最終話
動画という魔導具の記録が広まったのは、あの夜のうちだったらしい。
翌日の開店前、白瀬殿が表に出入りして列を確認しては店の中に戻るという行動を二度繰り返し、三度目に戻ってきた時に私を見て声をかけてきた。
「アリアちゃん、ちょっと」
その顔にはいつもの疲れとは違う困惑と、まだ事態を信じ切れていないような色が滲んでいるように見えた。
「どうされましたか」
「いや、どうされましたかじゃなくて」
白瀬殿が頭を掻いた。
「昨日の動画、何十万人が見てるらしくて、それでうちに来たいって人が外に並んでて——」
「伝令が届いたのですね」
「そう、まあ、そういうことなんだけど」
白瀬殿がもう一度表を見て、まだそこにある列に小さく呟く。
「どうしよう」
私には動画というものが何十万人に届く意味が正確には分からなかったが、砦への来訪者が殺到しているという事実は理解できたので、ただ迎えるだけのことだ。
「御任せください」
私は言って、入口に立った。
◇
開店と同時に来訪者たちが雪崩れ込んできたが、先頭にいた男が私を見た瞬間に足を止め、後ろからの「どうした」という声にも口をわずかに開いたまま動かずに返事をしなかった。
私は右手を胸に当てて、深く一礼する。
「よくぞ参られた」
顔を上げると男の後ろで波が広がるようにざわめきが起きており、「本物だ」「本当にいる」という声が聞こえてきた。
何が本物なのかは分からなかったが、来訪者たちが無事に砦に辿り着いて安堵しているのだろうと解釈し、私は男を席へ案内した。
歩きながら男がちらちらとこちらを見て、目が合うたびに逸らしてはまた見るのを繰り返していることに気づく。
席に着いた男の前に品書きを両手で差し出すと、男は受け取ったまま動かず、視線を品書きではなくこちらに向けたまま離そうとしなかった。
「何かご用向きがおありでしょうか」
私が聞くと、男は我に返った。
「あ——すみません」
頬が赤かったので、長旅で体調が優れないのかもしれないと思いながら、私は次の来訪者へ向かった。
別の席では二人組の男が薄い板をこちらに向けて何かを光らせており、その向こうやさらに奥でも同じことをしている者がいて、砦の記録を残そうとしているのだと察せられた。
来訪者たちが思い思いに砦を記録する様子を横目に、私は席から席へと動いて酒を注ぎ、品書きを渡して来訪者を迎え送る。
その一つ一つに来訪者が反応しては笑い声や驚く声が上がり、砦全体が初戦の熱を帯びていた。
白瀬殿は客席とカウンターの間を慌ただしく往復しながら時折こちらを見て目を丸くしており、懸命に体を動かしている女の子たちの目も少しずつ変わっていくのが分かる。
閉店の頃、カウンターで帳簿を開いた白瀬殿がしばらく数字を追ったまま動かなくなった。
アレンが奥の扉から顔だけ出して帳簿を一瞥し、何も言わずに引っ込む。
「これ、本当にうちの店の数字?」
白瀬殿がようやく顔を上げて呟いたが、誰も答えなかった。
◇
翌朝、白瀬殿が眠そうな顔で帳簿を開きながら、それでも口の端を上げて言った。
「来週の予約が全部埋まってる」
「予約とは何でしょうか」
「来る前に、来ることを伝えてくれること」
事前に参戦を表明するとは礼儀に適っていると深く頷き、その夜から予約の来訪者を迎えるたびに私は告げた。
「御参戦の報、確かに受け取っております」
「参戦……」
来訪者は繰り返しながらも嬉しそうに席へ向かい、不思議なことにそう言われた者は皆、背筋をわずかに伸ばして席につく。
何故そうなるのかは分からなかったが、来訪者の姿勢が良くなるのは武芸の基本としても悪いことではないと思った。
五日目の夜、初めて現れた四人組の女性の来訪者は、賑やかに話しながら入ってきたものの私を見た瞬間に声を止めた。
一人が隣の者の腕を両手で掴み、声が出ないほど緊張している様子だったため、私は右手を胸に当てて一礼した。
「よくぞ参られた」
四人の間に短い沈黙が落ちた後、一人が小声で言った。
「なにこの人」
「お人形みたい」
もう一人が呟く。
「顔が——顔が——」
三人目が言いかけたまま言葉に詰まり、四人目がその背中を叩いた。
