11. 崩壊の足音
――時は、7月μ日。G7+サミット閉幕の翌日まで遡る。
日本では茨城県の崩壊が決定的になり、千葉県内でも「Acu-SHE」の大きなアウトブレイクが勃発して間もない頃だった。
内閣総理大臣の汐崎崇元は、列島を絶え間なく襲う災害に息つく暇もなく対応に追われていた。
忙しない状況の最中、汐崎は午後に予定していたオンライン会議の席に臨む。
その会談の相手とは――――
†
「――総理は、都民に『死ね』と仰るんですか?」
千石紗由美。
現在、任期7年目となる現職の東京都知事だ。
紗由美はビデオ会議の画面越しに、総理に対して怒気を露わにしていた。
常日頃は穏やかな性格の彼女が怒りを表す――そこには、相応の理由があった。
歯に衣着せない紗由美の物言いに対する、汐崎の回答は――
「……誠に遺憾ですが、そう取られても仕方がない状況です」
紗由美を愕然とさせるだけの威力を持っていた。
汐崎はまるで通夜のような沈痛な面持ちだったが、言葉を濁しはしなかった。
その言葉の意味を咀嚼した後、紗由美は目の前が真っ暗になるのを感じた。
「……信じられない……」
紗由美は両肘をデスクにつき、がっくりと項垂れた。
――――まさか、首都が切り捨てられるなんて…………
それだけは起こらないと思っていた。
――1,400万の人口を抱える日本最大の都市が、国家から見捨てられるなんて……
そんなことがあるとしたら、それは日本が日本でなくなるときだ。
紗由美はそう信じていた。
しかし、現実は残酷だった。
汐崎の明かした「計画」の意味するところは、そういうことだった。
――どうやら、この「Acu-SHE」という災禍を前にしては、あり得ないなどということはあり得ないらしい。
「…………」
汐崎はしばらく沈黙を守った。
その無言の重圧の中、紗由美は必死で荒れ狂う感情の波を抑え、冷静になろうとしていた。
――首都、移転計画。
この会談における汐崎の話の主旨は、その存在を紗由美に暴露することだった。
「――日本という国を少しでも生き永らえさせるためには、仕方ないことなのです」
「……他に、他に手はないんですか……っ!」
紗由美は、血を吐くような声を発した。
彼女は、そこまで状況が悪いとは想像していなかった。
確かに茨城県では行政の機能が喪失し、汚染は首都圏に迫りつつあった。
――しかし、つい昨日、G7+サミットが成功裏に終わったばかりだ。
きっと、これから人類の巻き返しが始まる。
――紗由美は、そんな映画のような展開を期待していた。
……だが、それは儚い期待に過ぎなかった。
――東京だけじゃない……。首都圏は、これから地獄に変わる……
紗由美の脳裏に、1〜2週間後の首都圏の姿がまざまざと浮かんだ。
「――いつですか……? 首都の移転を実施するのは」
「汚染の進行次第です。……ですが、そう遠くはないでしょう」
それは明日起こってもおかしくないし、遅くとも1週間以内には起こる――そう予測されていた。
(最悪だわ……。どこにも逃げ場なんてない……。きっと、ゾンビ映画みたいなことになる……)
日本のどこを探しても、首都圏に住む3,700万人の人口の受け皿になれるような土地などない。
無秩序な移動を許すわけにも行かない。
人々は1都3県から成る巨大な檻の中で、安全な水の供給を絶たれて数日で干からびていくのだ。
ゾンビそのものはいなくても、暴動は避けられないだろう。水や飲料を取り扱う店は、略奪の対象になるだろう。それは既に、茨城など災害が発生した土地で起こったことだ。
「――少しでも、都市の混乱を抑えていただけると助かります」
汐崎総理の切実な訴えは、紗由美の神経を逆撫でした。
「……勝手なことを……っ」
――自分たちは逃げるくせに……
紗由美はつい、そんな怒りの込もった言葉を漏らしてしまった。
……だが、このぐらいの恨み言は許されるだろう。
――自分はあのタイタニック号の船長のように、沈みゆく大船とこれから運命を共にするのだ。
紗由美は来たるべきその日に向けて、覚悟を決めなければならなかった。
†††
――8月γ日の夜10時頃。世田谷区某所にて。
比護徹心は、重い疲労を引きずるようにして自宅マンションに帰宅した。
この日も「Acu-SHE」という災禍の勢いは、留まるところを知らなかった。
