5. 泡沫の夢④残酷な運命
――8月β日、午後。
AQUAチームの室長にして、僕――宇梶慧――の恩師でもある榊征士郎先生。
先生は埼玉県の自宅で「Acu-SHE」に感染してしまい、比較的近い防衛医科大学校病院に救急搬送された。
幸い、「抑制剤」であるバリシチニブを服用していたため、〝死の発作〟によって命を失うことは避けられたそうだ。
――しかし、つい先ほど比護が語った〝残酷な仮説〟の件がある。
最早、一刻の猶予もないかもしれない。
僕は愛車レヴォーグのアクセルを踏み込みながら、チリチリと胸を焦がす焦燥と戦っていた。
†
防衛医科大の病院は、埼玉県の 床沢市内にある。
帝都大のキャンパスを出た僕が病院に足を踏み入れたのは、比護とのビデオ会議で凶報を知ってから1時間あまり後のことだった。
病院の面会受付に足を運ぶと、先に着いた比護が僕を待っていた。
「――比護さん、宇梶さん!」
2人で榊先生が運ばれた集中治療室に向かっていたところ、後ろから追いついて来た看護師に呼び止められた。
「……すいません。たったいま面会謝絶になりました。――こちらへご案内します」
看護師の話によれば、およそ30分の間隔で断続的に発作が起こっているとのことだ。
――後から立てられた仮説によれば、その間隔は「GRIM」が脳に攻撃を仕掛ける〝兵員〟を補充するための所要期間だ。
僕たちが代わりに案内されたのは、ナースステーションだ。
院内における看護師たちの拠点だが、ここでICU内に設置されたカメラの映像を見ることができるという。
「ご家族の方は、いらっしゃいますか?」
「ICUの前にいらっしゃるかと……お話しされますか?」
「そうですね。是非」
比護の要求に応じ、看護師が後でご家族をナースステーションに連れて来てくれるとのことだ。
ICU内の病床を映すモニターの前に立ち、僕と比護は息を呑んだ。
「先生……」
「抑制剤を飲んでいても、これか……」
榊先生は、病床に両手足を固定されていた。
汗がひどく、全身をびくびくと痙攣させていた。
眼球がぐるぐると不自然に動き、口からはよだれが垂れていた。
音声はなかったが、映像だけでも十分ショッキングだった。
「……おそらく、もう数分はこのままかと」
「わかりました。話せる状態になったら、すぐに教えてください」
看護師の言葉に比護が応えた。
……「抑制剤」を投与しても、患者は発作を免れないようだ。
〝死の発作〟ではなくなっても、脳への攻撃が止むわけではない、ということだ。
ほどなくして、先生のご家族である奥さんの榊千恵子さんと、義理の娘さんに当たる榊英里奈さんがナースステーションにやって来た。
話によれば、榊先生が発作で倒れるより早く、先生のお孫さんに当たる小学2年生の伊織君が「Acu-SHE」の〝死の発作〟で亡くなったということだ。
……お2人の心中は、察するに余りある。
主に比護が聞き取りを行って、英里奈さんがそれに応じる形となった。
「――猫?」
「はい。義父と息子は今朝、泥だらけで家に帰って来たウチの猫をお風呂で洗ってあげたんです。そのときに感染したんじゃないかって、義父自身が話していました」
キョンというその猫も、伊織君より少し前に「Acu-SHE」の発作で亡くなったそうだ。
ヒトと猫では、末期発作に至るまでの前駆期間が異なる。
先生と伊織君が感染するよりも早く、その猫が感染していたことになるが……。
ここで英里奈さんの口から、あるキーワードが飛び出した。
「……あの、息子が変なことを言ってたんです。確か『ゾンビ猫』がどうとかって……。――関係ありますかね……?」
「『ゾンビ猫』ですか……? それは一体――――」
比護が詳しく話を聞こうとした、そのとき――
看護師によって、我々が待ち望んだ知らせがもたらされた。
「――お待たせしました! 今から短時間に限り、面会が可能です」
†
僕と比護は、千恵子さんと英里奈さんと共に、先生のいる集中治療室に通された。
4人とも、使い捨ての個人防護具を渡され、着用した上での入室となった。
「Acu-SHE」は飛沫感染しないと言われているが、念のための対策だ。
僕たちの入室に気づくと、榊先生はベッドから上体を起こした。既に四肢の拘束は解かれていた。
「――おぉ、宇梶君か……。千恵子と英里奈さんも、一緒に来たのか」
「先生……」
榊先生は、ヘアキャップとマスクを着けた僕たちの出で立ちをまじまじと見てそう言った。
先生の様子は、モニター越しに見た発作時の状態とは打って変わって、健康そのものにも見えた。
汗をかいて少しぐったりとしているようでもあるが、それ以外に変わったところはなさそうだ。
僕はそんな先生の様子を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
――さっきの比護の〝仮説〟は、悲観的過ぎたんじゃないか?
