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幕間 白い悪魔

 ――8月δ日。中国の首都、北京にて。


 国務院――それは他国で言う内閣に相当する、中国の最高行政機関である。


 馬粛(マー・スー)という人物がいる。

 国務院を構成する5名の国務委員の1人だ。

 馬粛の管掌領域は、中国全土における防災・衛生健康・交通運輸。この領域において彼の上に立つ人物は、総理と国家主席の2名しかいない。


 50代前半の彼は、ゆくゆくはその2つのポジションにさえ上り得る人物として、将来を嘱望(しょくぼう)されていた。


 この日、馬粛が中南海の官舎で最初の電話を受けたのは、朝の6時を過ぎた頃だった。


「――私だ」


 朝食前の私的な時間を邪魔された馬粛は、眉根を寄せながら電話に出た。


馬粛(マー・スー)! き、聞いてくれっ!』


 電話の相手は、明らかに慌てふためいていた。

 馬粛は声を聴くや否や、その相手が上海(シャンハイ)市長の陳であることを理解した。

 上海出身の馬粛にとって、陳はかねてからの知己でもある。



 上海は、世界最大の貿易港である。

 「Acu-SHE」の脅威に晒されている現状、従来より規模を縮小してはいるものの、港は未だ稼働を続けていた。

 上海での感染流行を如何(いか)に防ぐかは、馬粛に課せられた重要課題の1つだった。



『――我々が恐れていたことが、遂に起こってしまったっ!』

「何だとッ!」


 血を吐くような陳の言葉を聞き、馬粛の顔がサッと青ざめた。


 ……馬粛らが恐れていたこと。

 それは、まさか――――


『上海で、大規模な海霧(・・)が発生してしまった! 街中どこを見渡しても真っ白だ!』


 その言葉を聞いた瞬間、馬粛は足下の地面が崩壊し、自身が奈落に吸い込まれる幻覚を見た。


「――――馬鹿な…………ッ」


 海霧――――汚染された海面上で発生するそれは、当然のようにエアロゾル化した「GRIM」粒子をふんだんに含んでいる。


 つまり、〝それ〟が意味することは――――…………




    †††




「――――上海の防疫対策を見直したい?」

「はい」


 中国国家主席である劉昭宸(リュウ・ジャオチェン)に対して、馬粛(マー・スー)がその意見を具申したのは、8月γ日――まさにδ日の前日のことだった。


「……今さら、そんな必要があるのかね?」


 劉昭宸にとって、上海での対策は既に一段落した話だった。

 海岸を封鎖し、港湾や船舶での仕事に従事する者には防護服の着用など感染対策を徹底させた。

 「GRIM」の存在を前提とした船舶運行時のマニュアルも用意し、「Acu-SHE」の発症は最小限に抑えることができている。


 ――これ以上、何が必要だと言うのか。

 そのリソースを、もっと他所の対応に割くべきではないか。


 劉は、素朴にそう思った。

 対する馬粛は、神妙な表情で訴える。


「……この時期、あの地域ではたびたび〝海霧〟が発生することがあります。上海の街をすっぽりと覆い、数歩先も見通せなくなるほどです」


 上海出身の馬粛には、それが起こった際の惨事を容易に想像できた。



 「GRIM」という、目に見えない脅威を内包した白い霧が全方位から襲いかかる――。

 老若男女を問わず、半日以内に死に至らしめる恐ろしい災厄だ。


 気密性の低い個人防護具、ましてマスク1枚で防げるような相手ではない。


 海霧発生時に屋外にいれば、化学防護服でも着ていない限り感染を免れないだろう。



「――なるほど……。備えが必要なことは理解した」


 馬粛の話を聞き終えた劉は、態度を軟化させた。

 ――とはいえ、劉が直々に対処すべき案件だとは思わなかった。


 劉にとって、目下の大事は中国が誇る二大大河――長江と黄河流域でのアウトブレイクを如何に防ぐかということだった。

 神ならぬ人の身である劉は、起こり得る全ての危機に自身の頭脳と体力を動員することができなかった。


「――では、君がその対策の指揮を執りたまえ」


 それが、劉が下した結論だった。


 馬粛は慇懃(いんぎん)な礼と共に劉の元を辞去した。

 その後、直ちに上海の陳市長を始め、関係各所に連絡を取って警戒体制の構築に取り掛かった。



 しかし――、


 たった1日で盤石な体制を整えることは、不可能だったのだ……。




    †††




 ――δ日、午前5時過ぎ。


 最初に〝それ〟に気づいたのは、港湾の荷役作業員だった。


「……おい、霧が出てきたぜ」

「うへえ、ホントだ」


 相方にそう言われた作業員は、慌てて顎まで下ろしていたマスクを上げ、鼻を隠した。

 ――マスクは常に鼻まで覆うように装着すること。……市当局や会社側から厳格な注意が出されていたが、夏の暑さに耐えかねて従業員が顎マスク状態で作業を続ける事態が横行していた。


「――これさ、中に例の病原菌が混じってんじゃねぇか?」

「……やめてくれよ。そんな怖いこと言うのは」


 それは理性的な想像だったが、どちらもまさか自身がそれに(かか)るとは想像できずにいた。


「今日が休みになったらいいのになあ……」

「同感」


 この2人の願いは、間もなく叶うことになる。


 ――ただし、それから数時間以内に起こる悲劇は、2人の望むところではなかった……。



    †



 市内の公園では、早朝から日課の太極拳に勤しむ老人の姿が見られた。


「……ん?」


 老人は不意に霧が立ち込めてきたことに気づいた。……が、ゆったりとした型稽古を休止することはしなかった。


 ――なるべく、早く済ませて帰宅しよう。


 そう思っただけだった。




 ――この日、朝早くから外出した者の中で、霧を見て即座に引き返す判断ができた者は稀だった。


 多くの者は、足早に霧の中を通り抜けようとした。

 マスクをしっかりと装着する者、息を止め、目を細めて走り抜ける者もいた。――が、それらの些細な工夫は、空間に隙間なく広がる霧という魔物に対してさほどの効果を持たなかった……。




