5. 泡沫の夢①明るいニュース
8月β日、木曜の午後のことだ。
僕――宇梶慧はこの日、いつものように帝都大学の宇宙工学研究棟に出勤していた。
「Acu-SHE」の猛威は日本だけでなく、世界に牙を剥き始めている。……まるで、僕が「全球汚染シミュレーション」で予測した未来をなぞるかのように。
暗いニュースには事欠かないが、一方で明るいニュースもある。
「Acu-SHE」対策の大本命――サイトカインストームを阻害する対症薬の緊急承認が間もなく下りるという話だ。
免疫抑制薬として知られる3種類の既存薬がその対象となっている。
いずれも、ゲノム・フロンティア社の本庄社長が率いるチームのビッグデータ解析によって選出され、動物実験などで薬効が確認されたものだ。
――即ち、既存薬転用と呼ばれる手法だ。
通常、新薬の開発には10年や20年という期間が必要らしいが、既存薬の転用であれば安全性の懸念が払拭されるため、その期間を大幅に短縮できる。
……とはいえ、ふつうはこの数日という短期間に収まるものではない。それが可能になったのは、日本が「Acu-SHE」によって国家的な危機に立たされ、感染研や医療機関など関係者が一丸となって治験等のプロセスを進めたからだ。
これらの薬は、あくまでサイトカインストームによる〝死の発作〟を防ぐだけで、病原――「GRIM」を取り除く効果はない。
しかし、これらによってたくさんの命が救われるだろう、と考えられている。
『――……宇梶、ちょっと相談したいことがある』
比護からチャットで連絡が入ったのは、そんな折のことだった。
このとき僕は少し遅めの昼食を終え、午後の作業を開始したところだった。
僕はチャットで了承の返事をした後、研究室内に設置されたビデオ通話用の個人ブースに入室する。
「比護……何かあったのか?」
カメラ越しに向かい合った比護は、げっそりとしていた。
ろくに睡眠も取れていないのか、目の下にはひどい隈のあとがあった。
一昨日の夜――GSTFの初回会合時に顔を見たときにはもっと普通だったと思うが……。昨日今日で、何かあったのだろうか?
「――昨日は大発見だったな。サイトカインストームのメカニズムがわかったんだろう?」
『そう……それだよ……』
比護の声はひどく弱々しかった。
当てずっぽうを言ってみたわけだが、どうやら〝この件〟で合っていたようだ。
『……何か、気づいたことはないか……?』
「いや――僕も忙しくてね。概要を把握するのが精いっぱいだった」
すがるような目を見せる比護に対し、僕は正直に答えた。
GSTFの議長となってから、僕の抱える仕事は以前の何倍にもなった。
「GRIM」を無力化するための物理学的なアプローチを試みるプロジェクトが立ち上がっており、僕はその総取りまとめ役を担っているのだ。それに加えて、「全球汚染シミュレーション」の継続的なアップデートといった実作業もある。
――ある意味で、事実上の国内感染対策の司令塔である比護と似た立ち位置になったと言えるかもしれない。
『そうか……お前も忙しくなったもんなぁ……』
比護は落胆したように大きな溜め息を吐いた。
……相変わらず、話の内容は見えない。
「いったい何があったんだ? 昨日の実験で、〝敵〟の正体に近づいたんじゃないのか?」
『ああ、そうだとも』
比護はそう答えた後、カメラの前でがっくりと頭を下げた。
『俺は、俺たちの対策は、根本的に間違っていたのかもしれない……! 彼女にもひどい無駄骨を――。「GRIM」は、あの悪魔は……!』
「おい、比護! 落ち着け!」
あまりに支離滅裂なことを言う比護を前に、僕は思わず声を荒げた。
防音性のあるブースに入っていて良かった、と思った。
……まったく、いつものクールでニヒルな比護はどこに行ったんだ?
昨日、比護が感染研で実施したという動物実験。あれが鍵を握っているのだろうか……?
