10. 偽りの希望
――8月γ日、金曜の午後。
日本の内閣災害対策本部は、官邸にて臨時の記者会見を開いた。
その主な目的は、この日に緊急承認が出された「Acu-SHE抑制剤」を発表することだ。
それ自体に変更はなかったが――――
「――ご紹介に与りました宇梶です。若輩の身ではありますが、榊前室長に代わって大任を務めさせて頂きます」
日本で「Acu-SHE」に対する科学的対策を主導してきた科学対策統括室――通称「AQUAチーム」。
その室長交代という一大事についても、急遽その場で発表されることとなった。
宇梶慧。
8年前、天文学分野で最も権威ある博士論文に贈られる『太平洋天文学会ロバート・J・トランプラー賞』を受賞。
30歳を前にして一躍、国際的に有名な若手研究者となった。
2年前には、日本学士院学術奨励賞を受賞。――国内での地位を盤石とした。
まさに時代の寵児とも呼べる研究者だが、年齢は未だ37歳。
各界の権威が居並ぶドリームチームとなったAQUAチームを率いるには、あまりにも若い。
――ではなぜ、彼が国家の趨勢を左右するこの要職を担うことになったのか?
その最大の理由を明かしたのは、汐崎総理だ。
「――榊前室長は、『Acu-SHE』に感染してしまいました」
先週の山田副室長の訃報に続く、AQUAチームのトップを襲った悲劇。
その事実は、記者団を震撼させた。
「……幸い、『Acu-SHE抑制剤』のおかげで一命は取り留めています」
続く汐崎の言葉に、記者団の多くはホッと安堵の息を吐いた。
「しかし、室長職を継続するのは厳しい状態です」
若すぎるという問題はあるものの、榊の直接の教え子であった慧がバトンを受け取ることについて、この場で問題視されることはなかった。
……それどころではない話題が、後に控えていたからだ。
会見の話題は、「Acu-SHE抑制剤」へと移った。
文字通り降って湧いた災厄である、人類史上最悪の致死性感染症「Acu-SHE」。
その死を防ぎ得る薬剤が、災害発生からわずか11日で緊急承認を得るに至ったのだ。
――それは、この地獄に変貌しつつある世界に救済を齎す福音である。
多くの人々が、そう信じていた…………。
「…………ドラッグ・リパーパシング――――既存の医薬品を転用することで、『Acu-SHE』の〝死の発作〟から命を守れるとわかりました」
その成果を発表したのは、プロジェクトのリーダーであり、最大の功労者であるゲノム・フロンティア社社長――本庄亜梨朱だ。
――しかし、亜梨朱の表情からは、喜びも誇りも感じられなかった。
亜梨朱の性格をよく知る記者は、彼女のその態度を不思議に思った。
その記者は、勝ち気な亜梨朱の得意顔がこの晴れの場で見れることを期待していたのだ。
……だが、現実の亜梨朱は、全身から悲壮感を漂わせていた。
目の下の濃い隈をメイクで誤魔化し、人知れず胃痛と戦っていた。
――きっと、疲れているのだろう…………。
記者はそう思い、深く考えることはしなかった。
会見は予定通りに進行した。
発表が終わった後で、数分ほど質疑応答の時間が設けられた。
「――既存薬の転用とはいえ、この短期間で新たな感染症に有効な薬剤が承認されたのは大変素晴らしいことだと思います」
ある記者の言葉だ。
彼女はまず、亜梨朱たちの功績をそのように称賛した。
亜梨朱はわずかに顎を引き、目礼した。
それから、記者はこう訊ねた。
「――これで人類は救われた、と思っていいのでしょうか?」
「それは――――ッ」
瞬間、亜梨朱の目が見開かれた。
……それは、想定された質問の1つに含まれていた。
しかし、亜梨朱は言葉に詰まってしまった。
亜梨朱の脳内で、昨日天国から地獄に突き落とされたときの記憶がフラッシュバックする。
心臓が早鐘を打つ。……亜梨朱は、息苦しさを感じた。
彼女の思考は袋小路に入り、用意していた回答への道筋が消え失せた。
――――数秒の、長い沈黙が続いた。
亜梨朱の隣に座っていた慧が、見かねてマイクを構える。
「……これで人類が助かった、と判断するのはまだ早計でしょう」
広い記者会見室に、大きなざわめきが起こる。
慧のその言葉は、期待に浮足立っていた人々に冷や水を浴びせるものだった。
慧は人々の反応を気にも留めず、淡々と語り続ける。
「いま人類は、恐ろしい勢いで蔓延する感染症に、やっとの思いで『抑制剤』という名の防波堤を立てたところです。
……幸い、この『抑制剤』のおかげで榊先生を始め、多くの患者が一命を取り留めることができています」
ポジティブな言葉を聞き、記者たちが正気に返る。
――裏側の真実を知る慧は、むしろここで眉をひそめた。……が、それを不審に思う者はこの場に居なかった。
「――しかし、ひょっとしたら後遺症が残るかもしれません。薬が手放せない生活になるかもしれない……。
