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5. 泡沫の夢②「抑制剤」

 本庄(ほんじょう)亜梨朱(ありす)が最初に「Acu-SHE」の被害について知ったのは、多くの他の日本人同様、7月δ日に報じられたニュースによってだった。


「……なんや。けったいなニュースやな……」


 朝には30名だった死者数が、ほんの1〜2時間で100名以上に膨れ上がった。

 にも関わらず、〝その症状〟の原因は不明のままだという。


 急激な全身出血症状を伴う〝死病〟――報道によってわかったのは、その程度のことだった。


「――(はや)ちゃん、この病気について調べといてくれる?」

「承知しました。現場に近い医療機関などのツテを当たってみます」

「せやな。頼むで」


 日本橋の本社オフィスに出社した亜梨朱は、秘書の早川に指示を出した。


 これが日本を揺るがす〝災害〟になるという、確信があったわけではない。

 ただし、亜梨朱の中に嵐の前触れのような予感はあった。

 ――それは数年前、新型コロナウイルスが世に現れて間もないときに感じたものと、同種のものだった。


 早川への指示から数時間後、亜梨朱は1本の電話を掛ける。


『――ああ、あのニュースなら僕も見たよ。今度はあの事件に首を突っ込む気かい?』

「まだ決めてへんけど、その前にセンセの意見を聞いとこうと思いまして」


 電話の相手はゲノム・フロンティア社における製薬事業の要――最高科学責任者(CSO)小谷(こたに)佑人(ゆうと)だ。


 大手製薬会社で(くすぶ)っていた彼は、亜梨朱に引き抜かれてゲノム・フロンティア社の立ち上げに大きく貢献した。亜梨朱にとって右腕と言える存在だ。


 そんな小谷は、この日も川崎市にあるゲノム・フロンティア社の研究所で勤務していた。


『――急性脳炎に似た症状に、DIC(播種性(はしゅせい)血管内凝固症候群)か……恐ろしい病気だね。ウチに手が出せる領分かは、まだ判断がつかないな……』

「ほな、早ちゃんから来た情報送っときますから、何か気づいたことあったら教えてくれます?」

『了解』


 このときの亜梨朱と小谷の会話は、そのような形で終わった。



    †



 状況が変わったのは翌日――7月ε日のことだ。


「……社長、内閣参事官の速水(はやみ)さんという方からお電話です」

「――参事官が?」


 午前10時過ぎ、亜梨朱は秘書の早川を経由して1本の電話に応じた。


「お電話代わりました。本庄です」

『初めまして。内閣参事官の速水と申します!』


 電話口から響いてきたのは、熱量を感じさせるハキハキした男の声だ。

 ――速水(あらた)。内閣官房の中で防災・危機管理を担当する災害対策のエキスパートであり、この日組織された『AQUA(アクア)チーム』と政府間のパイプ役を担う人物だ。


『茨城で発生した集団死亡事件に対して、内閣が緊急災害対策本部を立ち上げたことはご存知でしょうか?』

「ええ、もちろん」


 前置きもそこそこに、速水は早速本題を切り出す。


『――単刀直入に申し上げます。災害対策本部の直下で「創薬チーム」を立ち上げますので、そのトップに就任していただけませんか?』


(――来た!)


 その瞬間、亜梨朱の全身に電流が駆け巡った。


「それは……重責ですね」


 さすがに即答はできず、亜梨朱は速水に対していくつかの質問をした。「災害」について、政府が把握している状況を知るためだ。

 それと並行して、脳内ではこの要請を受ける場合のリスクとリターンを目まぐるしく計算していた。


 速水が要請を述べてから、亜梨朱が結論を出すまでに掛かった時間は、3分に満たなかった。


「――引き受けましょう。微力を尽くさせてもらいますわ」

『ありがとうございます!』


(――駄目やったときは、全てを失うリスクはある……。でも、国がバックアップしてくれるんや。あの新型コロナのとき以来の大チャンスや! ベンチャーのウチがリスクを取らん選択肢はない!)