「――とにかく、最初から全部話してくれ」
『ああ、すまない……。実は――――』
それから比護が僕に語った内容は、人類にとって極めて残酷な仮説だった。
「――――比護。それは、事実なのか…………?」
震える声で訊ねながら、僕は全身からサーッと血の気が引くのを感じた。
†††
――同日、午前11時頃のことだ。
AQUAチーム――正式名称「科学対策統括室」――の室長である榊征士郎は、埼玉県の自宅で束の間の家族団欒の時を過ごしていた。
榊も慧や比護などと同様に、この10日間ほぼ休みなく稼働し続けていた。そこで、孫の誕生日祝いを兼ねてこの日を特別休暇に当てることにしたのだ。
「――お義父さん、今朝はありがとうございました」
リビングのソファで読書をしていた榊に話し掛けたのは、榊の家族の1人――長男の嫁に当たる榊英里奈だ。
専業主婦の彼女は、榊たち義理の両親の分も含めて、一家の家事を上手く切り盛りしている。
「なに、大したことはしてないよ」
榊は本から目線を外してそう応えた。
英里奈は腕を組み、思案げな表情を見せていた。
「キョンが泥んこになって帰って来たんですよね? ……まったく、どこで遊んで来たんだか……」
キョンというのは、榊家で飼っている茶トラの雄猫だ。
家猫ではあるがよく家を脱走する常習犯であり、近所の子供たちにも名が知られているほどヤンチャな猫だ。
榊が今朝やったことというのは、ぐっしょりと濡れたまま家に上がって来たキョンを捕まえて、風呂場で洗ってからタオルでよく拭いて乾かしてあげたことだった。
榊1人ではなく、孫息子の伊織も祖父の手伝いをして、キョンの世話を焼いていた。
「……うん。そろそろ、外に出すのはやめておいた方がいいかな」
「例の感染症が怖いですからね。……ああ、戸締まり気をつけなきゃ!」
榊一家は全員、キョンには甘いところがあるので、しっかり家庭内のコンセンサスを得ることが重要だと考えられた。
このとき、テレビのニュース番組で「Acu-SHE」の国内被害状況が流れていた。それを見て、英里奈はつい顔をしかめた。
「コロナの時よりも、よっぽどひどいことになりそうですね……。これから先、この国はどうなっちゃうんでしょう……」
「……大変な困難が予想されているのは間違いない」
不安を滲ませる英里奈に対し、榊は言葉を選んで答えた。
榊はもちろん政府の今後の計画を知り得る立場にあるが、家族といえどもおいそれと明かせない情報も多かった。
「――でも、決して希望がないわけじゃない。『Acu-SHE』の対症薬が今日明日には緊急承認されるはずだ。薬が手元にあれば、感染しても一命は取りとめられるだろう」
「……それなら、ちょっとは安心ですね」
「ああ。私は立場上、もう薬を支給してもらってるから、万が一のときはすぐに教えなさい」
「はい……」
榊と英里奈がそんな会話をしていた頃――
「ねえ、見てみてー!」
リビングに甲高い子供の声が響いた。
榊の孫である8歳の伊織が、小走りで室内に入って来た。
伊織はなぜか、両手に銀色の平べったい鍋を抱えていた。そのまま彼は、榊の座るソファの側まで近づく。
「……おや? なんだい、それは」
榊はなんとなく察しがついていたものの、あえて知らないフリをして孫に訊ねた。
伊織はアルミ製の鍋をことりと床に置き、蓋を開ける。その中には――
「おお、キョンじゃないか」
「えへへ、『猫なべ』って言うんだよ」
鍋の中には、茶トラの猫がすっぽりと体を丸めて入っていた。
これぞ榊家の飼い猫にして、問題児のキョンだ。
いつもは家中を我が物顔で闊歩しているキョンだが、このときは穏やかに眠っていた。
キョンはリビングのライトが眩しかったのか、眠たそうに薄目を開き――ブシュンッと、まるで人間のようにくしゃみをした。
「……風邪でも引いたのかな? 今朝はびしょ濡れだったし」
「猫は1日14時間眠るというからね。そっとしておいてあげなさい」
「はーい」
伊織は元通り鍋に蓋をすると、リビングのローテーブルの側に置いた。もちろん、キョンが窒息しないように密閉はされていない。
――それは、何でもない日常の光景だった。
……少なくとも、この時点では……
†††
――同日の正午頃。
日本橋本町にそびえる高層オフィスビル。
数年前、新型コロナウイルスに対するワクチン開発で名を馳せたゲノム・フロンティア社のオフィスは、その上層階に位置する。
オフィス最奥の席に座るのは、ミディアムヘアのやや小柄な女性だ。
ベージュのパンツスーツに身を包んだ彼女は、高いヒールの上にすっと立ち上がると、パンパンと手を叩いた。
「みんなー、ウチの奢りで今から叙々苑に行くで! 薬剤承認の前祝いや!」
オフィス内にいた多くの社員から、どっと歓声が上がる。
「うおおおっ! マジか!」
「やったー! 神様、社長様ッ!」
「他人の金で食う高級焼き肉って、それ最高なヤツじゃん!」
「――人の心とかないんか?」
社員らの反応に明るい笑顔で頷く彼女こそ、ゲノム・フロンティア社の社長――本庄亜梨朱だ。
この日、亜梨朱の気分は最高潮に達していた。
9日前に政府から緊急招集されてスタートした、国家的なプロジェクトが佳境を迎えていたからだ。
それは、「Acu-SHE」に対抗できる医薬品の開発、または発見を目的としたプロジェクトだ。
亜梨朱は、緊急災害対策本部下の創薬チーム長に任命され、国家的な権限と裁量を与えられてこの難事に挑むことになった。
バリシチニブ、デキサメタゾン、そしてシクロスポリン――。
亜梨朱が率いる創薬チームがこの9日間で発見した、3種の既存薬だ。いずれもサイトカインストームの抑制に一定の効果があることが確かめられている。
きっと、明日には承認が下りることだろう。
「――やりましたね、社長。これでまた1つ、歴史に名を刻めますよ」
「ふふふっ、そうやな」
苦楽を共にした秘書の言葉に、亜梨朱は笑みを深めた。
短くも濃密な日々だった。
決して平坦な道のりではなかった。
亜梨朱は、目まぐるしかったこの9日余りの出来事を回想する――
この世界の人類が誇る叡智の一角、本庄亜梨朱氏が本編に初登場です。
2章から名前は登場していたものの、ようやくのお目見えとなりました。
次話は亜梨朱の回想回となります。
このエピソード「泡沫の夢」は今までで最も長く、全3〜4話にまたがる見込みです。
じっくりとお付き合いいただければ幸いです。
【お知らせ】
(2026-03-17)本作とは系統も異なりますが、カクヨムの方で新連載を始めました。
『暁のヴァルキュリア』 https://kakuyomu.jp/works/822139846286835384
戦うヒロインが主人公の北欧神話風ファンタジーです。まだ1話のみですが、今週もう2話投稿予定です。
よろしければ是非ご覧ください。




