラベンダーはそのまま銀熊の横を抜ける。


 すれ違いざまに矢を放った。


 矢は銀熊の脇腹にできた傷へ深く突き刺さった。


 銀熊が振り返ろうとする。


 だが、後ろ脚の傷がそれを許さない。


 身体が大きく傾いた。


「そこですね」


 ラベンダーは弓を地面へ置いた。


 腰からナイフを抜く。


 銀熊が倒れながら前脚を伸ばした。


 ラベンダーはその爪を飛び越える。


 一歩。


 二歩。


 銀熊の肩へ足をかけ、そのまま駆け上がった。


「よくも――」


 ラベンダーの顔に、怒りが浮かぶ。


「ミントを傷つけましたね」


 ナイフが銀熊の喉へ食い込んだ。


 ラベンダーは両手で柄を握り、そのまま横へ引いた。


 銀色の毛が裂ける。


 赤い血が一気にあふれ出した。


 銀熊が立ち上がろうとする。


 しかし、力が入らない。


 巨体が大きく揺れた。


 ラベンダーは銀熊の身体を蹴り、地面へ飛び降りる。


 その直後。


 銀熊は白い花の上へ倒れた。


 地面が大きく震える。


 俺はしばらく、倒れた銀熊を見つめていた。


 動かない。


 もう起き上がらない。


 ラベンダーが倒した。


 一人で。


「……すごいな」


 声に出すと、胸の傷が痛んだ。


「ミント!」


 ラベンダーがこちらを振り返る。


 ナイフを落とし、俺のところへ走ってきた。


「ミント、しっかりしてください!」


 俺の隣に膝をつき、傷口へ手を伸ばす。


 けれど、触れる直前で止まった。


 どうすればいいのか分からないのだろう。


 ラベンダーの手が震えている。


「大丈夫……」


「大丈夫ではありません!」


 強い声だった。


 ラベンダーの目から、涙がこぼれる。


「こんなに血が出ているのに、どうして大丈夫なんて言うんですか!」


「ラベンダーが……無事だったから」


「だからって……!」


 言葉が続かなかった。


 ラベンダーは唇を噛み、俺の手を握る。


「待ってて!」


 月の妖精が、銀熊の向こうから飛んできた。


 小さな両手に、淡い光を抱えている。


 月の欠片だった。


 夜空から切り取ったような、銀色の小さな結晶。


「これを使えば、病気は治るよ!」


 月の妖精はラベンダーの前へ月の欠片を差し出した。


 ラベンダーは受け取ろうとしなかった。


「先にミントを治してください」


「これは、その子のための欠片だよ」


「でも!」


「ミントの傷は、妖精の泉なら治せる!」


 月の妖精がそう言った。


「本当に?」


「うん! 早く戻れば大丈夫!」


 ラベンダーは俺を見る。


 迷っていた。


「使えよ」


 俺は握られた手に、少しだけ力を込める。


「そのために……ここまで来たんだろ」


「でも、ミントが……」


「俺は泉で治せる」


 息を整えながら、笑ってみせる。


「ラベンダーの病気は、その欠片でしか治せないんだ」


 ラベンダーは何も言わなかった。


 ただ、俺の顔を見つめている。


 やがて、小さくうなずいた。


 月の妖精から欠片を受け取る。


「胸に当てて」


 言われたとおり、ラベンダーは月の欠片を胸元へ当てた。


 淡い光が、指の間からあふれ出す。


 欠片の形が少しずつ崩れていく。


 銀色の光はラベンダーの身体を包み、そのまま胸の中へ吸い込まれた。


「……あ」


 ラベンダーが息を漏らす。


 胸へ手を当てたまま、目を閉じた。


 長い沈黙。


「どうだ?」


 俺が尋ねる。


 ラベンダーはゆっくりと目を開けた。


「静かです」


「静か?」


「ずっと、身体の奥で何かが唸っていたんです」


 ラベンダーは胸を押さえた。


「満月が近づくたびに、大きくなって……自分ではない何かに、少しずつ変わっていくような感覚がありました」


 深く息を吸う。


 そして、ゆっくり吐き出した。


「それが、もう聞こえません」


 月の妖精が笑う。


「もう大丈夫だよ。次の満月が来ても、あなたはあなたのまま!」


 ラベンダーの目から、また涙がこぼれた。


 今度は悲しみではない。


「治った……」


 震える声で呟く。


「本当に、治ったんですね」


「ああ」


 俺も笑った。


「よかったな」


 その言葉を口にした途端、身体から力が抜けた。


 視界が暗くなる。


「ミント?」


 ラベンダーの声が遠くなる。


「ミント!」


 そこで、俺の意識は途切れた。


     ◇


 次に目を開けたとき、身体が温かかった。


 水の音が聞こえる。


 背中には、柔らかな何かが触れている。


「……ここは」


