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幕間 この世の終わり(下)

 ――8月β日午後、ワシントン。


 ケネス・ハリソン米大統領は、ホワイトハウスの地上から地下の危機管理室に移動していた。

 もちろん、ケネス1人ではない。数名の大統領補佐官が彼に付き従っており、また危機管理室内では、国防長官など少数の政府高官が待機していた。


 つい先ほど、GTRO――全球脅威対策機構――の理事会が終わったところだ。

 そこでは、日本が実用化した「Acu-SHE抑制薬」の実質的な延命効果が乏しいことが世界の首脳陣の前で明らかにされた。

 米政府は日本から事前の連絡を受けていたとはいえ、それが人類存亡の危機を加速させる一事であることに変わりはない。


 ――だが、アメリカにとっての危機はそれだけに留まらない。


 米政府首脳陣はこれから、遂に目に見える形で明らかになった「災害」と真正面から向き合わなければならなかった。




「……ご覧ください」


 首席科学顧問のワイズマンが、大統領を含む若干名の政府高官たちに巨大スクリーンの映像を示す。


 映し出されたのは、ワシントンから6,000km以上を隔てたアリューシャン列島の南の海だ。

 そこは、日本近海を北上する黒潮の流れを汲んだ北太平洋海流の到達海域でもある。


 「海のゆりかご」――そんな異名がつけられるほど、多様な生態系を育む海域だ。



 MQ-4Cトライトン――米海軍が保有する大型の無人偵察機から、リアルタイムの映像がストリーミング再生されていた。

 この航空機は機首下部に高度な光学・赤外線カメラを備え、上空1万メートルからでも自動車のナンバープレートの識別が可能だ。


 ワイズマンは、MQ-4Cのカメラが海上の的確なポイントを映すように、地上の管制官に指示を送っていた。


 そのカメラが捉えたものとは――――



「あぁ……」



 映像が明らかになると、室内の誰かが嘆きの声を漏らした。





 透き通るような青い海を、(おびただ)しい数の海洋哺乳類の死骸が埋め尽くしていた。





 ひと際目立つのは、ザトウクジラ、コククジラ、ナガスクジラといった大型の鯨類だ。

 その周囲を取り囲むように、小型の鯨類の他、トドやラッコ、アザラシなどが数多(あまた)の骸を浮かべている。

 どの死骸も目や口から赤黒い血を垂れ流し、首や腹に禍々しい紫斑を浮かべていた。



 ――――〝海獣の墓場島〟


 ……端的に表すならば、そんな言葉になるだろうか。



 それは8日前、日本の東北の海で初めて観測された現象と、性質としては同じものだ。

 ――即ち、「Acu-SHE」を発症した海洋哺乳類の大量死である。


 そして、アリューシャン列島の南側の海岸線には、それらの死骸が大量に押し寄せていた。



 ――ただし、その数量は、のべ3,000頭以上の漂着を記録した日本北部の比ではない。


 ここアラスカ南海で死亡した海洋哺乳類の数について、後に「50万頭を超える」という計算結果が出された。

 それは米軍が総力を結集したとしても、対応に苦慮するレベルの数量だった。



 このとき、この場でこの映像を観た全ての者の脳裏に、次の言葉が思い浮かんだ。



 ――〝世界の終末〟だ。



 「海のゆりかご」とも呼ばれるアラスカの海は、今や冷たい「死のゆりかご」へと変貌を遂げていた。




    †




 重苦しい沈黙の中で、危機管理室内の注目が大統領――ケネスに集まっていく。


 ケネスは顎の下で固く組んでいた手を下ろし、深く息を吸った。

 そして、言う。



「――――アラスカは、放棄する」



 室内に、また1つの衝撃が走った。


「そんな……」


 誰かの小さな声が聴こえた。



 ケネスは溜め息を押し殺しながら言葉を続ける。



「……もちろん、表向きには努力しているように見せる(・・・・・・)。海岸線を封鎖し、内地への避難誘導を行う。――だが、そこまでだ」


 ケネスはそこで言葉を切り、少しためらった上できっぱりと告げる。


「アラスカの全住民を救う手立てはない」


 それは事実であり、残酷な決断を表していた。




 ただし、何の議論もなかったわけではない。


「……内地への避難はできないのでしょうか?」

「――どうやって?」


 ある政府高官の疑義に、ケネスは間髪入れずに問い返した。


「それは……」


 その政府高官は、返答に窮した。


 アラスカ州の住民は70万程度で、内半数がアンカレッジの都市圏に居住している。

 海路・空路は絶望的だ。

 それだけの数の住民を短期間で運搬することは現実的でない。


 では陸路は、と言えば、国境が障壁となって立ち塞がる。

 カナダ政府は、国外の汚染地域から大量の難民が通過することを許可できないだろう。


 ――結局、ケネスの決定が覆ることはなかった。




    †




「……ワイズマン博士。『虚潮(うつしお)』の現状について報告してくれ」

「はい」


 ケネスの要求に合わせ、ワイズマンが端末を操作する。

 巨大スクリーンの映像が切り替わった。

 映し出されたのは、イコールアース図法で描かれた世界地図だ。


 その海の色は、海面付近のプランクトン濃度を示している。


 全球監視網グローバル・センチネルシステムによって、世界の海のプランクトン濃度が今この瞬間にも更新され続けていた。



「嘘……」

「もうこんなに……」


 更なる現実を突きつけられた政府高官たちが、一様に息を呑む。



 「虚潮」――英語では「ヴォイド(Void)カレント(Current)」と呼ばれるようになった――は、「GRIM」粒子の表面吸着によって起こる植物プランクトンの沈降現象だ。

