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5. 泡沫の夢③事件

 ――時は8月β日、正午に(さかのぼ)る。


 埼玉県某市にある(さかき)征士郎の自宅では、昼食の準備が整えられていた。


 リビングにいた榊は、キッチンからふわりと漂う美味しそうなにおいに空腹を刺激されていた。

 正午を待って榊はダイニングルームに移動し、においの正体を明らかにする。


「おお、お昼はパスタかい」

伊織(いおり)が食べたいって言うので」

「やったー!」


 榊の言葉に英里奈(えりな)が応えたところで、ほぼ同時にダイニングに現れた当の伊織が歓声を上げた。


 食卓には、ミートソースパスタが盛られた皿が人数分並んでいた。

 もう1名の家族である榊の妻、千恵子が揃ったところで、全員が食卓に向かって手を合わせる。


「「いただきます」」


 挨拶の後、4人は一斉にフォークを手に取った。


「――おじいちゃん、キョンの話知ってる?」


 食事の合間に、伊織が榊に話し掛ける。

 話題は、榊家で飼育しているトラ猫のキョンのことだ。


「何の話だい?」


 榊はフォークを置いて、孫の話に耳を傾ける。


「キョンがねえ、最近近所の猫と仲良しなんだけど、その猫がね……ゾンビみたいな見た目なんだ」


 「ゾンビ」という言葉を発する際、伊織はフォークを持ってない方の手を幽霊のように下向きに掲げ、怖がらせるような仕草を見せた。


「――ゾンビ……?」


 榊の眉間が縮み、額にしわが刻まれる。

 榊はもちろん「ゾンビ」という単語は知っているが、伊織がどのような意味で言っているのか見当がつかなかった。

 ――まさか、本物のゾンビではないだろうし。


 伊織の隣でやりとりを聞いていた英里奈が、息子の冗談をたしなめるように言う。


「もう、変なこと言うのよしなさいよ」


 英里奈は、息子が祖父をからかっていると思ったのだ。

 すると、伊織は声を大きくして反論する。


「ほんとだって! 目の周りがブワッて赤紫色になっててさ、ちょっとコワいんだよ」


 興奮しているのか、伊織の顔は汗ばんでいた。


 一方の榊は、伊織の台詞の一部に気になる点を見つけていた。


「……目の周りが……? ――伊織、その猫は目の周り以外にもおかしなところはなかったかい? 例えば、血管が浮き出ていたりとか……」


 恐る恐る質問しながら、榊は心臓の鼓動がだんだん速くなるのを感じていた。


 伊織が大きく首を縦に振る。


「そうそう! 首すじとかも血管がビクビクって走っててさ。だからゾンビ」


 ――同時に、榊の首筋からぶわりと嫌な汗が噴き出した。

 その「ゾンビ猫」の正体は――


「い、伊織……それはいつから――」


 榊が重ねて質問しようとした、そのとき――――



「――――フギャギャギャギャンッッ…………!!」



 リビングの方から、猫がもがき苦しむような絶叫が響いた。

 ――ガシャンッ、と何かが落ちたような大きな音と共に。


「――キョンだ!」


 その異常に、真っ先に反応したのは最年少の伊織だった。

 伊織はフォークを置くと、一瞬ふらっとよろめきながらもリビングに向かって駆けて行く。


 榊や英里奈もひと足遅れつつ、伊織の後を追ってリビングに向かう。

 千恵子も「まあ」と反応していたが、彼女がフォークをテーブルに置いたのは、夫である榊が席を立ってからだった。




「――キョン! キョン、どうした? しっかり!」


 榊がリビングに足を踏み入れると、ローテーブルの脇で伊織がキョンの側にしゃがみ込み、懸命に声を掛けていた。


 榊はその様子を見て血相を変えた。


「伊織、触っちゃイカン! 離れて、すぐに手洗いとうがいをしなさいっ!」


 榊が家で滅多に出さない大声を出したことで、伊織はビクッとした。


「おじいちゃん……でもキョンが……」


 顔を上げてしおらしく訴えかける伊織に対し、榊は首を振った。

 キョンはピクピクと痙攣(けいれん)していたが、助かる見込みはない――榊は既にそれを理解していた。



 キョンは、鼻や口から血を噴き出して倒れていた。


「――『Acu-SHE(アクーシェ)』だ!」


 榊は非常時を宣言するように、あえて大声で断定した。



「英里奈さん、伊織を連れて出てください! リビングは封鎖します!」


 榊はハンカチで鼻と口を覆い、リモコンでエアコンを停止しながら指示を出した。


「えぇっ!? ――あ、アクーシェ!?」


 英里奈にとって、それは青天の霹靂(へきれき)だった。

 テレビの向こう側の出来事だと思っていた災害が、急に目の前にやって来たようだった。


 戸惑いながらも、英里奈は伊織を連れて洗面所へ向かう。

 遅れてリビングに入ろうとしていた千恵子も、榊に止められてダイニングへ引き返した。


 榊は猫鍋のアルミ蓋でキョンの遺体を覆い隠しながら、脳内で目まぐるしく思考を回転させていた。


(――例の「ゾンビ猫」が「Acu-SHE」のキャリアであることには疑いがない。キョンの感染経路はそれだろう)


 伊織が語った「ゾンビ猫」――その正体が「Acu-SHE」の生還個体だということに、榊は先ほどの会話の中で気づいた。その特徴は、7月ζ日に慧たちが瑞篠山(みずしのやま)で保護したあのパルという犬と一致していた。