宮城県では主要な水系が複数汚染され、新たに災害認定が出された。
九州では、降雨を原因とする数十名規模の「Acu-SHE」発症が確認された。
――そして、首都圏。
遂に、利根川水系最大の支流である渡見瀬川でアウトブレイクが起こった。汚染の進行は、日本最大の遊水地である渡見瀬遊水地にまで及んだ。
政府は、ただちに渡見瀬遊水地からの取水を停止した。……が、それが単なる一時しのぎであることは明白だ。
最早、「GRIM」の汚染は首都の喉元にまで迫っている――比護はそう理解していた。
「……ん?」
マンションのエントランスに入ったとき、比護は微かに違和感を覚えた。
しかしその正体はわからないまま、いつもと同じように部屋の前まで辿り着く。
比護は鍵を開け、無言で室内に入った。
――この日まで比護は、一人暮らしをしていた。
†
数か月前、妻と息子がこのマンションを出て行ってから、比護は3LDKの広い部屋を持て余していた。
数回に渡った離婚調停は、未だ解決に至っていない。
――自分が悪かったのだろう。
比護はそう思っていた。
仕事の忙しさを理由に、家庭を蔑ろにしてしまっていた。
それでも離婚という別れをすぐには受け入れられず、親権争いという形での調停を続けていた。
「Acu-SHE」の大騒動が起こったのは、そんなときだった。
この騒動によって、次の調停の予定は白紙になってしまった。
……もしかしたら、前回の調停が今生の別れになるかもしれない。
そう思った比護は、この1週間で何度か妻に連絡を取ろうとした。
何度目かの電話で、やっと直接話すことができた。
可能な範囲で「Acu-SHE」の実情を伝えると、妻――彩乃は息を呑んでいた。
『――琢磨にも、くれぐれも気をつけるように伝えてくれ。安全でない水に決して近づかないように』
比護はそう強く念押しした。
それが、この3日前のことだった。
†
「――お帰りなさい」
懐かしい妻の肉声を聞いて、比護はタイムスリップしたような不思議な感覚に襲われた。
見れば、乱雑に物を放り出していたはずの廊下もきれいに片付いていた。
――先ほど比護が感じた違和感の正体は、これだった。
家に誰かがいるという、微妙な気配の違いを察したのだ。
「……おま……帰って来たのか……?」
――我ながら、間抜けな顔をしている。
呆然と声を発しながら、比護はその事実を自覚した。
法的にはまだ正式な妻である彩乃は、そんな比護の表情を見て苦笑した。
自ら家を出ていったはずの彩乃は、なぜか未だにこの家の鍵を持っていた。
玄関には彩乃の靴の他、小さな子供用の靴もあった。
「……琢磨は?」
「待ちきれなくて、先に寝ちゃったわ」
そんな会話の後、彩乃は比護が疑問に思っているだろう件の答えを告げる。
「――政府から連絡があったの」
「そうか……」
彩乃のその一言がどんな意味を持つか、比護にはよくわかった。
「……もう、どうにもならないんでしょう?」
「ああ……」
比護は、溜め息を漏らすようにして答えた。
そう。
彼女は〝あの計画〟の情報を聞いたのだ。
その上で、ここに来ることを選んだ。
彩乃は未だに玄関に突っ立っている比護の元に歩み寄り、荷物を下ろさせる。
そして、そっと比護の胸元に身を寄せた。
「……私たちのこと、ちゃんと守ってよ」
彩乃の肩は、小刻みに震えていた。
比護は戸惑いながらも、彼女のその細い肩に両腕を回した。
「……ああ、守るとも。――たとえ、この世界が終わっても……」
そんな比護の言葉を聞いて、彩乃が比護に見えない角度で笑みを浮かべた。
「――大げさね。安っぽい映画の台詞みたい」
「……悪かったな」
――別に、ちっとも大げさじゃないんだが……。
しかし比護は、わざわざそれを言うことはしなかった。
――妻と子が自分の元に帰って来たのは、ある意味で「Acu-SHE」のおかげなのかもしれない……
比護はその事実を喜ぶべきか、悲しむべきかわからなかった。
ただし、
――2人の命は、他の何を犠牲にしてでも守ろう。
比護は、そう固く心に誓った。
††
この日、WHOは世界に「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言。国際社会に対し、最高レベルの警戒を公式に要請した。
未曾有の災害は、着々と世界に広がっていた。




