第2話
目が覚めた時、窓の外はまだ薄暗かった。
体を起こして周囲を確認すると、見慣れない天井と壁が視界に入り、一瞬だけ城の自室を探した自分をすぐに律して諦めた。
ここはソレイユ王国ではなく、私はアレンと共に未知の国の未知の砦で夜を明かしたのだ。
隣でアレンがまだ眠っているが、戦場ではいつも私より早く起きる彼が珍しいと思いつつ、静かに立ち上がって扉を開けた。
店内に降りると礼央が一人でグラスを拭いており、カウンターの奥の薄明かりの中に立つその横顔を見た瞬間、昨夜と同じ動揺が胸の奥で揺れたが、一呼吸置いてそれを静かに飲み込んだ。
「起きたの、早いね」
礼央が振り返って声をかけてきたので、私は「騎士は夜明けと共に起きるものと心得ます」と即座に答えた。
礼央が苦笑してグラスを棚に戻すと「じゃあ、お茶でも」と誘ってくれたので、私は断る理由もなく頷く。
テーブルを挟んで向かい合うと礼央が湯気の立つカップを二つ置き、私には見慣れない器だったが、掌に伝わる熱からそれが温かい飲み物であることは理解できた。
「昨夜は忙しくて聞けなかったけど、君たち、どこから来たの」
と礼央が遠慮がちに聞いてくる。
「ソレイユ王国より参りました。ヴァルトシュタイン家の騎士、アリアと申します」
名乗ると礼央が少し間を置いて「白瀬礼央です」と返し、胸元から取り出した未知の薄い板を指で何度か叩き始めた。
礼央が眉を寄せて板を見つめている姿は、高度な魔導具を解析している賢者のようにも見えたが、「……どこにあるの、それ」という困惑した問いが返ってきた。
「東の山脈を越えた先の——」
と説明しようとしたところで、背後から「姉上」というアレンの鋭い制止の声が響く。
いつの間にか起きて扉のところに立っていた彼の意図を察して私が口を閉じると、礼央は「弟くん、おはよう」と柔らかく挨拶した。
アレンは「どうも」と短く返して椅子を引き、礼央を値踏みするように一瞥したが、それ以上の追及はしなかった。
礼央が「まあ、色々あるよね」と悟ったように笑ってカップを口に運び、深く追及してこなかったのは彼の度量の広さなのだろう。
しばらくして、礼央が「ここが何の店か、分かる?」と問いかけてきた。
「キャバクラ、と仰っていました。しかし詳しくは存じません」
と答えると、礼央は少し困ったように頭を掻いて説明を始めた。
「説明するの難しいんだけど、女性が男性のお客さんに酒を注いで、会話でもてなす場所、かな」
私はその定義を騎士の思考で解析し、すぐにある結論に達した。
「酒を注ぎ、会話でもてなす——心得ております。盃を捧げ、客将をもてなす作法は騎士の嗜みにございます」
騎士団の宴の席における外交と同義であると解釈した私に、礼央は「……微妙に違う気がするけど」と困惑したように呟いた。
アレンが「姉上、それは——」と小声で訂正しようとしたが、私が既に軍議で全会一致を得た時のような深い頷きを見せていたため、彼は静かに口を閉ざした。
グラスが空になった頃、礼央がカウンターの奥に戻って帳簿を開き、しばらく無言で数字を追ってから、誰にも聞こえないような小さなため息をついた。
アレンがその横顔を一瞥して「経営が苦しいのですか」と単刀直入に尋ねると、礼央は少し驚きつつも「まあね」と苦笑して事情を話し始めた。
「先月、うちで一番人気の子が辞めてさ。大手の店に引き抜かれて、客もごっそり持っていかれちゃったんだよね」
礼央の口調は柔らかいままで、裏切り者に対して恨みや怒りを向けている様子は微塵も感じられなかった。
己の采配の至らなさを静かに受け入れるその姿は、離反した兵を責めずに見送る高潔な将の姿に重なり、やはり主君に似ていると強く感じた。
アレンがテーブルの向こうで礼央を観察していたが、一瞬だけ私を見てから「姉上の判断に任せます」と静かに告げた。
その言葉に背中を押され、私は礼央に向き直った。
「砦の力になりたいと心得ます。お役に立てるかは分かりませんが、やれるだけのことはやりましょう」
礼央が驚いた顔で「でも君、キャバクラの経験は」と聞いてきたが、私は自信を持って「謁見の場での作法なら心得ております」と宣言した。
「それキャバクラじゃないんだけど」という礼央の困惑した苦笑は、謙遜と受け止めておくことにした。
◇
夕方、礼央が一着の白いドレスを持ってきて「サイズ合うといいんだけど」と差し出した。
更衣室で袖を通した瞬間、騎士の正装より遥かに軽い布地の感触に驚いたが、腕を動かして足を踏み出すと、体はすぐにその軽快さに順応した。
防御力を極限まで削ぎ落とし、機動力のみを究極まで高めた特殊な隠密戦装束なのだろうと大真面目に分析し、重心の取りやすさに感銘を受ける。
鏡の前に立つと、金の髪が白いドレスの上で光を受けて揺れており、鎧の下に隠れていた自分という存在が剥き出しになったような見慣れない姿があった。
私はしばらく自分を観察して「悪くはない」と判断したが、これは潜入任務のための完璧な擬装であると体が判断したのかもしれない。
更衣室の扉を開けると、出勤してきたらしい三人の女子たちが廊下で固まってこちらを見ていた。
彼女たちが絶句して立ち尽くしている姿は、初陣を前に圧倒的な実力差を見せつけられた新兵特有の緊張状態に見え、私は頼もしく思って右手を胸に当てた。
「本日より共に戦う同士と心得ます。よろしくお願いいたします」
私の騎士の礼に彼女たちはさらに石のように固まったが、これは私という精鋭の合流に恐縮しているのだろう。
奥から顔を出した礼央が私を見た瞬間に「あ」と小さく声を漏らし、「これは——売れる」と確信に満ちた呟きを漏らした。
アレンが礼央を横目で冷ややかに一瞥し、礼央は怯んだように「何でもないです」と小声で付け加えた。
◇
開店まであと一刻となり、私は廊下の窓から夜の街を見下ろした。
昨夜は混乱の極致に見えたあの雑踏も、今は守るべき砦を目前にした戦場であり、私にはここを守るべき大義がある。
やるべきことは決まっており、それだけで私の心は静かに研ぎ澄まされていた。




