6. バトンタッチ
――8月β日、午後。
永田町、首相官邸にて。
「――なんということだ。榊先生まで倒れてしまうとは…………」
総理執務室でその報告を受けた内閣総理大臣、汐崎崇元は動揺を隠せなかった。
5日前に起こった、山田厚生の感染死に続く凶報。
これで災害対策本部の科学対策統括室――AQUAチームは、室長と副室長の両方を「Acu-SHE」によって失ったことになる。
榊はこの時点ではまだ理性を保っていたが、既に「Acu-SHE」やこれまでの災害対策に関する出来事を忘却しており、室長職の継続は不可能と言えた。
そして、政府にとっての悲報はこれだけに留まらない。
「――室長の件も残念ですが、より問題なのは『抑制剤』の方です」
そう指摘したのは、内閣官房長官の須山だ。執務室内には他に、内閣危機管理監である堀田の姿もあった。
須山の指摘を受け、汐崎は深々と溜め息を吐いた。
この時点で彼らは、国立感染症研究所の比護から緊急の情報共有を受けていた。
――それは、人類にとって最悪の情報だった。
「……ああ、その通りだとも。希望の光になるべき薬が、更なる絶望の呼び水にしかならないなんて、悪夢でしかない」
汐崎は、右手で前髪をグシャッと握りつぶした。
「抑制剤」が普及すれば、最悪だけは免れる。――政府も、AQUAチームもそう信じて動いてきた。
日本だけではない。G7+サミットに参加した各国首脳も、共同宣言の内容を知った他の世界中の国々も信じたはずだ。
――「Acu-SHE」は確かに脅威だが、既に有効な対策が打たれている、と。
しかし、それがいま水泡に帰した。
「GRIM」は、「Acu-SHE」は、今後もあの恐ろしい「全球汚染シミュレーション」の予報通りに、地球から人類の生存圏を奪い続けるだろう。
「抑制剤」は、何の防波堤にもなり得ない。
「――しばらく情報を伏せておくことはできませんか? その情報はあまりにもショッキングかと……」
内閣危機管理監の堀田が、眉間にシワを刻みながら提案した。
それは、一見してもっともな考えだと思えなくもなかった。
しかし、須山が力なく首を振る。
「……到底、隠し通せるものではないでしょう。発作からほんの3日で廃人になったケースもあるそうです。これで黙って『抑制剤』の認可だけを通したら、『国民に毒薬を配っていた』なんて報じられかねない」
彼らにとって、逃げ道は既に塞がれていた。
汐崎は厳しい現実を直視し、かつ、少しでも冷静に思考を巡らせる。
「そうだな……。――とはいえ、真っ正直に事実を公表するのも良くはないだろう?」
「ええ……」
「確かに……」
汐崎の言葉は的を射ていた。
政府の肝煎りによって緊急承認した薬剤が、実は何の効果もないものだと発表したならば、大炎上は不可避である。政府の信頼は地に堕ち、日本の危機が加速すると考えられた。
いくつかの意見が出た後、須山が次のように発表の草案をまとめた。
「――……では、このような文言でどうでしょう? 『〝抑制剤〟は致死の発作を防ぐという本来の役割を完璧に果たしている。ただし、病原体である〝GRIM〟の影響で、患者の認知や記憶に障害が起こる問題が見られている。現在、改良薬の開発に全力を注いでいるところだ』……と、こんな具合です」
汐崎は両肘を執務机に突きつつ、小さく頷く。
「うん……実情を知っている者には詭弁だと取られそうだが、世間の目は誤魔化せるだろう。――いずれにせよ、改良薬の開発は必要だ」
3者は罪悪感から目を背け、国家を維持するために大衆を騙す決定を下した。
ただし、既にパンデミックの様相を呈する「Acu-SHE」に関する世論操作は、日本だけで完結する問題ではない。
「――GTRO(全球脅威対策機構)内でも足並みを揃えておかねばならない。今夜の会合の前に、ハリソン大統領と方針をすり合わせておこう」
汐崎が意思を示したところ、須山がそこに助言を加える。
「議論が専門的な内容に及ぶことも考えられます。AQUAチームからも誰かに同席してもらった方が良いでしょう」