 既にmRNAワクチンの開発によってゲノム・フロンティア社の名声は揺るぎないものになっているが、そこで守りに入らないのが本庄亜梨朱という人物だった。


 ――こうして、亜梨朱と会社の名誉を賭けた一大プロジェクトが始まった。




 その〝死病〟はこの日、国立感染症研究所(NIID)の比護徹心によって「Acu-SHE」と命名された。

 ゲノム・フロンティア社内でシンプルに「Acu-SHE対策プロジェクト」と銘打たれた計画は発足当日、さっそく暗礁に乗り上げた。


『――病原もわからないんじゃ無理だよ。手の打ちようがない』

「……この話引き受けるの、早まりましたかね……」


 亜梨朱とCSOの小谷は、ビデオ会議越しに対面していた。

 周囲には他のプロジェクトメンバーもいる。オンライン・オフラインの合同会議だ。


 ゲノム・フロンティア社が得意とするmRNAワクチンの開発。それに取り組むには、ウイルスの遺伝情報が必要だ。

 しかし、この時点ではまだ病原である「GRIM」は、その存在さえ確認されていなかった。


『――サンプルは回してもらえるんだよね?』

「はい。死亡患者の血液と那実川で採取した水を研究所に送ってもらってます」

『まあともかく、話はそれが届いてからだな』

「病院の臨床データもまだ手続き中ですし、続きは明日ですね……」


 ――結局この日の合同会議では、プロジェクトメンバーの顔合わせ程度しかできなかった。



    †



 そして翌7月ζ日、災害対策本部のAQUAチームや創薬チームの間に、突破口となり得る重大な情報がもたらされる。


『――サイトカインストームだって……!?』

「はい。茨城大病院の臨床医さんが発見しはりました。間違いなさそうです」


 「Acu-SHE」が招く〝死の発作〟のメカニズムが明らかになったのだ。


 その情報を得た亜梨朱は、さっそく小谷と電話で相談をしていた。


 ――ただし、それは亜梨朱たちにとって必ずしも朗報と言えるものではなかった。


『……死因がそれだとすると、我々にとっては大きなハードルになるね』

「やっぱり、そうなりますよね…………」


 その理由は――――



「――今回、mRNAワクチンは使えませんね」



 最大の〝武器〟が、封じられてしまったからだ。



『――うん。ワクチンが(・・・・・)サイトカインストーム(・・・・・・・・・・)の手助けを(・・・・・)しかねない(・・・・・)。それ以外の対策を考えるべきだろう』


 ワクチンの基本的なメカニズムは「事前に免疫系を活性化・学習させ、病原体への攻撃力を高める」というものだ。

 これに対し、「Acu-SHE」が招く直接の死因は、サイトカインストームという〝免疫系の暴走〟である。

 ワクチンによって「Acu-SHE」に対する免疫反応を学習させてしまうと、より重篤なサイトカインストームを前倒しで発生させる可能性がある――そう推測された。


(……なんちゅうこっちゃ……。ワクチン開発を期待されてお声が掛かったっちゅうのに、そのワクチンを封じられるなんて……)


 亜梨朱の胃に、ずっしりと重いプレッシャーがかかった。

 今回の〝敵〟は、新型コロナウイルスとは全くの別物だと理解させられた。



『――こうなったら、後は臨床データが頼りだ。対症療法でもいい。まずは、現実的に病状の進行を遅延または軽減させる術を見つけるべきだろう。完全な治療を考えるのはその後だ』

「……確かに、免疫の暴走っちゅうことは、免疫抑制剤が対症療法になるかもしれませんね」


 新たな方針は決まった。


 まずは亜梨朱を中心とするデータ分析チームによって、臨床データの分析を行う。

 この7月ζ日には、ゲノム・フロンティア社の限られたメンバーに対して、国内の医療情報ネットワークへの緊急アクセス権が政府によって許可されていた。もちろん、実データそのものではなく、匿名化されたものだ。


 「Acu-SHE」による死者数は、既に1万5千を超えていた。また、0.1%の割合で生還した者もいる。

 その明暗を分けたものは何なのか。何が延命に効果があり、何がそうでなかったのか。――それらをネットワークに記録された臨床データから、徹底的に洗い出すのだ。


 もし薬効を持つ具体的な医薬品やその成分が特定されれば、動物実験や臨床試験にも進めるだろう。


(――まだや。まだ、諦めるには早すぎる。絶対にウチが手がかりを見つけてみせる……!)


 電話を切った亜梨朱は、胸中で決意の炎を燃やした。




 同日、深夜。


「――やっぱり、鍵は免疫抑制剤か」


 亜梨朱は十数時間に及ぶ臨床データとの格闘の末に、以下の事実を明らかにした。


・「Acu-SHE」の生還者の内、2割の者は日常的に免疫抑制剤を服用しており、現在も服用を続けている。

・免疫抑制剤を服用していた者は、「Acu-SHE」の末期症状が軽減され、生存する傾向がある。また、免疫抑制剤の投薬を中止した結果、患者が死亡するケースも見られた。