つい、そう思ったほどだ。
「――わざわざ足を運んでもらってすまない。しかし、その格好はどうしたんだい?」
「お義父さん、さっきも話したでしょう? 感染対策ですって」
先生と英里奈さんが、そんな会話をしていた。
……やはり、多少の記憶の混乱はあるようだ。
「ああ、そうだったか。……ということは、私は感染症で倒れたのかな?」
「ええ、『Acu-SHE』ですよ」
「『アクーシェ』か……」
その次に先生が発した言葉に、僕と比護は絶句した。
「――すまないが、初めて聞く病名だ。誰か、その病気について説明できる人はいるかい?」
ピシリ、と空気が凍りついたような気がした。
――――なんてことだ…………
僕は先生のその言葉から、理解してしまった。
――もう、始まっていたのだと。
「お、お義父さん? 『Acu-SHE』ですよ。知ってるでしょう?」
「いや……知らないと思うが……」
おそらく、30分前の面会ではこんなことはなかったんだろう。
英里奈さんや千恵子さんの態度から、2人が動揺していることが伝わった。
そして先生は、より決定的な台詞を口にする――。
「……ところで、伊織はどうしているんだい? ここには来ていないようだけど、家で留守番でもしているのかい?」
全員の表情が、ごっそりと抜け落ちた。
「――う、うそっ……!」
「――あ、あなた……! 伊織はもう……」
特に激しくショックを受けたのは、ご家族の2人だ。
しかしそんな2人の様子を見ても、先生はきょとんと首を傾げるばかりだ。
「伊織に、何かあったのかい……?」
――これ以上、その話をすべきではない。
僕は比護と目配せを交わし、英里奈さんたちには先に病室から退出してもらうことにした。
2人は悲しみに涙しながらも、看護師の誘導に従って退室していった。
そんな2人の見送りもそこそこに、僕と比護は改めて榊先生と向き合う。
「――室長、比護です」
「……どうも、榊です」
ベッドで顎を引く先生の応対は、初対面の者を相手にしたときのものだった。
――まさか、比護のことまで……
比護は若干たじろぎつつも、言葉を続けた。――おそらく、内心では諦めを抱きながら。
「……『AQUAチーム』という単語に、覚えはありますか?」
先生は、ゆっくりと首を振った。
「いいえ……心当たりはありません」
もう、確認は十分だった。
…………先生は、この10日間余りの記憶を失っていた。
それは、比護が先に語った〝残酷な仮説〟を示す、この上ない証明だった。
†
ICUを出るや否や、比護は目の前のソファにどかっと腰を落とし、両手で頭を抱えた。
僕はそんな比護の前に立ち、会話のきっかけを作る。
「……君の言った通りになったね」
「ああ……。だが、まさかこんなに早いとは……」
比護の口から特大の溜め息がこぼれた。
ここで比護は、改めて〝仮説〟の内容を語る。
「――脳内に侵入した『GRIM』は、脳細胞を攻撃する。攻撃を受けた脳細胞は死に至る」
「……それも、何億という単位でね……」
そうだ、と比護が頷く。
「ヒトの脳細胞の総数は、約860億個。仮に30分おきに1億個が失われるとすると……数十日でジ・エンドだな……」
後で聞いて知ったことだが、重度のアルツハイマー病でも1億個の脳細胞が死を迎えるには数年かかるそうだ。
数十日と比護は言ったが、これは単純計算で脳細胞が全滅するまでの期間だ。
人間の脳細胞が20%も損失してしまえば、思考・言語・認識の能力は完全に失われる。
――つまり、植物状態、あるいは「廃人」と言われる状態になる。
そこに至るまでの期間はもっと短い。10日以内でそうなる可能性もある。
何かのきっかけで目が覚める植物状態とは、わけが違う。
「GRIM」による脳細胞の死は、完全に不可逆な変化だ。
一度、廃人や植物状態まで進行してしまった者が、元の頭脳を取り戻す術はない。
……今後、榊先生のご家族はつらい決断を迫られるかもしれない。
――即ちそれは、先生の尊厳を取るか、命を取るかという選択だ。
恩師の今後の暗い運命を思い浮かべ、僕は涙をこらえなければならなかった。
「――クソッ! 『GRIM』め……!」
行き場のない怒りをぶつけるように、比護が自らの膝を打つ。
……僕も、思いは同じだった。
――日本の科学界を代表する人物の頭脳は、こうして失われることになった。
†††
〝――「抑制剤」によって生還した患者に、認知症のような脳機能の障害が見られる〟