汐崎は頷き、応える。
「そうだね……。――そこは、彼しかいないだろう」
†††
僕――宇梶慧が政府関係者から呼び出しを受けたのは、防衛医科大病院から帝都大学のキャンパスに戻った直後のことだった。
――それも、公用車での出迎え付きで。
「これから官邸へ……ですか」
「パパ、またお出かけ?」
僕が首相官邸に出邸するのは、一昨日に続いて2日ぶりだ。
研究室にいた新葉さんや未咲と短くやりとりをして、僕はすぐにまたその場を後にすることになった。
内閣はもう、今日判明した2つの凶事を把握していることだろう。
このタイミングでの僕への呼び出し……――やはり、そういうことなのだろうか……。
僕は公用車の後部座席に背を預けながら、心の中で万一に備えて覚悟を固めていた。
首相官邸に到着した僕は、すぐに最上階の総理執務室へと案内された。
案内の職員がノックをして扉を開く。
「――失礼します」
挨拶をして入室するまでの間、さすがに緊張を感じた。
今回の災害対策が始まってからというもの、汐崎総理と顔を合わせるのはこれが最初のことではない。
しかし、そばに榊先生や他の専門家仲間がいない状態で、こうして直に総理と対面するのは初めてのことだった。
「――やあ、突然来てもらってすまないね」
僕が入室すると、汐崎総理はデスクの席を立ってこちらまで歩いて来た。
僕は部屋の一角にあるソファ席を示され、下座に腰を下ろした。
「……そういえば、今回の災難について最初に警告を上げてくれたのは宇梶先生でしたね」
総理はそんな形で会話のきっかけを作った。
疲れをにじませてはいたが、その柔和な語り口には彼の人間力が表れているような気がした。
「ええ。政府の迅速な対応には驚きました」
正直にそう応えると、総理は苦笑した。
「最善を尽くしていると自認しています。――もちろん、科学者のみなさんもそうでしょう。……しかし、今のところ敵の恐ろしさが1枚上を行っていますね」
「はい……」
僕は拳を軽く握った。
〝1枚上〟――果たして、その程度の表現で妥当なのかと自問しながら。
「……そろそろ、本題に入りましょうか」
「ええ」
前置きはそこまでだった。
総理にも僕にも時間はない。2人ともそれをよく理解していた。
「宇梶先生。――これからのAQUAチームの室長を、是非あなたにお願いしたい」
対面に着席した総理は、僕の目を真っ直ぐに見てそう言った。
――ああ……
やはり、そういう話だったか……
全く驚きがなかった、と言えば嘘になる。
しかし総理の言葉は、事前の僕の予想から外れるものではなかった。
†
そんな僕の内心を見て取ったのかもしれない。
汐崎総理は台詞の後で、軽く目を瞬かせた。
「――予想通りでしたか? ……やはり、先生は優れた頭脳をお持ちですね」
「このタイミングですから……。そうかもしれない、とは思っていました」
ただし、僕にだって当然、知り得ないことはある。……何でもかんでも知っている天才だなんて思われたら困るんだ。
従って、現時点で要請に即、了承と答えられるわけもなかった。
「……理由をお聞かせ願えますか?」
僕が質問すると、総理は思い出したように「ああ」と頷く。
……うん。聞かないと教えてもらえないような気がしたよ。
「――決め手になったのは、榊室長自身からのメールですね」
「総理宛てにメールが?」
思わず問い返すと、総理は僕の言葉を肯定した。
話によれば、なんと榊先生は自身の感染を確信した後、感染研の次に内閣首脳宛に連絡を送ったそうだ。
「『私に万一のことがあった際は、宇梶君に後事を託す』――メールにはそう書かれていました」
「……そうだったんですね」
AQUAチームには連絡が来ていなかったから、きっとその前に発作が起きてしまったんだろう。
――もしかしたら、僕宛にもメールが来ているかもしれない。……後で確認しておこう。
さて室長の打診についてだが、正直に言えば僕には荷が重いところだ。