つまり、我々はまだ『Acu-SHE』を完全に克服できたわけではないんです。――ですから、国民のみなさまには引き続き感染対策を徹底して頂きたい。これが私の願いです」
なるほど、と多くの記者が頷く姿が見られた。
――その言葉は、決して嘘ではなかった。
しかし一方で、慧が知る事実の全てでもなかった。
……現時点でその欺瞞に気づく日本人は、ほんのひと握りしかいなかった。
語り終えた慧が、ちらと隣に視線を送る。
それを受け、なんとか立ち直った亜梨朱が言葉をつなぐ。
「――こ、これからもっと完璧な薬を研究して開発するつもりです。それまでどうか、命を大切にお過ごしください!」
――――会見の終わり際、ある記者が次の質問を発する。
「治験に参加した患者の中で、重篤な脳障害によって廃人のようになった人がいると伺ったのですが…………」
「――――――」
亜梨朱も慧も、その質問に顔を俯かせ、沈黙した。
「えー……それでは、お時間になりましたので、質疑応答はこれで終了とさせて頂きます」
官房長官のその台詞を以って、臨時の記者会見は幕を閉じた。
ざらつくような、後味の悪さを残して…………。
†††
日本人を主な利用者とする、インターネット上のある巨大掲示板サイトにて――。
以下のスレッドは、この8月γ日に立てられたものである。
†
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『【速報】8月γ日 内閣災害対策本部 記者会見スレ』
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0001 名無しの記者 12:47 ID:Yae6eash
このスレは8月γ日15:00〜に内閣の災害対策本部が行う臨時記者会見に関するスレッドです。
実況スレ https://████/█/
…………
……
0107 名無しの記者 14:59 ID:a+jiC3ei
まだ開始前なのに、結構スレ伸びてんな〜
0109 名無しの記者 15:00 ID:tueD7Ino
>>107 やっぱ、あれだろ。Acu-SHEの治療薬に対する期待ってやつ
0112 名無しの記者 15:01 ID:oH5S/eSo
>>109 「対症薬」だろ定期
……ってか、もう会見始まったぞ
0114 名無しの記者 15:02 ID:gaeXei2i
>>109 えっ! Acu-SHEの薬、もう出来たの!?
0117 名無しの記者 15:03 ID:Zaing8ya
>>114 そうそう。今朝承認されたんだよね
コロナのときより早い
0120 名無しの記者 15:04 ID:Veibee7c
>>117 ――なら、ようやくこのお祭り騒ぎも幕を閉じるということか!
0122 名無しの記者 15:04 ID:ieQuait6
>>120 …………大変だったよね…………
0123 名無しの記者 15:05 ID:tueD7Ino
>>122 ホントそれ
0125 名無しの記者 15:06 ID:a+jiC3ei
…………茨城はいいヤツだったよ
0127 名無しの記者 15:06 ID:tueD7Ino
>>125 おい、やめろよ。バカ
0129 名無しの記者 15:07 ID:oH5S/eSo
>>125 茨城以外もヤバい県がちらほら…………
0132 名無しの記者 15:08 ID:Zaing8ya
>>129 福島とか、新潟とかね…………。――栃木もかな?
0134 名無しの記者 15:08 ID:ieQuait6
――ところで、会見の席にいつもは見ないお兄さんがいるんだけど、誰かわかる?
0137 名無しの記者 15:09 ID:Aw4gufu4
>>134 ほんまや。……逆に、いつものおっちゃんがおらんな
0140 名無しの記者 15:10 ID:tueD7Ino
>>137 サカキさんだっけ >いつもの
交代でもしたのかな?
0143 名無しの記者 15:11 ID:oH5S/eSo
>>134 >>140 ……交代したみたいだな
宇梶ってあれだろ。帝都大准教授の天才宇宙科学者
35は超えてたはず
0145 名無しの記者 15:11 ID:Aw4gufu4
>>143 なんや、その悪の組織の大幹部みたいな肩書き
0148 名無しの記者 15:12 ID:WaalaeG7
>>134 >>145 宇梶准教授。日本の宇宙物理学研究の第一人者。
榊氏の教え子でもあるらしい
0151 名無しの記者 15:12 ID:Aw4gufu4
>>143 >>148 へー、そうなんや。……見た目若いな。裏山C
0152 名無しの記者 15:13 ID:tueD7Ino
ってかサカキさん、Acu-SHEなのかよ!
