第7話 レイナルド視点
大抵のことは、やろうと思えばできた。
学問でも剣術でも、教師を困らせた覚えはない。社交はあまり好きではなかったが、必要とあれば相手に合わせて会話くらいはできる。王太子なのだから、その程度は当然だと思っていた。
父と母は、一人息子である俺に大きな期待を寄せていた。それを重荷だと思ったこともない。
二人から愛されているという自覚もあったし、王と王妃として尊敬もしている。そんな両親のもとに集まる家臣たちも優秀で、幼い頃から身の回りで大きな問題が起きることもほとんどなかった。
だから、両親が俺の婚約者として選んだジュリア・アルバインも、当然のように申し分のない令嬢だった。
侯爵令嬢として十分な教養があり、礼儀作法にも隙がない。容姿も美しく、王太子妃となるための教育にも真面目に取り組んでいる。周囲からの評判もよかった。
俺の婚約者として、何一つ問題はない。
ただ――心が動かなかった。
別に、ジュリアが嫌いだったわけではない。彼女が俺の好きな音楽を調べて演奏会へ誘ってくれたことも、興味を持ちそうな本を探してくれたことも知っている。
母には一度、
『ジュリアがあれほどあなたに歩み寄ろうとしているのですよ。あなたも少しは応えなさい』
と呆れられたこともあった。
言われてみれば、その通りなのだろう。いつまでも昔の思い出に引きずられているのも、いい加減にするべきなのかもしれない。そう思っていた。
それでも、忘れられなかった。
幼い頃、地方の王領で出会った少女。
俺が王太子だとは知らず、ただ一人の少年として笑いかけてきた。
『レイ、早く!』
あの声も、あの笑顔も。身分も王太子という肩書も関係なく、ただ俺自身へ向けられた眼差しも。
一緒に過ごしたのは、わずかな時間だった。それなのに、何年経っても忘れることができなかった。
◇
王立学園への入学を控えたある日、ジュリアがそんな俺に言った。
『クラスが違うのは少し寂しいですけれど、王宮ではこれまで通りお会いできますものね』
それから、少し考えるようにして続けた。
『殿下も、学園ではご友人を作られてはいかがですか?』
『友人……俺が、か?』
『ええ。同じ年頃の方々と過ごす機会なんて、これから先はなかなかありませんもの』
そのときは、そういうものなのかと思っただけだった。もっとも、自分から誰かに声をかけて友人を作ろうとは思わなかったが。
やがて、王立学園へ入学する日を迎えた。
王太子には、新入生を前に挨拶する役目があった。開始時刻に間に合えば問題はなかったが、遅れるわけにもいかないと早めに王宮を出た結果、ずいぶん余裕をもって着いてしまった。
式まではまだ時間がある。せっかくだからと、校舎の中を見て回ることにした。
この学園を建てたのは、先々代の国王だと聞いている。
白い石造りの校舎には尖塔や細かな装飾がやたらと多く、窓も縦に長い。荘厳ではあるが、実用だけを考えて建てたとは到底思えなかった。
先々代陛下の趣味がかなり入っているな。
そんなことを考えながら廊下を進む。
天井や壁には照明用の魔道具が惜しげもなく取り付けられていて、朝だというのにどこを歩いても明るい。
王宮でも似たようなものだが、ここまで必要なのだろうか。これだけの数を常時稼働させれば、維持費も馬鹿にならないはずだ。いくつか減らしても支障はないのではないか。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、ふと別のことが頭をよぎった。
もう、子どもの頃の思い出に縋るのはやめよう。
ジュリアとも、これから少しずつ関係を築けばいい。学園へ入ったのを、一つの区切りにすればいいのだ。
そう考えていたときだった。
正面から、一人の女子生徒が歩いてくる。
何気なくすれ違い――数歩進んだところで、足が止まった。
「……え?」
振り返る。
向こうも同じように立ち止まり、大きく目を見開いていた。
「レイ?」
息が止まった。
何年経っても忘れられなかった声。この国でただ一人、俺をそう呼ぶ少女が――そこにいた。
「……アイーダ?」
名前を呼ぶと、彼女はますます目を丸くした。しばらく俺の顔を見つめてから、おそるおそる口を開く。
「レイ……? 本当にレイなの?」
その瞬間、胸の奥から安堵が込み上げた。
覚えているとは思わなかった。何年も経った今、もう一度あの呼び方を聞けるとも思っていなかった。
「久しぶりだな」
「久しぶり! うわあ、全然分からなかった。すっごく背が伸びたね。それに……」
俺の顔をまじまじと見ていたアイーダが、途中で言葉を止めた。
「……どうした?」
「いや、その……すごく格好よくなったなあって」
「そうか?」
「そうだよ。昔から綺麗な顔してるとは思ってたけど……」
「お前は変わらないな」
「えっ、嘘。そんなことないよ!」
アイーダは慌てたように一歩下がると、制服の裾をつまみ、ぎこちなく膝を折った。
「ほら。私だってちゃんと貴族のお嬢様になったでしょう?」
覚えたばかりなのだろう。形そのものは間違っていないが、どこか危なっかしい。
「……確かに」
「今、ちょっと笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑った!」
そんなやり取りをしているうちに、周囲が妙に騒がしいことに気づいた。
行き交う生徒たちが、ちらちらとこちらを見ている。中には露骨に足を止めている者までいた。
アイーダもようやく気づいたらしく、不思議そうに周囲を見回した。
「……みんな、どうかしたの?」
「少し移動しよう」
「え?」
「こっちへ」
彼女の手を取り、人通りの少ない場所まで連れていく。
アイーダは訳が分からないままついてきたが、そこで俺が身分を告げると、しばらく声も出なかった。
そして――。
「ええっ!? レイって王子様だったの!?」
思わず笑ってしまった。
「正確には王太子だ」
「もっとすごいじゃない!」
途端に顔色を変え、慌てて頭を下げようとする。その肩へ手を添えて止めた。
「いい。今さらそんなことをしなくて」
「え、でも、よくないでしょう!?」
「昔と同じでいい」
「でも……」
「俺がそうしてほしいんだ」
アイーダは困ったように俺を見た。
やがて周囲を気にするように視線を動かし、声を落とす。
「……分かった。じゃあ、二人のときだけね」
「ああ」
それだけで、胸の奥が軽くなった。
もう二度と戻れないと思っていた時間が、あの頃のまま目の前に戻ってきたような気がした。