「妖精の泉です」


 すぐ近くから、ラベンダーの声がした。


 顔を動かす。


 俺は妖精の泉の中にいた。


 上半身だけ服を脱がされ、胸から脇腹の傷が水に浸かっている。


 泉の淡い光が傷口へ集まり、少しずつ塞いでいた。


 背中を支えてくれているのは、ラベンダーだった。


 ラベンダーも薄い服のまま泉へ入っている。


 濡れた銀色の髪が肩へ張りついていた。


「どうしてラベンダーまで入ってるんだ?」


「一人では身体を起こしていられなかったからです」


「そうか」


「それに……」


 ラベンダーの腕に、少し力が入る。


「目を離すのが怖かったんです」


 声が震えていた。


 俺は泉の縁へ背中を預ける。


 傷はまだ痛む。


 けれど、さっきよりずっと楽だった。


「熊は?」


「妖精の庭へ運びました。ピクたちが手伝ってくれました」


「月の妖精は?」


「谷へ戻りました。また会えると言っていました」


「そっか」


 短い会話が終わる。


 泉の水が、静かに揺れる。


 ラベンダーは俺の隣へ座った。


 肩が触れるほど近い。


「病気、本当に治ったんだな」


「はい」


 ラベンダーはうなずく。


「身体が、驚くほど軽いです」


「よかった」


「全部、ミントのおかげです」


「俺だけじゃない」


 ラベンダーを見る。


「熊を倒したのはラベンダーだろ」


「それでもです」


 ラベンダーは俯いた。


「ミントがいなければ、私は月の谷まで来られませんでした」


「橋を直しただけだ」


「熊からも守ってくれました」


「俺が前衛だからな」


「そんな言い方で、全部ごまかさないでください」


 ラベンダーが顔を上げる。


 目が赤い。


 また泣いていたらしい。


「ミントが倒れたとき、病気が治るかどうかなんて、どうでもよくなりました」


「ラベンダー……」


「月の欠片をずっと探していたのに」


 ラベンダーの手が、俺の手へ重なる。


「あなたが生きていてくれることの方が、ずっと大事だと思ったんです」


 胸の奥が、少し熱くなった。


 泉のせいだけではない。


「俺も、ラベンダーに無事でいてほしかった」


「だからって、あんな無茶をして……」


「間に合ってよかった」


「よくありません」


 ラベンダーは怒ったように言う。


 けれど、握る手は優しかった。


「もう、あんなことはしないでください」


「約束はできないな」


「どうしてですか」


「またラベンダーが危なかったら、たぶん同じことをする」


 ラベンダーは目を見開いた。


 すぐに俯く。


 狼の耳が、少しだけ伏せられた。


「ずるいです」


「何が?」


「そんなことを言われたら……怒れないじゃないですか」


 ラベンダーが俺の肩へ額を預けた。


 濡れた髪が肌に触れる。


「怖かったです」


「ああ」


「もう目を開けないんじゃないかと思いました」


「ごめん」


「謝らないでください」


 ラベンダーの腕が、俺の身体へ回る。


 傷に触れないよう、そっと抱きしめられた。


 俺も腕を伸ばし、その背中へ手を置く。


 ラベンダーの身体は温かかった。


 少しだけ震えている。


「病気が治って、よかったな」


「はい」


「これからは、満月を怖がらなくていい」


「はい」


「妖精の家にも、ずっといられる」


 ラベンダーの身体が止まった。


 ゆっくりと顔を上げる。


「ずっと……いてもいいんですか?」


「もちろん」


「迷惑になりませんか?」


「なるわけないだろ」


 俺は笑う。


「もう、家族みたいなものだと思ってた」


 ラベンダーの瞳が揺れた。


「……家族」


 その言葉を小さく繰り返す。


 少しだけ寂しそうに笑って、それから首を横に振った。


「私は、それだけでは足りません」


「え?」


 ラベンダーは俺の手を両手で包み込む。


 頬を赤く染めながら、それでもまっすぐ俺を見つめていた。


「あなたに助けてもらって、病気も治って……」


「私は今日、全部をもらいました」


「だから今度は、私の気持ちを受け取ってください」


 ゆっくりと顔が近づく。


 俺が何か言うより先に、柔らかな唇がそっと重なった。


 短く、優しい口づけ。


 泉の水面が、小さく波紋を広げる。


 唇が離れると、ラベンダーは真っ赤な顔で微笑んだ。


「……おかえり、ミント」


 俺は思わず笑ってしまう。


「ああ。ただいま」


 妖精の泉は、二人を祝福するように静かに輝いていた。

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