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4. ボーダレス・ワールド(下)

 ――ハワイ、カウアイ島。


 「ガーデン・アイランド」の愛称で知られる、熱帯雨林に覆われた自然豊かな島だ。


 米国本土からの移住者であるモーガンは、この島の山間に建てたロッジで1人暮らしをしている。

 7月μ日の朝(日本時間で翌日の未明)、彼はひどい頭痛にうなされていた。


 モーガンはリモートワークで生計を立てつつ農業に取り組み、半自給自足の生活を営んでいた。憧れだった「自然と一体化した生活」をやっと実現したのだ。

 ――しかし、今日は畑の手入れも満足にできそうにない。


「水を……」


 モーガンはベッドから這い出し、よろめきながらキッチンへ向かう。

 蛇口をひねってグラスに水を注ぐ。雨水貯留タンクと直結した、天然の水道水だ。


 ごくごくと喉を鳴らしながら、モーガンは昨日見た忌まわしい光景を思い出す。



 モーガンに自然の恵みをもたらす、ひと筋の川。

 ――その水際に……血まみれの水鳥が突っ伏していた。

 どこかから飛んで来た、アホウドリの死骸だ。


 本来は大半が真っ白なはずの羽毛は、(おびただ)しい数の紫斑(しはん)によって赤紫色に染まっていた。

 くちばしと目からはどろりと赤黒い血を垂れ流し、川の水をじわじわと不吉な色に染めていた。


 アホウドリは1日で1,000km近く飛行することもある。

 ――ひょっとしたらこの個体は、ハワイから6,000kmほど離れた日本の海からやって来たのかもしれない。

 ……が、それはモーガンの想像が及ぶ範囲を遥かに越えていた。


 ――気味の悪い死骸。

 モーガンにとっては、ただそれだけの存在だった。


 モーガンは死骸から離れた下流で淡水エビを収穫し、よく洗った上でガーリックシュリンプにして胃袋に収めた。

 それが昨日の出来事だ。



 日本で奇妙な病気が流行っていることは知っていたし、昨日は緊急のG7サミットとやらで何かそれに関する宣言がなされていた。が、それらが今すぐモーガン自身の生活に関わることだとは、全く思わなかった。


 しかし――――


「うぐっ!? ――ぐがぁあ゛あ゛ぁぁっっっッッッ!?」


 モーガンはベッドに戻る途中で、突然激しい頭痛に襲われる。

 立っていられず、床に尻もちをつく。


 痛みは全身に広がり、ぶちぶちと何かが弾けるような異音が頭の中で鳴り響く。


(なんだ、この痛みは……! 俺は、死ぬのか……ッ!?)


 モーガンはわけもわからず、フロアの上でのたうち回る。


 両目から血の涙を流すモーガンの脳裏に、再び昨日目撃したアホウドリの凄惨な姿が浮かび上がる。


(――あの……アホウドリの呪い、なのか…………)


 たっぷり数分ほど地獄の苦しみを味わった後、モーガンは人知れず息を引き取った。


 ――この日、カウアイ島のある川の下流で、小規模な「Acu-SHE(アクーシェ)」のアウトブレイクが発生した。





 ――ロシア。シベリア東部、ヤクーツク市。


 永久凍土の上に築かれたこの街も、短い夏の間は気温が30度近くまで上昇する。

 ここ数日、ヤクーツクの東を流れる大河レナ川の流域では、スコールのような局地的な豪雨が散発的に発生していた。それらは、偏西風に乗ってやって来た雨雲に由来するものだった。


