第5話 ジュリア視点
学園内で開かれる夜会が近づいていた。
婚約者のいる生徒は、その相手とともに出席する。当然、私もレイナルド殿下にエスコートしていただくことになる。
分かっているはずなのに、不安になって確認せずにはいられなかった。
「殿下……夜会は、殿下がエスコートしてくださるのですよね?」
レイナルド殿下は驚いたように私を見る。
「当たり前だろう。君は俺の婚約者なんだから」
その言葉に、胸の奥がほどけていった。
そうだ。殿下はちゃんと、私を婚約者だと思ってくださっている。
夜会当日。
鏡台の前に座る私の顔を見て、侍女が困ったように眉を寄せた。
「お嬢様、今日は目元をいつもより丁寧に仕上げましょうか」
「……やっぱり、目立つ?」
「少しだけ。ですが、きちんと隠せますのでご安心ください」
「お願い」
殿下がアイーダと昔のように過ごすことを認めて以来、眠れない夜が増えた。眠れないのならと本を開いているうちに、いつしか目の下には薄く影が残るようになっていた。
それでも化粧を終えると、侍女は満足そうに微笑んだ。
「まあ、とてもお綺麗でございます」
この日のために仕立てたのは、菫色のドレスだった。以前、殿下がこの色を好まれると耳にしたことがある。少しでも目に留めていただければと選んだものだ。
「私にしては、愛らしすぎるかしら」
「いいえ、とってもお似合いです」
やがて扉が叩かれ、侍女が顔を輝かせた。
「お嬢様。レイナルド殿下がお迎えにいらっしゃいました」
部屋を出て玄関広間まで下りると、殿下は私の姿を見て目を細めた。
「よく似合っている」
「……ありがとうございます」
頬が熱くなる。今日、このドレスを選んでよかったと思えた。
会場へ入る際には、殿下が腕を差し出してくださった。その腕に手を添え、二人で広間へ入る。
「まあ、お綺麗ですこと」
「やはり、お似合いのお二人ですわね」
そんな囁きが聞こえてくるたび、胸の奥に溜まっていた不安が薄れていった。
やがて音楽が流れ始めると、殿下がこちらへ手を伸べた。私はその手を取り、ともに広間の中央へ進む。
殿下は何をなさってもそつがない。ダンスも例外ではなく、私を危なげなく導いてくださった。
一方の私は、もともとダンスが得意ではない。殿下の隣で恥をかかないよう、何度も教師について練習してきた。その甲斐あって、今では互いの足取りが乱れることもない。
「さすがですわね」
「本当にお見事だわ」
周囲から聞こえてくる声に、誇らしい気持ちになる。
そうだ。私は殿下の婚約者なのだ。
殿下の手に導かれ、緩やかに身体を返す。
そのときだった。
向きが変わった一瞬、殿下の視線が私ではなく、その向こうへ向けられていることに気づいた。
気のせいかと思った。だが、その後も殿下は何度か私の肩越しへ視線を向ける。
その先には、アイーダがいた。
桃色のレースを幾重にも重ねた愛らしいドレスが、彼女によく似合っている。友人たちと楽しそうに話しながら、ときおりこちらを見る。
そのたびに、殿下の口元がわずかに緩んだ。
――私は、目の前にいるのに。
やがて曲が終わり、殿下の手が離れる。
「レイ!」
弾んだ声が聞こえ、アイーダがこちらへやって来た。
「次は、私とも踊ってくれる?」
「言うと思った」
「えっ、なんで?」
「さっきから、目がそう言っていた」
「うそっ。そんなに分かりやすかった?」
レイナルド殿下が笑った。
つい先ほどまで私と踊っていたときには、一度も見せなかった顔で。
二人が並んで離れていき、私はその場に残された。
何かを考えようとしても、何も浮かばなかった。胸の真ん中だけが、ぽっかりと抜け落ちてしまったようだった。
――今だけだ。
殿下の言葉が、頭の中で繰り返される。
今だけ。本当に?
卒業の日が来れば、殿下はあの笑顔をアイーダへ向けることをやめて、何事もなかったように私の夫になるの?
私はそれまで、ずっとこうして待っているの?
殿下の隣に立ちながら、別の女性に向けられる笑顔を見続けて、こんな惨めな思いを――
「ジュリア」
隣から声がした。
セドリックだった。
私は踊り始めた二人を見つめたまま、小さく息を吐く。
「……滑稽でしょう。私」
「どうしてそう思う」
「だって……」
唇を噛み、ようやく言葉を絞り出した。
「……あなたの言うとおりだったからよ」
◆
セドリックとともに王宮を訪れた、その翌朝。
「ジュリア。少しいいか?」
呼び止められ、足を止める。
昨日とは違い、レイナルド殿下の表情には疲れが見えた。
「もうすぐ授業が始まりますので。ここでよろしければ」
「……昨夜、ずっと考えていた。俺が身勝手だった。君に甘えて、君の立場まで傷つけた。本当にすまなかった」
殿下が頭を下げ、思わず息を呑んだ。
この方が、私に。
長い付き合いの中で、殿下がこれほど素直に非を認め、私へ頭を下げる姿など見たことがない。
やがて殿下が顔を上げた。
「ただ……一つだけ分からなかった。君が、何に一番傷ついていたのかだ」
「……」
「何年も婚約者だったのに、俺は君が何を思っていたのかさえ知らなかった」
青い瞳が、まっすぐ私を捉える。
「だから、教えてほしい。もう一度だけ、機会をくれないか」
ずっと欲しかった言葉だった。
この方に、そんなふうに見てほしいと思っていた。
「……もう、国王陛下からは婚約解消のお許しをいただいております」
「まだ正式には解消されていない」
「だからこそです。ここまで話が進んだあとで婚約を継続すれば、王家がアルバイン侯爵家の申し出を退けたと受け取る者も出るでしょう。すでに殿下とアイーダ嬢の噂も広まっています。今さら何事もなかったことにはできません」
「俺が責任を取る」
「……殿下?」
「何事もなかったことにするつもりはない。俺が蒔いた種だ。父上にも重臣たちにも、俺から説明する」
どうして。
今になって、そんなことを言うの。
あれほど欲しかった言葉なのに、胸が苦しくなるばかりだった。
もっと早く言ってほしかった。
私がまだ、殿下のわずかな変化だけで喜べていた頃に。
今になって引き止めるくらいなら、いっそ何も言わずに婚約解消を受け入れてくださればよかったのに。
「レイ!」
背後から明るい声が響いた。
アイーダがこちらへ駆け寄ってくる。
「昨日はありがとう! 見て、さっそくつけてきたの。似合ってるでしょう?」
彼女の髪には、桃色の花をかたどった髪飾りが揺れていた。花弁の中央には、小さな宝石が朝の光を受けてきらめいている。
それを見た瞬間、胸の奥に残っていた熱がすっと引いた。
ああ、これも殿下が選んだのだ。
きっとアイーダの髪の色や、普段の服装まで思い浮かべながら、彼女に似合うものを考えて。
レイナルド殿下が何も答えないことを不思議に思ったのか、アイーダが首を傾げる。
それから私に気づき、ぱっと笑った。
「あ……ジュリア様。おはようございます」
「おはようございます、アイーダ様」
軽く会釈をして、私はレイナルド殿下へ向き直った。
「お話は以上でしょうか」
「ジュリア、まだ――」
「授業がありますので、失礼いたします」
もう一度だけ頭を下げる。
そして私は、二人に背を向けた。