 これによって海水表面からは植物プランクトンが消え去り、透明度が上昇する。


 地図上でのプランクトン濃度は、赤から青のグラデーションで表示される。……そして、観測限界を下回った海域は、黒く塗り潰される。


 ワイズマンの声が響く。



「……ご覧のように、『虚潮』は北半球の海を覆いつつあります」



 アジアやアラスカ近海だけではなかった。


 生物ベクターや大気循環によって世界中に拡散した「GRIM」。

 それは、北太平洋、北極海、ノルウェー海、バレンツ海といった北半球の様々な海を黒く(むしば)んでいた。


 ケネスの目には、その黒い模様がまるで地球に根を張る呪いのように映った。



 ――通夜のような静寂の中、ワイズマンは努めて淡々と報告を続ける。


「鯨類――海洋哺乳類の死亡座礁は『虚潮』に伴って発生します」


 彼はここで、次に襲い来る脅威に触れざるを得なかった。


「……また、アラスカの『海のゆりかご』で発生したあの無数の死骸の群れは――」


 ワイズマンは言葉を切ることなく、最も重大な事実を告げる。



「――カリフォルニア海流に乗って、数日以内に北米大陸の西海岸に到達するでしょう」



 危機管理室内で、この日一番のざわめきが起こった。



 アメリカ本土の西海岸は、世界でも屈指の人口密集地帯だ。

 アラスカとはわけが違う。


 ――室内の多くの者は、サンフランシスコやロサンゼルスの瀟洒(しょうしゃ)な街並みが、無数の海洋哺乳類の死骸から成る津波に呑み込まれる光景を幻視した。



 海から地球規模で押し寄せる脅威を押し留める術はない。

 ……かといって、下手に避難を促せば交通網は完全に麻痺してしまうだろう。



 ――詰み。


 ……状況は、限りなくそれに近づいていた。



「終わりだ……」


 ある政府高官が両手で頭を抱えた。

 ケネスも、内心は彼と同じだった。


 ワイズマンが、感情を排した言葉を放つ。



「――大統領、ご決断を」



 ケネスは再び、顎の下で手を組んでいた。


「ああ……」


 ケネスは顔を上げた。

 このとき、彼の両手は小刻みに震えていた。



 ――結論は、既に出ていた。


 「Acu-SHE抑制剤」が失敗に終わった今、全てを救う手段はない。


 しかし、ケネスにはまだ覚悟が出来ていなかった。



 ケネスは眉間に深くしわを刻み、絞り出すような声で言う。



「…………しばらく、1人にしてくれないか」



 ケネスのその言葉の後、会議の進行をしていた首席大統領補佐官のダグラスが10分間の休憩を宣言する。


 スクリーンの映像が切られ、ケネス以外の人々が次々に席を立って部屋を出ていく。


 ケネスは、誰とも目を合わせなかった。




    †




 広い危機管理室の中に、大統領が1人きりで取り残される形となった。


 ケネスは両手で顔を覆う。

 彼の背中にもたれかかる、アメリカ国民3億4千万の命。

 ……そのわずかな一部を、先ほど切り捨てると決定した。


(――――いったい、あと何人切り捨てればいい…………?)


 結論は出ていた。

 ワイズマンやダグラスと何度も話し合い、備えも進めていた。

 だが――――


「……うっ!」


 急激な胃の痛みを感じ、ケネスはポケットから錠剤を取り出す。

 震える手でペットボトルの蓋を開け、錠剤を水で流し込んだ。



 1、2分後――――


「ハハッ……」


 ケネスはペットボトルを片手で弄びながら、乾いた笑い声を上げていた。

 彼の脳裏には、遠い極東の国で同じ苦難を背負う盟友の姿が浮かんでいた。


「――やっぱり、タカモトはすごいやつだったんだな」


 ケネスが知る限り、日本の総理大臣である汐崎崇元(たかもと)は、既にこの決断を通過していた。

 アメリカと日本――人口の違いはあれど、そこに有意差はない。――ケネスはそう思う。


 ――汐崎は、先のG7+サミットの前後ぐらいから段々と鬼気迫る雰囲気を放つようになった。

 ある意味で、〝一皮剥けた〟と言えるのだろうか……


 まさに、あれぞサムライ――ケネスはそんな印象を受けていた。



(……日本人でない私は、彼と同じ境地にはなれそうにない)


 ――ならば、自分なりに乗り越えよう。


 汐崎と自身の違いを意識しつつ、ケネスは遂に(はら)を決めた。



 ――サムライにはなれずとも、ガンマンにはなれるだろう。



 そんな風に、自分に言い聞かせて。






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