「――満足する成果は得られましたか?」


 PCモニターとにらめっこをしていた亜梨朱のデスクに、コトリとノンカフェインコーヒーの缶が置かれた。


「おぉ、早ちゃん。遅くまでごめんなぁ……って、もう日付変わっとるやんけ!」

「はい。1時間ほど前にもお声掛けしたんですけど……」

「全っ然気づかんかったわ」


 年下の早川秘書は、わざわざ亜梨朱が仕事を終えるまで待っててくれていた。


 それから2人はバタバタと本社ビルを出て、タクシーで帰宅することになった。



    †



 7月η日。

 亜梨朱は出社して早々、昨夜のデータ解析によって得られた結果をプロジェクトメンバーの前で発表した。


「――以上から、これらの免疫抑制剤によって、患者の死を防げる可能性が高いと考えられます」

「なるほど……」

「希望が見えてきましたね。さすが社長!」


 メンバーからの反応は上々だった。

 このプレゼンの際には、CSOの小谷も日本橋の本社に赴いていた。


「――素晴らしい発見ですね。早急に動物実験に取り掛かりましょう」


 小谷からのお墨付きを得て、亜梨朱は内心でガッツポーズを作った。


 こうして、川崎市の研究所で動物実験が開始された。


 ――この日、NIID側で行われた動物実験によって、2日前に那実川の水などを摂取させられたラットが「Acu-SHE」の末期症状を発症して死亡した。

 このことから、ラット等が感染してから末期段階に至るまでの期間は約2日と推定された。

 つまり、ラットを使った実験で延命効果を確かめるには少なくとも2日を要する、ということだ。



    †



 その2日後――7月ι日の午後。


 小谷からの電話によって、待ちわびた報告が亜梨朱の耳に届く。


『――成功だ! 免疫抑制剤を投与したラットは、ほとんどが生存しているよ!』

「ぃよっしゃあっ!」


 その報せを聞いたとき、亜梨朱は思わず拳を高く突き上げた。


『……ただ、生還したラットはあまり健康とは言えないかもしれない。こちらについては、引き続き経過観察が必要だね』

「病原は残っとりますからね。あくまで延命できるっちゅうだけですもんね」


 小谷の言葉は、亜梨朱にとって想定の範囲内のものだった。


『その経過観察と、もう少しパターンを変えた動物実験を行って――3日以内にはPMDA(=医薬品医療機器総合機構)を納得させられるだけのデータが揃えられると思う』

「それまでに、臨床試験の結果も得られるとええですな」


 亜梨朱は既に、データ分析の結果リストアップした薬剤の情報を災害対策本部内で共有しており、政府を通じて治験の段取りをも整えようとしていた。


 この日得られた動物実験の結果は、その後押しとなると考えられた。



    †



「――宇都宮病院から、治験結果の速報が届いています。『Acu-SHE』に感染したと思われる患者が発作を生き延びたとのことです」

「そら、良かったなあ」


 その後の3日間で、亜梨朱が期待した通りのことが起こった。


 関東北部や東北地方を中心に、併せて数十の病院が治験への協力に手を挙げた。

 そして、合計で100名以上の患者が「Acu-SHE」に感染しながらも生還を遂げたのだ。


 バリシチニブ、デキサメタゾン、シクロスポリン――。

 亜梨朱や小谷らプロジェクトチームは、数多ある免疫抑制剤の中から最終的にこの3種を緊急承認の対象に選んだ。

 それぞれ軽症向け、中等症向け、重症向けで使い分けられる想定だ。


 いずれの薬剤についても、「Acu-SHE」の発作を抑える効果があることが動物実験及び臨床試験によって確かめられた。


 ――もはや死角はない。


 亜梨朱がそう思うのも、無理はなかった。



 そして8月α日。

 小谷がまとめた医薬品の緊急承認申請がPMDAに提出された。


 本来であれば、PMDAによる医薬品の審査には少なくとも数か月を要する。――が、事は国家存亡の危機である。

 超特急で審査が進むことは既定路線だった。



(――うふふっ。「抑制薬」に問題はあらへん。またウチが、人類をパンデミックから救ったるで〜)


 8月β日の午後。

 亜梨朱はこの上なく機嫌が良かった。彼女は唐突なランチ会を発案し、手を挙げた30名余りの社員に気前よく叙々苑の焼き肉をご馳走した。



 ――1本の電話が掛かってきたのは、亜梨朱らがオフィスに戻った直後だった。



「はい。ゲノム・フロンティアの早川です」


 秘書の早川が電話に応じた。


 亜梨朱はそのとき、なんとなく嫌な予感がした。


「――社長。東北大学病院の院長先生からです」

「……何やろ?」


 東北大病院は、免疫抑制剤の治験にいち早く協力してくれた病院の1つだった。


「お電話代わりました。本庄です」


 ……それから院長が語った内容は、亜梨朱にとって信じがたい――いや、信じたくないものだった。


「――――なん、ですって…………?」


 亜梨朱の顔色は蒼白を通り越して土気色に変わり、唇がわなわなと震えていた。


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