 7月μ日、深夜の河川港。

 雨上がりの湿気がもわっと立ち込める中、荷役作業員たちが入港した貨物船から物資を倉庫へ運んでいた。

 その1人であるボリスは、荷物を下ろした途端に重い咳をした。


「……おい、大丈夫か?」


 同僚に気遣われ、振り返ったボリスの顔色は悪い。


「ああ、ヤコフ……。今日の昼間、釣りの途中であの大雨に降られてな。ずぶ濡れになったせいか、どうも風邪を引いたらしい」

「災難だったな。少し休んで――」


 ヤコフが肩に手を伸ばそうとした瞬間、ボリスは「ゴホッ」と血を吐き、倉庫の床に横向きに倒れた。


「おい! どうした!」

「頭が……割れそうだ……」


 ヤコフは片膝を床につき、ボリスの容態を確かめる。

 ボリスは鼻血を流し、苦痛に顔をしかめていた。


 ――これはただごとではない。


 ヤコフはすぐに助けを呼ぼうと考えたが、その前にガシッとボリスに腕を掴まれてしまった。


「ボリス! 手を放せっ! いま助けを――」

「ああ、ヤコフ! 待ってくれ! 死神が、今そごにいるんだ……ッ!」


 ボリスは錯乱し、鮮血と共に妄言を吐き散らしていた。

 ヤコフはなんとか彼の手を引き剥がし、外にいた作業監督の元に駆ける。


「――ヤコフ! 行ぐなっ……!」


 後ろ髪を引かれる思いをしながら、ヤコフは一時的にその場を離れた。


 ――2、3分後。


「なんてことだ……」


 ヤコフが監督者と共に現場に戻ったときには、ボリスは血溜まりの中で絶命していた。


 ボリスの放った「死神」という言葉が、ヤコフの耳に妙にこびりついて離れなかった。





 ――カナダ、ブリティッシュコロンビア州。


 西海岸に接する広大な州の内陸部に、プリンス・ジョージという市がある。

 見渡す限りの針葉樹林と数多の湖に囲まれた、自然と同居した近代都市だ。


 7月μ日の早朝。

 この市の総合病院の救急救命室(ER)に、1人の男性患者が緊急搬送されてきた。

 それが、この後に続く「事件」の幕開けだった。


「――お願いします! 夫を助けてください!」


 ストレッチャーの側で、付き添いの女性――患者の妻が泣き叫ぶように訴えた。

 夫人によれば、夫である男性は昨日ウェスト・レイク州立公園でソロキャンプを楽しんでおり、その帰りに激しい夕立に襲われたという。


 男性は、就寝前に軽い風邪の症状を訴えていた。

 ひと晩寝れば治るだろう――夫婦の淡い期待は裏切られた。

 今朝、夫人がうなされ続けていた夫の体温を測ったところ、その熱はなんと40度に達していたのだ。


「落ち着いてください。すぐに診ます」


 当直の医師がなだめながら、患者のバイタルを確認しようと聴診器を当てた。

 ――その瞬間だった。


「があっッ! ぐわ、あ゛あ゛ぁぁっッッ!!」


 ストレッチャーに横たわった男性が、突然体を弓なりに()らし、激しい痙攣(けいれん)を起こした。


「あなたっ!?」


 夫人が血相を変えて夫の体を抑えつけようとする。

 それと同時に、男性患者の口や鼻から鮮血がシャワーのように噴き出し、医師の白衣や夫人の衣服を赤く染め上げる。


「――キャアアァッッ!?」


 室内に看護師らの悲鳴が響いた。


「なっ……!? 気道確保、急げ! 吸引(サクション)の用意を!」


 医師が矢継ぎ早に指示を出し、看護師たちが慌てて医療器具を持って駆け寄る。

 だが、彼らが施そうとした様々な医療処置は、いずれも意味を成さなかった。

 男の目や耳からも血があふれ出し、点滴の針を刺そうとした微かな傷口からさえも出血が止まらないのだ。


 医師は目撃した。

 ――血まみれになった患者の首筋から胸元にかけて、ブツブツと赤紫色の紫斑が急速に広がり、斑点同士が融合しておぞましく成長していくのを。

 それは、ただの感染症や内臓疾患の症状ではない。全身の毛細血管がDIC――播種性(はしゅせい)血管内凝固症候群――によって破壊されている証拠だった。


「――――まさか…………」


 眼鏡に付着した血を拭き取りながら、医師は戦慄していた。


 ――この症状。例のアレ(・・)にそっくりじゃないか……


 昨日、G7+サミットで共同宣言が発表された「脅威」――極東の島国で発生したという致死的な奇病。