(キョンがさっき発症した。……ということは、少なくともこの2日間は(・・・・・・)キャリア状態(・・・・・・)だった(・・・)ことになる……。最悪の場合、私たち家族全員が――――)


 榊は、ごくりと生唾を呑み込んだ。

 心臓は、今や早鐘を打ち鳴らし続けていた。


(――今すぐ薬を飲んでおくべきかもしれない)


 榊は、自分の書斎に置いていた「抑制剤」――バリシチニブ錠のことを想起した。

 そのとき――――



「――あああ゛あ゛ぁぁぁっっ!」

「――いやあぁぁぁぁっっ!」


 洗面所の方から伊織と英里奈の悲鳴が聴こえてきた。



 榊は迷ったが、まずは2人の様子を見に行くことにした。

 ――この判断を、榊はすぐに後悔することになる。


「……ああ゛っ! あだまがいだいよう……」

「お義父(とう)さん、伊織が……」


 床に倒れ、頭を押さえて苦しむ伊織の背を英里奈がさすっていた。

 鼻血を流す伊織の首筋に、蜘蛛の巣のような紫斑が広がっていく。

 ――見間違えようのない「Acu-SHE」の末期症状だ。


「あ、ああ……!」


 榊は我知らず、両目と口を大きく開いていた。


 ――最愛の孫の命が、今まさに死神に奪われようとしている……!


 その事実は、榊にこの上ない恐怖を与えた。


「い、今すぐ薬をっ!!」


 榊は書斎に走った。

 それなりの広さの家とはいえ、所詮は同じ家の中だ。大した距離ではない。

 すぐに書斎に着いた榊は、デスクの引き出しを開けようとして舌打ちをした。几帳面な彼は、わざわざ鍵を掛けていたのだ。

 バリシチニブ錠が入った箱を取り出し、すぐに洗面所へ取って返す。


「薬だ! まだ間に合うかも……」


 言いかけて榊は、伊織がもうぴくりとも動いていないことに気がついた。


「お義父さん……」


 英里奈がぐったりした伊織を抱きしめたまま、(すが)るような目つきで榊を見上げていた。


 榊は錠剤を1粒取り出し、伊織に飲ませようとする。


「伊織……」


 榊が伊織の口に手を添え、開けさせた途端、彼の口中に溜まっていた血液が溢れ、榊や英里奈の手や服をべったりと汚した。


「……ぅわああああ゛あ゛ぁぁぁっっ…………!!」


 絶望が、2人の心を支配した。




 ――その後、榊と英里奈は互いに励まし合って、2人でひと通りの後始末を行った。

 その前に、2人は真っ先に洗面所でバリシチニブ錠を服用し、後に千恵子にも飲ませた。


 伊織の遺体についてはキョン同様、リビングに安置することにした。


 この間に、榊は1つの確信を得ていた。


(――伊織がいま発症したということは、感染はおそらく朝……。キョンが濡れて帰って来た、あのときの可能性が高い)


 それは、次の予想と直結していた。



(――――即ち、私自身ももう(・・・・・・)感染している(・・・・・・)可能性が高い)



 「抑制剤」によって命は助かるだろうが、今後の行動には支障が出るだろう。

 後事を託すことも考えなければならない。


 榊はまず、一家を襲った「Acu-SHE」について今後の対応を相談するため、国立感染症研究所(NIID)に連絡することにした。




    †††




 同じく、8月β日の午後のことだ。

 僕――宇梶慧は引き続き、NIIDの比護徹心とビデオ会議を通して会話をしていた。


「――――比護。それは、事実なのか…………?」


 たった今、比護は僕に「Acu-SHE」の症状に関する、ある〝残酷な仮説〟を語ったところだった。


『……ああ、間違いない』


 僕が確認の問いを発したところ、比護は沈鬱な表情で頷いた。


 僕は、くらりと頭がふらつくのを感じた。


 ――まずいなんてレベルの話じゃない。このままだと、人類はもう…………


 しかし、この場でそれ以上、この件について話をすることはできなかった。


 比護のいる、NIIDの新宿庁舎側で動きがあったのだ。


『――比護さん、お話し中すいません』

『……ん? 宇梶、すまん。少し待っていてくれ』


 比護が入っていた個人ブースの外からノックの音がして、NIIDの職員が扉を開いた。

 ――なんらかの緊急事態が起こったようだ。


 比護はここでヘッドセットを外したが、マイクをオフにするのを忘れていたため、話し声は僕にも聴こえてきた。


『――榊先生が……』

『なんだって!?』


 職員の言葉に、比護が驚いて問い返していた。


 「榊先生」――確かに、そう聴こえた。


 僕の胸中で、ざわざわと嫌な予感が広がる気がした。


 比護が再びヘッドセットを装着し、ビデオ会議に戻って来る。

 その表情からは、先ほどとは一風違った緊迫感がうかがえた。


『――宇梶、まずいことになった』

「何があった?」


 僕は、間髪入れず問い返した。


『――榊室長が「Acu-SHE」に感染し、救急搬送された』


「――――!」


 僕はその瞬間、応えるべき言葉を忘れた。


 ――榊先生……! 先生に何が……?


 比護が情報を補足する。


『一命は取り留めているが、いつまで持つ(・・)かはわからん』


 先ほど比護の話を聞いた僕は、その言葉が意味するところを正確に理解した。

 ――つまり、「抑制剤」は飲んでいた、ということだ。


 僕はすぐに決断した。


「病院はどこだ? 僕もすぐに行く!」


 比護とのビデオ会議を終えた僕は、簡単な言伝だけをして研究棟を飛び出し、駐車場へ走った。



 ――先生……! どうか、間に合ってくれ……!


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