第1話
最初に感じたのは、煙と油が混じったような嗅いだことのない空気が鼻を突く強烈な臭いだった。
次いで耳を劈くような轟音が断続的に押し寄せてきて、私は反射的に周囲の気配を探る。
敵はいないが、ここが戦場でないとも言い切れない。
見上げれば巨大な板が光を放ちながら明滅しており、黒く固められた石畳とも土とも違う未知の感触が靴底から伝わってくる。
途切れない人の波は誰も武器を持っていないというのに、全員がどこかへ向かって急いでいた。
何かが決定的にズレているが、戦場の前夜に酷似した異様な光景だ。
通り過ぎる人間たちが、露骨にこちらを見ている。
立ち止まって指を差す者もいた。
何かを連れの耳に囁き、くすくすと笑い合っている。
視線の向く先は私と、隣に立つアレンだ。
私は金の紋章を胸に刻んだ白いジャケットに磨き上げたブーツ。
アレンは黒地に銀の紋章、同じくブーツ。
騎士団の正装として、これ以上はないという礼服のはずだ。
「姉上」
隣でアレンが小さく告げる。
「我々の装いが、問題のようです」
「可笑しいか」
とこぼした独り言は声に出ていたらしく、アレンが小さく息をついて「可笑しいというより、目立ちます」と返してくる。
目立つことの何が問題なのかと思ったが、彼がそう言うならこの未知の戦場においては目立つことが不利なのだろうと解釈し、私たちは路地へ入った。
大通りから一本入った薄暗い場所に現れた男は、年は若く体格は並だが、笑みを浮かべた目がまったく笑っていなかった。
私は瞬時にこの男を悪意のある人間だと判断する。
一切の武装こそないものの、速やかに素手で制圧して排除すべき類の敵兵だ。
「お姉さん、ちょっといい?」
聞き慣れない無礼な呼ばれ方だったが、声の底にある下劣な意図は一瞬で理解できた。
男がアレンを一瞥して値踏みするような目をした瞬間、私の中で敵将討ち取りの決意が静かに固まる。
踏み込んで素手で制圧しようと右手が動いたその時、アレンが私の腕を掴んだ。
「姉上、状況が分からないので今は動かない方が」
言葉が終わる前に私はすでに迎撃の構えを解き、足を止めていた。
低く迷いのない声は彼が軍師として私に進言する時のものであり、この声の時の彼の判断が常に正しいことを私は骨身に染みて知っているからだ。
不満に唇を引き結んで耐えていると、男がにやにやしながら距離を詰めてこようとしたその時だった。
「すみません、この子たち知り合いなんで」
割って入った声が、空気を変えた。
低くて柔らかく、威圧するでもなくただそこにあるだけで場を収めてしまうその声に、男は一瞬怯んで舌打ちをひとつ残して去っていく。
私はその声の主を見た。
四十がらみの茶色い髪の男は、目尻に疲れの色を湛えつつも、長年人に向け続けてきたような慈愛に満ちた柔らかい笑みを浮かべている。
首筋の角度、威厳ある視線の置き方、そして重厚な声の低さ。
私の中で何かが激しく揺さぶられ、思わず「レオナルド様」と声が出そうになった。
出なかった。
体の芯にある何かが、辛うじて止めた。
「大丈夫?」
男が私を見て小首を傾けたその仕草までが敬愛する主君に酷似しており、気づけば私は頭より先に体が動き、右手を胸に当てて騎士の礼をとっていた。
「御助力、感謝いたします」
男が目を丸くして驚き、隣でアレンが「姉上」と小さく呟いた声には、慣れない異世界の空気よりも重い疲労が滲んでいた。
◇
礼央と名乗ったその男は私たちを近くの店へ連れていき、狭い階段を上がった先にはけばけばしい光を放つ看板と、扉の向こうから音楽らしき音が漏れる怪しげな施設があった。
私には何の施設か判断がつかなかったが、礼央が「俺の店なんだけど、よかったら」と言ったため、この建物が彼の治める重要な拠点であることだけは正確に理解した。
「ここが、貴殿の砦か」
感心して漏らした独り言に礼央が「え?」と振り返ったので、私は「いえ、失礼しました」と居住まいを正す。
礼央は苦笑して「砦って……普通のキャバクラだよ?」と言った。
キャバクラという防衛拠点の名は聞いたことがなかったが、大層な守りなのだろうと私は真顔で深く頷く。
アレンが隣で、本日最大の深いため息をついた。
礼央に通された部屋にはソファとテーブルがあり、壁に沿って補給物資と思しき酒瓶が整然と並んでいる。
「今夜、泊まる場所はある?」
礼央が遠慮がちに聞いてきたので、「ありません」と私は即座に答えた。
礼央が頭を掻いて「そっか。じゃあ、まあ、今夜はここ使っていいよ。狭いけど」と提案してくれる。
アレンが「姉上」と低く警告を発したのは、見ず知らずの者の陣地に安易に入り込むなという意味だと痛いほど分かった。
分かった上で、私の体はすでに忠誠の姿勢をとり、右手を胸に当てていた。
「御厚情、感謝いたします」
礼央がまた目を丸くして困惑し、アレンがとうとう額に手を当てた。
◇
深夜、アレンが眠った後に私は一人で窓の外を見ていた。
夜なのに暗くならない消えない光が溢れており、騒がしくて煙たくて、何もかもが見慣れない異世界だ。
主君はいないし、帰るべき城もなく、素手で首を折るべき敵兵も、命を懸けて守るべき陣地もない。
私は今、何者でもない。
その事実がじわりと胸の底に沈んでいき、痛みというほどではないが、脱ぎ捨てられない重い鎧のように確かな質量を持っていた。
ふと、礼央の横顔が浮かぶ。
あの声の低さ、視線の柔らかさ、目尻に刻まれた疲れの色を見て、ただ純粋に「主君に似ている」とだけ思ったのだ。
窓の外で、砦——キャバクラとやらを示す看板の光が明滅している。
私はそのけばけばしい光を少しだけ心強く思いながら見つめ、静かに目を閉じた。