何か粗相でもしたかと案じたが、四人の顔は怒っているどころか頬が紅潮している。
席へ案内して酒を注ぐと、四人が示し合わせたように背筋を伸ばし、その様子がおかしかったのか一人が笑った。
「私たちも背筋伸びてるじゃん」
他の三人もつられて笑う。
しばらくして、一人が聞いてきた。
「あの、一緒に写真撮っていいですか」
「御意」
私が答えると、四人が顔を見合わせた。
「え、いいの」
一人が薄い板をこちらに向けて光らせる。
四人が画面を覗き込んでから一斉にこちらを見た。
「綺麗すぎる」
「これ絶対バズる」
口々に言い、三人目が「やばいやばいやばい」と連呼し、四人目はただ口を押さえて画面を見ていた。
何がそれほど危機的状況なのかは最後まで分からなかったが、四人が帰り際に「また来ます」と言ってくれたことだけは理解できた。
◇
一週間が経つ頃には、再び訪れる来訪者が目に見えて増えていた。
「今月三回目です」
常連になった男がグラスを傾けながら続ける。
「ここ来るようになってから、仕事も頑張れる気がするんですよね」
城での務めとここの宴の繋がりは分からなかったが、最初に来た夜より男の目が明るくなっていることは分かった。
「忠義篤き来訪者と心得ます」
私が答えると男が笑い、その笑い方が来るたびに少しずつ柔らかくなっているのを感じる。
遠方から来る者も増えた。
「三時間かかりました」
「遠路はるばると心得ます」
私が答えると、「そう言ってもらえると来た甲斐がある」と喜ばれた。
砦の名が広まり、来訪者が集い、宴が続いていくという繰り返しの中で、砦の空気が少しずつ変わっていくのを私は感じていた。
女の子たちが変わってきたのもその頃で、ある夜に一番背の低い子が客に酒を注ぎながら無意識のうちに背筋を伸ばした。
それを見た別の子が自分も背筋を伸ばし、その連鎖が静かに砦全体に広がっていくのを、私は席を回りながら見ていた。
ある夜の閉店後、一番背の低い子が真剣な目で聞いてきた。
「アリアさんみたいに接客したいんですけど、どうしたらいいですか」
「来訪者を主君への客将と心得て接すればよいと思います」
私が真顔で答えると、彼女は「客将……」と繰り返してしばらく考え、何かを掴んだような顔をした。
翌日から女の子の声の通りが変わり、視線が定まって客への向き合い方が変わったのを見た他の二人も、少しずつ変わっていった。
砦の兵が育っていく様子を見ながら、私は胸の奥に灯る何か温かいものを感じたが、それが何なのかはうまく言葉にできなかった。
◇
二週間目に入ると、開店前から来訪者が列を成すようになった。
白瀬殿が開店前に帳簿を眺めながら呟いた顔は疲れていたが、目の奥には確かに光があった。
「これ、夢じゃないよね」
「夢ではございません」
私が真顔で答えると、白瀬殿は「そうだよね」と苦笑する。
アレンが奥の扉から顔を出して帳簿を一瞥した。
「潰れなくて済みましたね」
一言だけ言って消える。
「言い方……」
白瀬殿が呟く。
開店と同時に席が埋まり、酒の匂いが濃く漂って笑い声が幾重にも重なり合い、砦全体が熱を帯びている。
「また来たよ」
常連になった男の言葉に、私は答える。
「忠義篤き来訪者と心得ます」
男が嬉しそうな顔をした。
二週間前、私は白瀬殿も女の子たちも来訪者たちも、何もかもが見知らぬこの砦のことを知らなかった。
それが今夜は人の声と熱気で満ちており、この場所が少しだけ自分の砦になってきた気がした。
◇
その夜遅く、見慣れない一団が入ってきた。
賑やかな男たちの中心に一人だけ場の空気に馴染んでいない男がおり、黒い髪で整った顔立ちをした彼は、近寄りがたいほどの静けさを纏っている。
連れの男たちが騒いでいる中、その男だけが微かに眉根を寄せて店内を見渡し、何かを探すか確かめるような目をしていた。
私が入口へ向かい、右手を胸に当てて深く一礼する。
「よくぞ参られた」
顔を上げた時、黒髪の男と目が合った。
連れの男たちはまだ騒いで笑い声を重ねており、砦の中の何もかもがいつも通りに動いているのに、その男だけが切り取られたように静止している。
男の口が、小さく動いた。
「——アリナ」