本庄亜梨朱が最初にその情報を得たのは、7月μ日のことだった。
亜梨朱は内閣直下の緊急災害対策本部の一員として、またゲノム・フロンティア社の社長として、「Acu-SHE」に対抗する3種の「抑制剤」の緊急承認申請を進めていた。
(――サイトカインストームは脳で起こっとるっちゅう話やし、まあ、そういうこともあるやろなあ)
報せを受けた亜梨朱はそのように考え、深刻には捉えなかった。
彼女のブレーンである最高科学責任者の小谷も、同様の見解を示した。
――いずれにせよ、命を落とすより遥かにマシなはずだ。
そう考えた彼女たちは、それが「抑制剤」の効果を否定し得る材料になるとは夢にも思わなかったのだ。
――もし彼女らが、その時点で患者の脳障害の程度や進行状況をもっと詳しく確認していれば、違った判断もあり得たかもしれない……。
だから、8月β日になって新たな情報が入ってきたことは、ある意味でその〝しっぺ返し〟のようなものだと言えるだろうか。
この日、亜梨朱は「抑制剤」の緊急承認を目前に控え、有頂天になっていた。
しかし――――
『――言語機能の喪失……? この短期間で、脳障害がそこまで……?』
「おかしいですよね? でも、東北大病院の院長先生がそう言っとったんですよ」
8月β日の午後。
亜梨朱に掛かってきた1本の電話のもたらした情報が、それだった。
――バケツいっぱい、氷入りの冷や水を浴びせられた。
亜梨朱にしてみれば、そんな気分だった。
東北大病院との通話を終えた後、亜梨朱は自分のスマートフォンで小谷に電話を掛けていた。
『――その患者だけの問題じゃないのかい?』
「それが、複数名で同じ状態になっとるんですって」
『それは、まずいかもしれないね……』
楽観論を切って捨てられ、小谷の声のトーンが変わった。
亜梨朱の胸中で、不安が暗雲のように広がっていた。
最悪の場合、いま出している「抑制剤」の緊急承認申請が、全くの無意味なものになるのではないかという……
――トゥルルルル
そのとき、亜梨朱のデスクで電話機が着信音を鳴らした。
秘書の早川が素早く電話に手を伸ばす。
「はい、秘書の早川です。――ええ、社長はいま電話中で――……はい。代わりに承ります。――――」
早川が電話を置いたのは、それから1、2分後のことだ。
「……何やったん?」
小谷との通話を続けていた亜梨朱は、スマートフォンを口元から遠ざけながら訊ねた。
早川が沈鬱な表情で告げる。
「――治験に参加した新潟の病院からでした。『抑制剤』を投与した患者が〝廃人〟状態になり、家族からクレームが来ている、と……」
「廃人……! そこまで行ったんか……」
この日の午後、亜梨朱の元に同様の凶報が、複数の医療機関から次々と寄せられた。
『……AQUAチームあたりで、何か手がかりを掴んでいないかな?』
「……聞いてみますわ」
小谷の示唆がきっかけとなり、亜梨朱は感染研で要職に就いている旧知の人物に電話を掛ける。
「――っちゅうことなんですけど、比護さんの方で何か知ってたりしますか?」
『ああ。ちょうど、その件について連絡をしようと思っていたんだ。……遅くなって、本当に申し訳ない』
話してすぐ、亜梨朱は比護の声から活力が感じられないことに気がついた。
それから比護は語った。
内容は、この日に慧と話したものと同じだ。
〝残酷な仮説〟は最早、現実のものとなっていた。
「……それ、ほんまですの……?」
問い返した亜梨朱は、スマートフォンを持つ手をわなわなと震わせていた。
『――ちょうど今日、「抑制剤」で生還したある患者にたった3時間で重篤な記憶障害が現れているのを見たところだよ。……脳細胞がとんでもないペースで破壊されているのは間違いない』
比護のその言葉は、亜梨朱に一縷の望みさえ残さなかった。
「そんな……そしたら、ウチは今まで何のために…………」
亜梨朱は肩を震わせ、絞り出すような声を上げた。
「申し訳なかった。謝ってどうにかなることではないが、私もまさかこんなことになるとは…………」
比護の悲痛な声を聞く亜梨朱の瞳から、大粒の涙があふれた。
†††
翌日――。
「Acu-SHE」の〝死の発作〟を防ぐ3種の「抑制剤」が、日本のPMDA(=医薬品医療機器総合機構)によって緊急承認された。
それは人類が「Acu-SHE」に対抗し得る明るいニュースとして、世界中で大々的に報じられることになった。
……しかし、その明るい希望がまやかしであったと発覚するまでに、数日とかからなかった。




