幕間 この世の終わり(上)
鬱展開と食欲を減退させる描写があります。ご注意ください。
――8月γ日。
茨城県沖の上空300メートルほどの高さを、日本の海上保安庁に所属するヘリコプターが飛んでいた。
スーパーピューマ225――第三管区海上保安本部が所有する回転翼機だ。
「……なんだよ、アレ……」
今回初めてこの海域調査の任務に当たった搭乗員が、呻くような声を上げた。
彼の目前には、機体の腹に設置された高解像度カメラによる映像が映し出されている。
茫洋と広がる紺碧の海の上に、白く巨大な河が流れている。
幅数十メートルに及ぶその大河は、さながら巨大なベルトコンベアだ。それは黒潮の流れに沿って、中身を北東へ運んでいるようだ。
白い大河がどこまで続いているのか、機内の誰にも見通すことはできなかった。
……その異常な大河を構成する物は、人が排出したゴミなどではない。
死骸だ。
無数の魚の死骸が、ぷかぷかと海面に腹を浮かべ、この果てなき大河に犇めき合っているのだ。
「うぷっ……」
「おい、吐くなよ」
気分を悪くした若手のクルーに、先輩の観測士が注意した。
彼らはみな肌を露出しない装備に身を固め、マスクで鼻と口を覆っている。
エアロゾルによる万一の感染を防ぐためだ。
誰かが吐いたとしても、扉を開くことはできなかった。
どの魚の死骸も「Acu-SHE」の発症によってグロテスクな姿を晒している。
距離が遠かったため、カメラが一匹一匹の姿を克明に映せなかったのは、クルーらにとって幸いだっただろう。
「――――文字通り、〝死の河〟だな…………」
観測士がポツリと言った。
その〝死の河〟は、那実川の河口に端を発していた――。
†††
――同日。
すっかり人気のなくなった茨城県大岸海岸付近で、2台の自転車が無人の通りをゆっくりと並走していた。
「未知絵、体調は大丈夫?」
「……うん、今のところ」
自転車に乗った年長の少女――井ノ瀬眞弓が、傍らの自転車に乗った妹の未知絵と言葉を交わした。
この日も茹だるような猛暑だったが、2人とも雨合羽を着てぴっちりとマスクで口元を覆っていた。当然、「Acu-SHE」対策のためだ。
致死の感染症によって両親を失い、大岸市の自宅に取り残されることになった2人は、今日になって避難のために自宅を出発した。
多くの県民が向かったという、隣県の千葉を目指して。
「…………誰もいないね」
「そうね…………」
ポツリと呟いた未知絵の言葉に、眞弓はただ同意を返した。
――あの日から、世界は壊れてしまった……
ゴーストタウンと化した街を眼前にして、眞弓は改めてそう認識した。
――通い慣れた駅も、顔なじみの多い商店街も、今ではすべて過去の存在となった。
……その代わりに、まるでタチの悪いSF映画の世界にでも迷い込んだみたい――眞弓は、そんな風に感じた。
眞弓にとって、すべての始まりとなった事件。
――それは、7月δ日の大岸ビーチにて、眞弓が幼馴染の健流の死を看取ることになった出来事だった。
††
『――眞弓! 無事で良かった!』
7月δ日。
医師の検診を終えて眞弓が帰宅を許されたのは、夕方のことだった。
長女の帰りを今か今かと待っていた母、瑞希に抱きしめられながら、眞弓は悄然としていた。
『お母さん、健流が……』
『ええ、那実川の水が危ないんだってねぇ……。何があったのかしら……』
幸い井ノ瀬家は大岸市の北側にあり、那実川の取水域からは外れていた。