    ††




「――今すぐ警報を出せ! ……ただし、外出者をそのまま帰宅させるな! 1箇所に隔離するんだ。二次感染が起こるぞ!」


 ――6時10分。


 馬粛(マー・スー)は中南海の官舎から、電話口で陳市長にまくし立てた。


 最悪は、既に起こってしまった。

 今できることは、少しでも被害を小さく抑えることだ。


『――わ、わかった!』


 馬粛との電話を終えた陳市長は、部下たちに矢継ぎ早に指示を飛ばす。土曜の早朝の内に緊急事態を宣言し、災害対策本部を立ち上げることを即決した。


 上海市の至る場所で警報が鳴り、避難のアナウンスが為されたのは6時半のことだった。


 ……ただし、外出者を1箇所に集める作業は難航した。


〝――そこへ行けば、潜在的な感染者と見なされる〟


 それを理解した市民は、黙って帰宅するか、そのまま屋内に立てこもることを選んだ。

 港湾作業員など言い逃れができない者を除き、行政の指示に従った者はごくわずかだった。




 市長との電話を終えた馬粛の頭には、1つの懸念が浮かんでいた。


(……空調や換気は、命取りにならないだろうか……)


 ――屋内に居れば、本当に安全なのか?


 それが彼の懸念だった。


 上海市をすっぽりと包み込んだ濃霧。

 ……例え屋内に居ても、外気を取り込んでしまえば同じことではないのか――?


 8月δ日の朝時点では、その検証さえ不十分だった。


 馬粛は急遽、「GRIM」の性質に詳しい国内の科学者に片っ端から連絡し、意見を求めた。


 その結果は――――



『――都市部の家庭やオフィスでは、HEPAフィルター式の空気清浄機が普及していますからリスクは低いでしょう。……ただし、そうではない一般家庭で換気扇などで外気を取り込んでいる場合、「GRIM」が侵入する可能性は高い。――最悪なのは、古いセントラル空調式の建物です。この仕組みの場合、建物全体が〝死のガス室〟になり得ます』



 馬粛は即刻、科学者の見解を上海市長をトップとする市の災害対策本部に伝達した。

 それが午前8時頃のことだった。


 ――海霧の発生から、既に3時間が経過していた。




    †††




 ――なぜ中国政府は、この災害が起こる前に上海港を閉鎖する判断ができなかったのか?


 その理由は、主に2つ。


 一つ、世界の感染災害対策を物資面で支援するため。

 一つ、自国の経済を守り、国家の破綻を防ぐため。


 大きな前提として、中国は「世界の工場」と呼ばれる加工輸出大国である。

 また上海港は元来、世界最大のコンテナ取扱量を誇る港だった(・・・)


 まず、1つ目の理由について。

 「世界の工場」たる中国は、N95マスクや個人防護具(PPE)といった防疫物資についても世界最大の生産拠点だ。

 それだけではない。注射器や人工呼吸器などの医療機器、そして医薬品の原薬(API)も中国から多く輸出されている。


 上海港の稼働は、世界が「GRIM」や「Acu-SHE」への抗戦を続けるために必要不可欠だったのだ。


 次に、2つ目の理由について。

 これには、輸入港としての上海港の性質が大きく関わる。


 上海とその背後に広がる中国最大の巨大経済圏の胃袋を賄う日々の食糧は、上海港に届く冷蔵・冷凍コンテナの輸入に依存している。

 港を数日止めるだけで、中国人口の半分以上が暮らす東海岸中で食料品の供給が途絶え、大規模な暴動に発展しかねなかった。


 ――これらの理由から、当局は上海港の稼働を止めることができなかったのだ。



    †



 そんな、人類にとって最重要拠点とも呼べる上海をこの日、白い悪魔が蹂躙(じゅうりん)した。


 火消しに奔走する馬粛や陳には、しばらく気づかなかった事実が1つあった。――それは、痛恨の見落としだった。

 その見落としとは、地下鉄及び駅に隣接する広大な地下空間の存在だ。


 地下の換気機構は、科学者が述べた「セントラル空調システム」と同様に機能する。――大きな換気塔によって吸い込まれた高濃度の「GRIM」を含む地上の汚染空気が、行き場のない地下空間へ延々と散布され続けていた。



 ――――上海の地下鉄は、1日1000万人以上の乗客が利用する都市最大の交通網だ。



 災害対策本部の1人がようやくこのリスクに気づいたのは、午前も終わり際になってのことだった。

 その時点で予想される被害規模は、誰もが目を覆いたくなるほどに広がっていた……。




    †††




 一夜明けて、8月ε日――。


 2500万人の上海人口の内、実に50万の人命がこの世から失われた。しかもその数値は、これから益々増大すると予想された。


 この災害は、人類史においても最大級の被害を生んだ事件の1つとなった。

 上海の都市機構、及び港湾施設は、この事件を以って完全に機能不全に陥った。



 ――それでもなお、「GRIM」による地球侵攻は、未だ始まったばかりだった…………。







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