組織のトップが感染してちゃダメじゃん!
0154 名無しの記者 15:13 ID:a+jiC3ei
>>152 ww これはぐぅの音も出ない
0156 名無しの記者 15:14 ID:oH5S/eSo
>>152 その通りすぎる
0159 名無しの記者 15:15 ID:tueD7Ino
あー……。でも、薬で助かったんだ。良かった
0163 名無しの記者 15:16 ID:Veibee7c
>>159 ほえ〜。やっぱ、ちゃんとした薬なんだなぁ
0166 名無しの記者 15:17 ID:gaeXei2i
>>163 当たり前じゃんw
……これで、人類大勝利?
0169 名無しの記者 15:18 ID:Zaing8ya
>>166 パニック映画なら、ここで終わっても文句は出ない。
ってか、頼むから終わってくれ
0173 名無しの記者 15:19 ID:Veibee7c
>>169 そして、時は流れ……――人類社会はディストピアに?
0175 名無しの記者 15:19 ID:Aw4gufu4
>>173 なんでやねん
0177 名無しの記者 15:20 ID:gaeXei2i
>>173 ジャンル変わってるしw
0181 名無しの記者 15:21 ID:tueD7Ino
>>166 >>169 ……まだ安心できないらしいぞ
0183 名無しの記者 15:21 ID:Zaing8ya
>>181 知ってた()
0186 名無しの記者 15:22 ID:WaalaeG7
発表された「抑制剤」3種は、いずれも免疫を抑える薬。免疫抑制剤としても知られる。
……つまり、病気に罹りやすくなったりするリスクもある
0189 名無しの記者 15:23 ID:Aw4gufu4
>>186 めっちゃ詳しいやんw ヤバいな
0192 名無しの記者 15:24 ID:ieQuait6
榊さんは大丈夫なんでしょうか……?
0195 名無しの記者 15:25 ID:tueD7Ino
>>192 室長交代してるぐらいだからね。絶対安静とか?
0198 名無しの記者 15:26 ID:Veibee7c
ハイ、注目!
ここで、みんな大好きありすちゃんの登場だヨ!
0200 名無しの記者 15:26 ID:oH5S/eSo
>>198 えぇっ……、キモ…………
0202 名無しの記者 15:27 ID:Veibee7c
>>200 ユーはショック…………
0205 名無しの記者 15:28 ID:gaeXei2i
>>202 (笑)
ありすちゃん、かわいいよね
0207 名無しの記者 15:28 ID:Veibee7c
>>205 おお、同志よ!
0209 名無しの記者 15:29 ID:tueD7Ino
>>198 でも、なんかちょっと疲れて見えるな
0212 名無しの記者 15:31 ID:a+jiC3ei
>>209 そりゃあね。この短期間で薬の承認もぎ取ったわけだし
地獄のような激務だったと思われ
0214 名無しの記者 15:31 ID:oH5S/eSo
>>212 おいたわしや……
0217 名無しの記者 15:32 ID:Veibee7c
>>212 >>214 ありすちゃんを癒すために、俺たちに何ができると思う?
0220 名無しの記者 15:32 ID:WaalaeG7
>>217 A:とりあえず、ありすちゃんって呼ぶのをやめる
0222 名無しの記者 15:33 ID:tueD7Ino
>>220 www
0225 名無しの記者 15:34 ID:Aw4gufu4
ところで、Acu-SHEの後遺症ってどんなの?
0228 名無しの記者 15:35 ID:Zaing8ya
>>225 さあ……私の知ってるAcu-SHE患者は、みんな死んでしまったので……
0231 名無しの記者 15:36 ID:WaalaeG7
>>225 治験に参加した患者の中で、脳への障害が見られたという話がある
0233 名無しの記者 15:36 ID:gaeXei2i
>>231 なにそれ! やばっ!
0235 名無しの記者 15:37 ID:oH5S/eSo
>>231 やっぱり、そんなに上手い話じゃなかったか……
0237 名無しの記者 15:37 ID:Zaing8ya
>>231 まだ続くのか……
誰か、嘘だと言ってくれ……
…………
……
0271 名無しの記者 15:46 ID:tueD7Ino
――――脳障害で廃人って、マジで…………?
絶望かよ