そのため、まだこの日は給水停止の影響はなかった。
――ただし、それもわずかな間でしかなかった。
3日後の7月η日、遂に井ノ瀬家の近所でも「Acu-SHE」の発症があり、行政によって給水停止の措置が取られた。
……その後の生活は、生き地獄にも似た苦痛だった。
風呂もシャワーも、トイレで水を流すことさえ禁じられ、生きる気力が萎えるほどの苦しみを感じた。
(――水が使えないだけで、こんなに不便になるなんて……)
カロリーメイトのバーをかじりながら、眞弓は先行きの見えない暮らしに絶望を感じた。
――しかしその程度の絶望は、まだ大したものではなかった。
眞弓がその事実に気づくまでに、数日とかからなかった。
給水停止から2日後――7月ι日のことだ。
眞弓の父、勝也が知り合いから野菜をもらって帰って来た。
災害で廃棄するしかないから……と、ただ同然で配っていたそうだ。完全に善意の行いだった。
『――念のためだ。もらってきた俺が先に食べよう』
『えぇ〜、ずるい〜』
新鮮な野菜を前に自ら毒見役を買って出た勝也に、未知絵が頬を膨らませた。
……勝也の懸念は、最悪の形で証明された。
――勝也自身の死、という形で。
そんな父の死をゆっくりと悼む間もなく、更に2日後の7月λ日――。
母の瑞希が、にわか雨に降られて帰って来た。
――政府が降雨による「Acu-SHE」感染の可能性を発表したのが、丁度この日だった。
運悪く瑞希も、その雨が原因で「Acu-SHE」に感染し、帰らぬ人となってしまった。
……眞弓もわずかに同じ雨に打たれていたが、幸い発症はしなかった。
『いやああぁぁっ! お母さぁぁんっっ!!』
『未知絵、近づいちゃダメっ!!』
眞弓も未知絵もその瞬間、目の前が真っ暗になった。
――瑞希が生きていれば、一家は瑞希の運転する車で県南の千葉方面に避難する予定だった。
更にその翌日、7月μ日――。
未知絵が、高熱を出した。
眞弓は愕然とした――が、幸い命に関わる容態ではなかった。
(――未知絵の命は、私が守らないと……!)
眞弓はたった1人になってしまった家族を守るため、必死で看病した。
眞弓は無人のドラッグストアに侵入し、大量の解熱剤を入手することができた。
既に大岸市の住民の大半は退避しており、医師を捕まえることはできなかった。
また眞弓は、食料を確保するためにコンビニ店などを物色した。
この際、自分ではアレルギーのために食べられないチーズや醤油等の含まれる食料品を見つけ、妹のためにとリュックに詰め込んだ。
『――お姉ちゃん、ありがとう……』
そんな眞弓の苦労の甲斐あって、未知絵は2日後の夜には回復を見せた。
眞弓は心底、安心した。
そして、決心した。
――妹と2人で、この大岸市から脱出しよう、と。
待っていても助けは来ない。
……眞弓はそれを、もう十分に理解していた。
『未知絵……。お姉ちゃんの話、聞いてくれる?』
『……うん』
――こうして、姉妹2人だけの逃避行が始まった。
††
「あー! ワンコとニャンコが一緒にいる!」
商店街の跡地を通りかかったとき、未知絵がはしゃいだ声を上げた。
「え? ……ほんとだ」
妹の指差す方を見て、眞弓もその動物たちの一団を発見する。
犬や猫の群れ……だけではなかった。
その一団には、ネズミやカラスまで含まれていた。
――本来は、馴れ合わないはずの生き物同士ではないだろうか……?