「…………『Acu-SHE』だと言うのか…………?」



 医師は、今さらのようにスタッフに個人防護具(PPE)の装着を指示しようとし――患者と接触した者には着衣を処分してシャワーを浴びるように付け加えた。


「――あなた! しっかりしてっ! あなたーーッ!!」


 患者のバイタルは間もなく、生命のしるしを喪失した。



 医師はすぐに、本件を病院の上層部に報告した。

 その後、病院から市当局を経由して、政府直轄の災害対策チームに包括的な調査対応が委ねられた。


 この日、カナダ国内で「Acu-SHE」を発症したのが彼1人――などということは、当然なかった……。




    †††




 ――米国、ワシントンDC。ホワイトハウスにて。


 7月μ日の夜のことだ。

 大統領執務室(オーバルオフィス)の重厚な扉が開き、首席大統領補佐官のダグラスが勢いよく駆け込んできた。


「大統領! ――カウアイ島で『Acu-SHE』のアウトブレイクが発生しました!」


 デスクの奥に座っていたケネス・ハリソン大統領は、弾かれたように顔を上げた。

 ケネスは鋭く目を細める。そのこめかみにひと筋の汗が流れた。


「――遂に来たか……。感染症対策は徹底しているな?」


 ダグラスは首肯するが、その表情は硬い。


「はい。日本から提供されたマニュアルを参考に、各州で封じ込め対策を取らせています。しかし……我が国だけではありません。カナダ、イギリス、ロシア……北半球の広範囲で、同時多発的に病魔が広がりつつあります」


 ケネスは椅子に背を預け、深い溜め息を吐いた。

 ――が、すぐに復帰して指示を発する。


全球脅威対策機構(GTRO)を通じて各国に情報共有を。日本から提供された対応プロトコルを再確認するんだ」

「承知しました」


 ケネスの指示はそれだけに留まらない。


「もう1つ――国内向けに政府会見の手配を頼む。国民に対策が後手に回っていると思わせてはいけない」

「イエッサー」


 ひと通りの指示を得たダグラスが(きびす)を返し、足早に執務室を後にする。



 再び1人になったケネスは、デスクの脇にある大型モニターへ向き直り、手元の端末を操作して世界地図を映し出した。


 ……ややあって、ケネスは両肘をデスクに突き立て、頭を抱え込んだ。

 灰白色の頭髪を、両手でぐしゃりと握りつぶす。


「――あまりにも早すぎる……これが現実か……」


 その声は、恐怖で震えていた。

 大統領として人前では決して見せられない、1人の弱い人間の姿がそこにあった。


 地図上には、新たに確認された「Acu-SHE」の感染を示す赤い光点が、北半球のあちこちにポツポツと灯り始めている。

 東アジア、北米大陸、ハワイ諸島、そしてヨーロッパ……広大な北半球の陸地を侵食していくその赤い点の分布を見て、ケネスは絶望が間近に迫っていることをまざまざと実感した。


 今までケネスは世界のリーダーとして、先手先手で事を進めてきたつもりだ。

 日本と緊密なやりとりをしつつも、心の奥底では対岸の火事だと思い込んでいた。――だから余裕があったのだ。

 急速な事態の進行は、ケネスのその隠れた本心を白日の元にさらけ出した。


 これからは、そうは行かない。

 もはや人類は一蓮托生だ。


 中国の故事に「呉越同舟」という言葉があるが、今まさに全ての人類国家が「地球」という名の1つの舟に強制的に乗せられた。


 ケネスの双肩に、アメリカ国民3億4千万の命がずしりとのしかかった。



「――日本のウカジ博士は正しかった……」


 世界に牙を剥いた「Acu-SHE」の感染状況の推移――それは、4日前に慧が構築した「全球汚染シミュレーション」の予測と、驚異的な精度で一致していた。


〝黙示録〟


 不吉を予言する単語が、ケネスの脳裏に深々と刻み込まれた。



 ケネスは再び「世界の強いリーダー」を演じるまでの短い時間、計り知れない恐怖や重圧との孤独な戦いを続けた。



 ――――海洋汚染のアリューシャン列島到達まで、あと4時間…………


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