第3話
開店の合図は、白瀬殿が入口の鍵を外す小さな音だった。
私は入口から三歩下がった位置に立ち、騎士として戦場に立つ前と同じ静けさを体の芯に感じながらその音を聞く。
極限まで装甲を削ぎ落としたドレスの裾が足首に触れる心許ない感触だけが、いつもとは違っていた。
扉が開く。
最初の敵……もとい客は、疲れを引きずるように入ってきた二人組の男だった。
彼らは出迎えた私を見た瞬間に足を止め、私は右手を胸に当てて深く一礼する。
「よくぞ参られた」
重厚な出迎えに、二人が石のように固まった。
奥の席へ案内しながら店内の気配を確認すると、アレンが奥の扉の隙間から監視の視線を送っており、白瀬殿はカウンターの奥で何か言いたそうな顔をしながらも口を閉ざしている。
席に着いた二人の前に、両手で恭しく品書きを差し出した。
「ご覧くださいませ」
「あ、はい」
一人が思わず両手で受け取ると、二人は顔を見合わせて示し合わせたように背筋を伸ばした。
品書きから顔を上げた一人が私を正面から見て、そのまま金縛りに遭ったように止まる。
「何かご用向きがおありでしょうか」
「いや、その——」
もう一人が肘で突く。
突かれた男が小声で返しながら、耳の先まで赤くなっていた。
「うるさい」
「何を飲まれますか」
私の静かな問いに男は我に返り、白瀬殿の方をちらりと見てから息を吸い込んで叫んだ。
「一番高いやつをお願いします!」
砦への最上級の供物を捧げようとするその心意気、宴への備えとして申し分ない。
もう一人が小声で突っ込む。
「お前正気か」
「いいんだよ、今日は」
男はそう返しながらこちらをちらりと見て、また耳を赤くしている。
注文を聞いた白瀬殿が少し目を丸くしてからカウンターへ戻っていき、やがて運ばれてきた最高級の瓶を手に取って、私は両手でグラスに酒を注いだ。
「盃をお受け取りくださいませ」
男が恐縮したように両手でグラスを受け取ったので、私は厳かに宣言した。
「宴の始まりと心得ます」
「宴……」
男が呆然と繰り返す。
「俺にも」
もう一人が身を乗り出してきたので同じように注ぐと、その男も両手で受け取る。
二人が乾杯して一口飲み、また私を見てから姿勢を正して背筋を伸ばした。
◇
夜が深くなるにつれて客の数が増え、声が重なり合って酒の匂いが濃くなり、店の中の空気が変わってきた。
私は戦場を駆け巡るように席から席へ動きながら、砦全体の気配を把握し続ける。
別の席で仲間内で酒を重ねていた目が据わった男がこちらを見て、口の端を上げてグラスを突き出してきた。
「ねえ、飲める?」
「御意」
これは忠誠を試す毒見、あるいは武将同士の杯の交わし合いと解釈し、私はグラスを受け取って一息で飲み干した。
男が目を丸くし、仲間が声を上げる。
「おい」
「もう一杯」
男が注いでくるのを飲み干し、さらなる言葉にも平然と応じる。
「もう一杯」
「まだいける?」
「御意」
四杯目を飲み干した時。
体の芯に火が灯り、指先から熱が広がって、視界の輪郭が研ぎ澄まされていった。
足元は揺れるどころか地面との距離が近くなった気がして、ソレイユの火酒に比べれば水のように軽い飲み物だと判断する。
男の顔から笑みが消え、仲間たちが固唾を呑んでいる中、一人が懐から薄い魔導具を取り出してこちらに向け、この歴史的勝利を記録しようとしていた。
五杯目を差し出しながら、男が静かに降伏を宣言する。
「強すぎる。もう降参」
奥の扉の方から、アレンの胃痛に耐えるような小さな声が届いた。
「姉上、ほどほどに」
だが、勝鬨を上げる前の私には聞こえなかった。
◇
異変に気づいたのは奥の席からで、酔いの深い別の男が隣に座っていた女の子の肩に馴れ馴れしく手をかけていた。
女の子の体が石のように固まり、笑顔を作ろうとして作れていないのが離れた場所からでも分かり、私は即座に席を立つ。
男と女の子の間に静かに割って入ると、男が顔を上げて凄んできた。
「あ?なんだよ」
私は何も言わずにただ男を見下ろす。
「邪魔だろ、どけよ」
言われても微動だにしなかった。
男の目に苛立ちが混じり、乱暴に立ち上がりかけた。
その瞬間。
私は微かな殺気を解放し、真剣で首筋を撫でるような低い声で店内に響かせた。
「これより先は、戦場と心得よ」
男の動きが完全に止まる。
笑みも仲間の声も消え去って、室内が凍りついたように静まり返った。
男は本能的な死の恐怖を感じたのか私の目を見て視線を逸らし、何度も引き寄せられるように戻ってきては怯え、最後には力なく椅子に座り直した。
「……悪かった」
グラスに手を伸ばしながら、震える声で小さく謝罪した。
男から引き剥がされた女の子が、目の端を光らせて私を見上げる。
私は軽く首を振って無言で無事を伝え、元の持ち場へ戻った。
遅れて白瀬殿が駆けつけてきた時には既に事態は終わっており、彼は私と青ざめた男を交互に見てから長く息をついた。
◇
閉店の頃には店の中に酒と煙の名残が漂い、片付けをしている女の子たちが時折こちらを見ては、目が合うたびに何か言いたそうな顔をしてすぐに視線を逸らしている。
やがて一番背の低い子が近づいてきて、尊敬の眼差しを向けてきた。
「あの——アリアさんって、すごいですね」
私は右手を胸に当てて答える。
「共に砦を守る同士と心得ております」
「砦……」
女の子が小さく繰り返し、隣の子がくすりと笑ったが、それは決して悪い笑いではなかった。
カウンターの奥で帳簿を開いた白瀬殿がしばらく数字を見てから、独り言のようにこぼす。
「今日、過去最高の売り上げだった」
「砦の守りが一つ固まりましたと心得ます」
私が真顔で報告すると、白瀬殿は苦笑して帳簿を閉じた。
「砦ね」
アレンが奥の扉から顔を出して私を一瞥したが、何も言わずに胃の辺りを押さえて奥へ戻っていくのが見えた。
◇
深夜、店が静まり返った後に私は窓の外を見ていた。
光が溢れて騒がしく何もかもが見慣れない街だが、指先にはまだ酒の熱が残っていて、体の芯は不思議と落ち着いている。
窓ガラスに白瀬殿の疲れた横顔が薄く映ったような気がして振り返ると、彼はカウンターに肘をついて目を閉じていた。
その静かな横顔が、また胸の奥を揺らした。
今夜の初陣、悪くなかった。
そう思いながら、消えそうで消えない砦の看板の光が明滅するのを静かに見つめた。