僕はまだ科学界では若輩であり、国内では帝都大の准教授という肩書きしかない。
宇宙科学の分野では表彰歴もあるが、他分野のお歴々を率いる上では看板が足りないと思う。
榊先生のお墨付きが頂けたのであれば、問題ないかもしれないが……
「……もう1つ確認させてください。この人事は、例の計画が発動した後のことまで視野に入れてのものですか?」
僕がそう訊ねると、汐崎総理は目を見張った。
「そこまでお気づきとは……恐れ入りました」
やはりそうか――
……それならば、この人事にも納得が行く。
「……私たちの拠り所だった『Acu-SHE抑制剤』は、人類を救う一手にはなりませんでした。――それはつまり、時計の針がこのまま進み続けるということですから……」
僕はあえて、持って回った言い方をした。
この場では、こういう言葉遣いが適切だと思ったのだ。
汐崎総理は沈痛な面持ちで頷く。
「その通りです。あの計画の実行は、もう秒読み段階だと考えています。そこで、先生に伺いたいのですが――」
ここで総理は、核心を突く問いを投げかける。
「この国は、あとどのくらい持ちますか……?」
その質問に答える前に、僕は少しだけ呼吸を整えた。
ある社会シミュレーションの結果があった。
理科学研究所――通称「理科研」――に属する卜窪主任研究員が構築したモデルに基づくもので、理科研の所有するスーパーコンピューターによって計算が実施された。
それは、僕が構築した「全球汚染シミュレーション」を所与の条件とした場合に、人類が構築した社会機能がどのように失われていくかを計算したものだ。
その社会シミュレーションは、「抑制剤」の存在がなかった場合のシナリオも予測していた。
――そして、僕はその結果を知っていた。
改めて、僕は総理に回答する。
「――持って2か月……と予想されています。それも、かろうじて〝国家〟の体をなした状態で……」
この数字は、いくつかの前提を含んでいる。
まず、首都の移転は絶対条件だ。
……東京の崩壊は、2か月よりもっと早い。
実を言えば、僕が手掛けた初期の「全球汚染シミュレーション」では、東京は現時点でパニックになっているはずだった。
群馬や栃木の山々を水源とする広大な利根川水系――その上流のどこかで、きっと「GRIM」による汚染が起こると予測されていたのだ。
しかし、その予測が奇跡的に外れて今に至る。
――とはいえ、「それ」は今日明日にでも起こり得る話だ。
ひと度「それ」が起こってしまえば、首都圏に住む3,700万の人々が生活基盤を失うことになる。
予想される被害の規模は、茨城が崩壊したときの比ではない。
首都を移転しておけば、国家の中枢機能を維持することはできる。
……だが、所詮はそれも延命策に過ぎない。
「Acu-SHE」の発症は、既に全国に広がっている。
つまり、いずれは移転先でも同じことが起こるのだ。
「日本」という国が世界の地図から消える日は、そう遠からず訪れると予測されていた。
汐崎総理の顔色は、蒼白になっていた。
少しの間を置いて、総理は覚悟を固めたように言う。
「……我々には、もう退路はないんですね」
「はい……」
総理はじっとしていられなくなったのか、徐ろにソファから立ち上がった。
僕もそれにならい、直立して彼と向き合う。
総理は僕に歩み寄り、肩にポンと片手を置く。
「……宇梶先生、改めてお願いします。――この国の未来を、あなたに託します。どうか、その頭脳で人々を導いていただきたい」
その言葉は、肩に添えられた手よりも遥かに大きな重みを持っていた。
……おそらくそれは、総理が常日ごろ背負っている重みなのだろう。
僕もまた、新たな覚悟を決めるときが来ていた。
「――最善を尽くします」
僕は、はっきりとそう応えた。
失った――奪われた家族、恩師、残された家族、仲間、そして国家……。
より多くを未来に残し、つなげるために――
僕は、榊先生から託された未来へのバトンを受け取ることにした。