それが争うことなく整然と行動し、遠巻きに眞弓たち姉妹の行方をじっと目で追っていた。
ぞわり、と眞弓は寒気を感じたが、その理由はわからなかった。
代わりにふと、頭に浮かんだ言葉を告げる。
「……まるで、『ブレーメンの音楽隊』みたいね」
「ほんとだー!」
未知絵もその言い回しは気に入ったようだった。
眞弓は街中で、それらの動物が「Acu-SHE」と思われる病気で死んでいるのを見かけたことがある。
だが、このときは「生きている動物もいるんだな」としか思わなかった。
2人が順調に自転車を走らせることができたのは、家を出て15分ほどのことだった。
「……お姉ちゃん、ちょっとしんどいかも……」
「えっ! 未知絵、どうしたの?」
未知絵が体調不良を訴え、眞弓は慌てた。
自転車を停めて眞弓が具合を診ると、未知絵はまた熱を出していた。
眞弓の顔から血の気が引いた。
――千葉はまだ、遥か彼方だというのに……。
「ちょっと歩いたら、よくなるかも」
「……そうしよっか」
眞弓は悪い予感がしていたが、未知絵の言葉を信じてみることにした。
このときは午前9時ごろだったが、既に太陽は爛々と輝き、姉妹に情け容赦なく真夏の熱気を浴びせた。
それから、約20分後――。
「うっ……」
「くっさあい……」
自転車を押しながら歩いていた2人は、那実川の方から漂う異臭に気づいた。
それは魚屋で嗅ぐ臭気を、何万倍にも濃くしたようなニオイだった。ドロドロの腐った魚のスープに大量の血液を混ぜ合わせ、ぐつぐつと何日も煮詰めたような、吐き気を催す悪臭だった。
そんな悪臭が、2人の着用した不織布マスクを貫通して嗅覚に大ダメージを与えていた。
「遠回り、できない……?」
「……無理ね」
だが、千葉に向かうためには那実川を越えないわけには行かず、そのためにはこの先の橋を渡らざるを得なかった。
異臭がひどく、2人は目に涙を浮かべながら大きな橋へと歩いた。
それは、那実川の河口に最も近い『臨海橋』という名の橋だった。
「未知絵、もう少しだよ」
「うん……」
未知絵は額に玉のような汗を浮かべながら、姉の後ろから自転車を懸命に押して歩いていた。
――橋を越えたら、少し休憩しよう。
見るからに辛そうな妹を見て、眞弓はそう思った。
やがて2人は、橋の入口に到着した。
悪臭はいっそう酷くなり、「最悪」という言葉の意味を更新し続けていた。
橋の下からは、びちゃびちゃと魚が跳ねるような音が聞こえていた。
鼻で息を吸わないようにして橋の上を数歩歩き、眞弓は思わず足を止める。
「――――何よ、コレ…………」
眞弓はここに辿り着くまで、知らなかった。
那実川の河口が今、どのような状況になっているかを。
眞弓は橋からそこを見下ろす。
ぐちゅっ、ぬぽっ、どぷっ
そんな音が、眞弓の耳の中に響いてきた。
そして、眞弓が目にしたものは――――
夥しい数の魚の死骸が密集する、真の地獄絵図だった。
全長約110kmに及ぶ一級河川を泳いでいた全ての魚が、死体となってそこに集結していた。
それだけではない。海の潮汐運動によって、河口沿岸で死んだ魚たちもまた、この河口に押し寄せていた。
那実川の河口は今、数百万の魚の死骸で埋め尽くされた奇怪なダムと化していた。
そのダムを構成する一匹一匹の死骸は、例外なく「Acu-SHE」の犠牲者だ。どの骸も目は血走り、白い腹に紫斑を浮かせ、悍ましい姿を露わにしていた。
これこそが、眞弓と未知絵を苦しめたひどい悪臭の発生源でもあった。
ぐちゅぐちゅと魚が擦れ合う音に混ざって、時折パァンと破裂音が聴こえる。
ガスで膨張した死骸が破裂する音だった。
〝死の狂宴〟
この光景を一言で示すとすれば、そんな言葉になるだろうか……。
――――眞弓は、瞬時に理解した。
自分が今まで体験してきた地獄は、この有り様に比べればまだ生ぬるいものであった、と…………。
「うぐっ…………」
思わず胃の奥からせり上がってくるものの気配を感じ、眞弓はこらえようとした。
――が、それは儚い抵抗だった。
眞弓は慌てて自転車を停めて道路の隅に走り、マスクを外して嘔吐いた。
空っぽの胃から黄色い胃液を吐き出しながら、眞弓の心は千々に乱れていた。
(……何だって言うのよ! ――こんなのまるで、この世の終わりじゃない!)
――なぜ、自分たちがこんな目に遭わなければいけないのか……
――悪夢なら、早く覚めてほしい。
眞弓は心からそう願ったが、残念ながら五感が「これは現実だ」と訴えていた。
――バタンッ……
なんとか少し落ち着いた眞弓の耳に、何かが倒れる音が飛び込んで来た。
「未知絵……?」
後ろを振り返った眞弓は、自分の見ているものが信じられなかった。
――いや、信じたくなかった。
未知絵が、たった1人の妹が、地面にうつ伏せに倒れていた。
反対方向に倒れた彼女の自転車が、くるくるとペダルを空転させていた。
「――未知絵っッ!!」
我に返った眞弓は、マスクを着け直しながら妹の元へ走った。
未知絵の体は高熱を発し、肩で息をしていた。
「お、ねえちゃん……」
「未知絵、しっかり!」
未知絵はだらだらと汗をかきながら、片手で頭を押さえる。
「あ、たま、いたいよ……」
ゾワッ
眞弓の背が粟立った。
……未知絵の言葉は、不吉な響きを持っていた。
そして眞弓は見た。
――未知絵の首筋に、ポツポツと赤い斑点が浮かぶのを。
それは、眞弓がこれまで何度か見てきた「Acu-SHE」の〝死の発作〟――その前兆だった。
眞弓は真の絶望を感じた。
両目からぽろぽろと涙があふれ、未知絵の顔にもこぼれた。
「未知絵! 死なないで、未知絵っ!」
眞弓は痛切に願った。
――神でも悪魔でも何でもいい。……誰か、このたった1人の家族を救ってください!
心から、そう祈った。
「……いだいっ! お姉ちゃん、助けで……っ!」
しかし祈りは届かず、痛みに苦しむ妹をただ抱き締めることしかできなかった。
数分後――、
眞弓の腕の中で、未知絵は苦しみながら息を引き取った。
†
「あああぁぁぁぁ…………未知絵えぇぇ………………」
動かなくなった未知絵の亡骸を抱きかかえて、眞弓はしばらく慟哭した。
人目を気にする必要はなかった。
貴重な水分の浪費などと考えることもなく、眞弓は大声を上げ、涙を流して嘆き続けた。
――とうとう、自分ひとりになってしまった。
眞弓はこの地獄のような世界の中で、たった1人取り残されてしまったように感じた。
…………なぜ、自分はまだ生きているのだろうか?
眞弓は、ふと疑問に思った。
7月δ日――健流が亡くなった日、同じときにビーチにいた人の多くが「Acu-SHE」を発症して亡くなった。
犠牲者の中には、眞弓と健流のクラスメートであり、2人と共にビーチを訪れた小木野恭子も含まれていた。
『……良かったわ。あなたは海に入らなかったから、助かったのね』
母の瑞希にそう言われ、眞弓もきっとそうなのだろうと思った。
しかし今回、眞弓は未知絵と常に行動を共にしていた。
同じ物を食べ、飲んでいた。
未知絵が発症したのだから、自分も感染しているはずだ。
なのに、なぜ――――
(――――きっと、時間の問題なんだろうな…………)
眞弓は、そう判断した。
――私も、もう長くない。未知絵が死んだんだから、そのはずだ……
ふと顔を上げた眞弓の目に、臨海橋の手すりが映った。
眞弓の脳裏に、ある考えが浮かぶ。
――どうせ、苦しんで死ぬんだったら……
その方法は、これまで見た「Acu-SHE」による苦痛にまみれた死よりはまだマシだろう。
……と、このときの眞弓は思った。
眞弓は未知絵の体を道路脇に静かに横たえ、目元や鼻筋から垂れていた血を拭った。
「守ってあげられなくて、ごめんね……」
少しだけ未知絵の死に顔を整えた後、眞弓は雨合羽を脱ぎ、マスクを外して橋の上に打ち捨てた。
――もう、こんな物は必要ない。
眞弓は橋の手すりの上に登り、河口を見下ろす。
相変わらず臭いは最悪だが、眞弓の感覚はとっくに狂っていた。
眼下の地獄から、死者たちが手を伸ばして彼女を呼んでいるように感じた。
「――みんな、ごめんね。……私も今から、そっちに行くよ……」
そう呟き、眞弓は魚の死骸で埋め尽くされた川へと身を投げた。
その一部始終を、不気味な動物たちの群れがじっと観察していた。




